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ざっくりハンナ・アーレントその①

哲学カフェでハンナ・アーレントをみんなで話しました。その時にいろいろ調べたりしたこと。

その1ハンナ・アーレントの生きた時代を知りたい

国民国家の始まり

16世紀~17世紀、ヨーロッパでは絶対君主制で、権力は王様とか領主が持っていました。絶対王政とかいいます。領主様がいて領民がいるという関係ではっきりしたピラミッド状の階級が作られている・・・と教科書には書いてあるかなと思います。
「私は日本出身です」というよりも「相模の国の出身です」とかそういう感じ‥。この話はハンナ・アーレントだから、ヨーロッパで例えるべきか!
ええとアーレントは「ハノーファーのリンデンで生まれ・・・」という感じですね。「ドイツの・・・」ではなく。
民族の違いより信仰の違いで住むところや生活様式が違ったようです。まあそれはそうか。
キリスト教だって、宗派によって全然違うものね。私たちはいっしょくたにしちゃうけれども。
ようは「国」っていうのはあってももっとぼんやりしている感じ、だったんですよね。
それがアメリカの独立戦争とかフランス革命を経て「市民」という考え方が生れました。
そののち、「国民国家」という考え方が浸透するのはナポレオンによってです。ナポレオンはヨーロッパじゅうに遠征しますが、その時に兵士に伝えたことが「世界にこのフランスの自由、平等、友愛を広げる!」ってことだったんです。
ナポレオンの通ったあとは伝染病のようにその考え方は広まったんだ、って書いてありましたけど、どんだけなの・・・。それまでは騎士がいて、騎士が領民を守っていたのだけど、国民が軍隊に入って「自分の国を守るために自分が武器を取って戦う!」っていう意識を民衆が持つようになったそうです。
なるほど!

ドイツの国民国家「NationState」

さて、ドイツにもどります。
ドイツは当時まだ小国の集まりです。たくさん王様がいて、騎士が領主を守る的な。
これがナポレオンによって崩されます。その中のプロイセンは領土の半分をナポレオンに奪われます。
そこにフィヒテという哲学者がいたんですけども、ベルリンの学士院で14回!も「ドイツ国民に告ぐ!!」という講演を行いました。これが「ドイツ国民」という言葉おを使い始めた始まりです。
今まで「ドイツ国民」という言葉を使った人はいませんでした。
人々の意識は「プロイセン人」とか「ハバリア人」とかでそれらをまとめて「どいつ?なんだそれ?」という感じだったんですね。
ナポレオンがプロイセンをぼこぼこにして、ベルリンを占領したことで初めて「われらドイツ人」という意識が高まりました。
ナポレオンがボコると、その通ったあとには「自由、平等、友愛」が広がってかつての身分制度ではなく、自分たちの「NationState」(国民国家)を作ろう!という動きが起きます。ナポレオンやばい。
そして、主権を国民が持つ。ちなみに国民というのは、言語や文化、宗教や人種が同一なものだ!ということを急に意識するようになったんです。ナポレオンの活躍と、産業革命(労働者)で国民国家の考え方は広まって英国に追いつくように工業化と軍事化が進んで行ったのでした。
ナポレオンは結局ロシアまで行って負けるわけですが、そのあとで過去の領主たちが自分たちに主権を取り戻そう「昔がよかった!」と思ってもそんなのもう元には戻らないわけです。
そこで思いました。「そうだ!ひとつの民族に一つの国がいいのではないか?」

ビスマルクの爆誕

さっき書いたけれど、このあたりはゆるーくふわーっとつながっていたんです。だから、「そうだ!言葉が一緒で信じてる宗教が一緒だからひとつの国じゃない?」という考え方がなんとなく広がりました。で、できたのがドイツ連邦。(ゆるふわ)。
だって各国の(元)王様たちは「議会制民主主義だと?はあ?!」って感じだもんね。とはいえ、産業革命です、帝国主義です世の中は。英仏はガンガン国力を上げてなんならこの二国で世界分割する?といわんばかりの状況。ゆるふわドイツ、時流に乗り遅れております。
そこで出てきた人がビスマルク。
ビスマルクはプロイセンの宰相です。1862年、彼は就任演説でいいました。
「現在の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」
彼は(元神聖ローマグループの中で)オーストリアを除くドイツの諸国家と結ばれた「ドイツ関税同盟」を基盤にプロイセン主導の国家統一を成し遂げました。これが「鉄と血」だ!
ビスマルクはすごかった。たぶんすごかったと思う。
プロイセン中心に諸外国と戦闘して、なんとフランスの象徴であるベルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ帝国の戴冠式をしちゃうんですからね。
英仏に追いつけ、追い越せ!で経済的にも協力な国を作るため、国民国家の形成をします。まずは当時最先端の製鉄所を作って協力に工業化を推し進めたり。ドイツは急速な工業化で労働者の不満が高まると社会主義者の弾圧をしたり、それはもうリーダーシップを持って国民国家戦略を押し進めたのでした。
そこがね上からの国民国家が米英仏と違うとこっていうかなんていうか。どっかの極東の国とリンクしちゃうっていうか。

余談

1871年できたばっかの明治政府は欧米諸国に大使節団を送ります。岩倉使節団ですね~~
ここでビスマルクと会見した使節団。ここでありがたい?アドバイスを頂きます。「国際関係の基本は弱肉強食だ!!!」
ビスマルクは当時の日本の使節たちに強烈な印象を与えたのでした~

第一次世界大戦に

そうこうしているうち第一次世界大戦がはじまります。
その時のドイツ帝国はどうだったかっていうと、なんていうか、詳しく言ってもここではしょうがない(ハンナアーレントまでいきつかない)のでざっくりいいますと、内乱が起きて帝政が崩壊。そのどさくさに紛れて議会がちょっと力を持っちゃって、社会民主党が勝手に共和国を宣言しちゃうんでした。
そしたら、戦争も継続できないわ、なんだか気づいたら帝国終わっているわということで休戦に。
1919年ヴァイマル共和国が誕生します。そんで、基本的人権を認めたりしたヴァイマル憲法が出来上がるんですよね~。ていうか、共和国はどこへ?
ぐだぐだな情況です。

それで、ベルサイユ条約へ。ドイツは莫大な賠償金、国土の減少、なんか制約いろいろ・・・と踏んだり蹴ったりの状況になります。戦に負けるって大変なことなんですよね。
で、新しくできた共和国はもめました。この賠償金は誰のせい?国力がた落ちは誰のせい?内戦したのは誰のせい?みんながみんなひとのせい。
「だって、あの時はこうするしかなかった」
賠償金の支払いに苦悩するドイツ共和国。
1925年ヒンデンブルグ大統領が就任して国内ようやく安定したかな?と思ったら、1929年世界恐慌。
借金の返済は求められるし、失業者600万人。やばいね。
そうすると国の人々はこう思います。「借金返してる場合じゃないだろ。俺たち飢えているんだよ!誰のせいだと思ってるんだ。他の国と仲良く?そんな場合じゃねえ。俺たちの国の利益を守るべきだ!仲良くする前に経済立て直せ!」
そんな気分の時に誕生したのが例のあのひと。ナチス政権なのでした。

ハンナアーレントが生れたのは1906年日露戦争が終結した翌年です。列強各国が覇権を世界中で競っていた時代です。





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