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MUCHAミュシャと日本って相性いいのよね、という話。

※この記事は「MUCHAミュシャ グラフィック・バラエティー」展をもとに書いています。
アール・ヌーヴォーを代表する作家、アルフォンス・ミュシャ。(チェコ語ではムハ)

1860年現在のチェコに生まれました。当時はオーストリア帝国。ハプスブルク家ですよ、みなさん。

28歳でパリに行き、美術学校に通いながら印刷所で働きます。本の挿画などを手がけ、1895年に舞台女優、サラ・ベルナールのために手がけた公演ポスターが大ヒット。

ここから一夜にして、アール・ヌーヴォーの一翼を担う人物になりました。まさに、スター誕生(?)

そんなミュシャをしばらく追っかけていきましょー!

お付き合い、よろしくお願いしまーす✨

ミュシャの生きた時代①〜パリ万博〜

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ミュシャが生まれたのは1860年オーストリア帝国、モラヴィアです。
オーストリア帝国はしばらくしてオーストリア=ハンガリー帝国になりました。ちなみに、この帝国の別名はハプスブルク帝国といいまして。つまり、この辺りミュシャが生まれた地ハンガリー、モラヴィア、ボヘミア…は常にあちこちから侵略を受ける国。

この後も一時期はスウェーデンに、またドイツに、はたまたオーストリアにと侵攻されて、1918年、チェコスロバキア共和国として独立しました。

うん?これどっかで聞いたことあるぞー!そう。
スメタナであり、ドヴォルザークです。みな、同じチェコスロバキア。(地域は違いますが)

ミュシャ(ムハ)は19歳でウィーンに行き、デザインを勉強しはじめました。しかし、2年後失業。そのあと資金援助を受けてミュンヘンの美術学校を卒業します。そして、28歳でパリへ。

ところで、日本が最初に参加した万博は1867年のものです。幕府、薩摩藩、佐賀藩で参加しました。ちなみに、薩摩藩は琉球国として独立して参加!!喧嘩売ってんのかと幕府と大揉めしてます。
流石にこれはミュシャも知らない。
けど、この時に包装紙として使われた北斎漫画が一大ムーブメントを巻き起こしジャポニズムの契機になり、パリに初の日本美術商が生まれたはず!

その後、1889年のパリ万博はエッフェル塔を作り始めた時の万博ですよ!ここでミュシャはチェコ館のデザインを依頼されてますね。(日本は不参加)
その次。1900年の万博で大規模な古美術の展示をして、世界はジャポニズムを知るんですよー。
展示場所は、「フランス領以外の植民地」エリアでした。
ヨーロッパにかぶれた喫茶店を政府主導でやって、散々な評価を得たり、日本政府自身が後援をしていない日本大道芸の独自興行を取り締まろうとしたり、(そして怒られています)日本のグダグダは今も昔も変わらないって感じ。

アート史的には第一次世界大戦(1914年)まではアール・ヌーヴォーが世界を席捲していたころ…いわゆるラリック的なものとかがもてはやされていたんですよ。
ミュシャもこの風に乗って一気にスターダムに駆け上がったっていう感じですね!


ミュシャの生きた時代②〜祖国を想うこと

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パリ万博の少し前、1895年女優サラ・ベルナールの劇場公演のポスターを描いたことで、一夜にしてパリの寵児となったミュシャ。
タバコ用巻紙JOBなどのポスター制作を始めました。これもまた大人気。ミュシャのポスターは店頭用と販売用(小さいもの)の2セット作られるようになりました
すごいですねー!!

1900年のパリ万博の話を前回しましたが、ミュシャが手がけたオーストリア=ハンガリー帝国館とスラヴ民族を主題にしたボスニア・ヘルツェゴビナ館は大盛況で、銀賞を受賞し、スラヴ民族の団結と自由と独立に向けて戦う画家になりました。

この頃、世界ではロシアで血の日曜日事件(ロシア帝国崩壊のきっかけ)があったり、第一次モロッコ事件(ドイツとフランスがめちゃくちゃ仲悪くなる)とか、なんだかだんだんきな臭くなってきたぞ!!と言う時代。
日本も日露戦争があったりして、まあ欧米列強の植民地奪い合い時代ですよね。

アメリカではこの間、南北戦争後のすさまじい工業化をしている時代です。
活気があって、開拓がすすみ、資本が潤沢に投下されています。

ミュシャもアメリカにスポンサーを見つけてアメリカで講演したり作品作ったり、かなりアメリカでの活動を増やしています。
これは、祖国建国のための資金作りでした。
しばらくは泣かず飛ばすでしたが、シカゴでスポンサーが見つかって、アメリカでスラヴ民族の共同体を作ったり、20枚の大作スラヴ叙事詩の制作援助もしてもらったのですよー。

さて、ミュシャの祖国建国への思いはどうなったのでしょーか!

ミュシャの生きた時代〜祖国に想いを。。。

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さて。ミュシャは1910年、祖国であるプラハ(まだオーストリア=ハンガリー帝国だよ)にもどりました。

このころ、ロシア、フランス、ドイツに挟まれたこの辺りはそれぞれの民族が自治をしたい、という運動をしていました。
もちろん、ミュシャだって、祖国のために「スラヴ叙事詩」っていう20枚の大作を作ってますよ。そして、もーちーろーん!その作品はスメタナの「わが祖国」にインスパイアされた作品…!!

ところでこの頃の中欧。めちゃくちゃテストに出るとこです。
「ゲルマン主義」「セルビア主義」そして「スラヴ主義」
自分たちを認めてほしい、と民族運動が始まり、周辺はヨーロッパの火薬庫だの、サラエボ事件だの、第一次対戦だの…。
どさくさまぎれに連合国側がチェコの独立を認めたんですよ。
それがきっかけでありとあらゆる中欧の国々ができました。
のちにチャーチルはいいました
「ハプスブルク王朝が滅亡しなければこんな永い苦難の歴史を歩まなかったであろう」

他人事ですか…!!あなたたちのせいもあるのでは?
まあ、いいです

そんなこんなで、1918年チェコスロバキアは建国されました。ミュシャは首都プラハの市庁舎も、紙幣も、切手も、ありとあらゆるものをデザインしました。

ちなみに第一次世界大戦あたりの日本は大正時代の最初。ラッキーとばかりにヨーロッパに戦争しに行ってますよー。ちなみに、第一次大戦のパリ講和会議では日本は「人種差別撤廃」を訴えています。今だったらちょっと考えられない!

ちなみにアメリカ、イギリスに反対されて否決しましたけど。

さてさて、祖国を持ったミュシャ。ますます祖国にスラヴ民族のために命燃やすぜ!
しかしそんなこんなで火種はあちこちに残ったまま。
どうなることやら。

続く。

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