18.余白(1)主役の明示 - i
難しい話が続いてしまいました。
今回は、直感的に一目で分かる工夫の話をしたいと思います。
とはいえ、非常に理知的な工夫の話です。
テーマは「余白」です。
これは特に日本美術史を学んだり、デザインの基礎を学んだりする方には周知の事実なのですが、「余白」は、たまたま余って白く残されているどうでもよいところ、では、全くないものです。
余白は、誰が主役か、どこが最重要か、を、直感的に伝えることのできる非常に重要な工夫です。
(さらには、登場人物の気持ちが過去にあることを示したり、未来にあることを示したり、あるいは観者に対して何らかの感情の余韻を持たせたり、いろいろな役割を果たすことができます。これは別の機会に。)
例1:展覧会では、目玉作品は、一つだけ、離れて、展示されています。
例2:ハイブランドのポスターは、とてもシンプルです。一方、スーパーのチラシはごちゃごちゃしています。
用途や目的が異なるので、伝え方が異なるわけです。
そして私たちは、知らず知らずのうちにそうしたイメージ文法とでも呼ぶべきものをうまく使い分けて、また読み分けて、生活しています。
それでは、「余白」に注意を払いながら、名画の世界を覗いてみます。
1.ボッティチェリ
(1)「主人公」はどれ
同じ画家(ボッティチェリ)の、同じ美術館(ウフィツィ美術館)に所蔵されている作品です。
制作年代に大きな違いはなく、それらの差は10年以内です。
「主人公」はどれでしょう。
ぱっと見て、それぞれ1秒でお答えください。
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答えは以下の通りです。
(2)「余白」あり
A も Bも、「主人公」は大きく、中央に位置しています。
そしてその周りに「余白」があるということが見て取れると思います。
AよりもBの方が余白が広いので、Bの方がヒロイン性が高く見えます。
主人公を示すこの種の「余白」とは、「他者が侵入できないエリア」のイメージが正しいように思います。つまり、「主人公」の持っている「絶対領域」あるいは「自陣地」のような空間です。
(3)「余白」なし
一方で、Cでは、中心に大きく描かれる人もいませんし、特別に「余白」で囲まれている人物も、見当たりません。
強いて言えば、右端で玉座に座る人とその取り巻きたち?。
しかし、左端の裸体の女性も同じくらい目に付きます。
真ん中あたりで引きずられている半裸の男性とその周囲の一団も、同じくらい気になります。
実は、Cは、中心人物や主人公がいないパターンの絵画です。
C は、「アペレスの誹謗」という古代由来の特殊なテーマを扱ったペダンチックな絵画で、「真実」「欺瞞」「憎悪」などの概念を表す擬人像らが描かれており、内容の読み解きは非常に難解です。
2016年の東京都美術館の「ボッティチェリ展」にて出展されていた作品なので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。
このように、同じ画家でも、主題や作品の意図によって、
主人公を表す「余白」を巧みに使い分けています。
2.聖母被昇天
今度は、同じ主題の絵です。
「余白」の使い方に、どのような違いがあるでしょうか。
(1)主題「聖母被昇天」と作例
「聖母被昇天」とは、聖母マリアが亡くなることを指します。
聖母マリア様は、神の子イエスをお産みになった方なので、人間界の中にいるとはいえ非常に特別な存在です。ですから、教会は、聖母マリアの死を、キリストのように自ら「昇天」するとは言わないにしても、特別に天からお迎えが来て、天へ運ばれて昇天したのだ、と説明しました。
このことを「被昇天」(=昇天を被る、昇天を受ける、昇天される、の意。「被」は受身を表す)と呼びます。
というわけで、聖母マリアの天への旅立ちの場面です。
当然、主人公は聖母マリアとなります。
それぞれ、「主人公」はどれでしょうか。
ぱっと見て、それぞれ1秒でお答えください。
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↓
↓
答えは以下の通りです。
E は、ほんの少し、迷われたのではないでしょうか。
(2)「余白」あり
主人公の周りに「余白」があるのはDとFです(下の図の黄色い円を参照)。
DとFでは、Eと比べて、聖母マリアを認識しやすかったのではないかと思います。
Dでは、聖母マリアは、画面の中央に位置しており、また正面性が高く描かれています。特にその上半身は、黄色い眩い光を背景にして浮かび上がっており、遠くからでも視認しやすく、非常に目立っています。
マリアのための「余白」(上の図の黄色い円)、すなわち、聖母マリアの領域を示す大きな円は、下は天使らによって、上は枠組みによって区切られていて、黄色く輝く光の大きな色面として「正円」を描いています。
聖母マリアを受け入れる神が上方に飛んできていて黒影を斜めに作っているので(上の図の黄色い点線)、マリアの光の大きな円を侵犯しているのですが、それでも「正円」の光が、神よりも上にあたる枠組の端までしっかりと及んでいるので、マリアが主役であることを疑わせることはありません。
また、F では、聖母マリア(の一団)がはっきりと区切られています。
こちらも聖母マリアは光に包まれており、モチーフの配置のみならず、色を用いることによっても、マリアに「余白」を与えていることが判ります。
(3)「余白」なし
E では、聖母マリアのための「余白」がありません。
その分、聖母マリアの視認性という観点から言うと、かなりわかりにくくなっています。
下の写真をご覧ください。
ことに、マリアを囲む天使の足と下にいる使徒たちの頭部が、連続的に配置されていることが、マリアを画面の群衆の中に埋もれさせてしまう原因を作っています。(それはおそらく、画面が縦長でないことに起因しているかもしれません。)
(★、筆者によるトリミング加工あり)
マリアが特別な光で囲まれているわけでもないので、色調の面から言っても、このマリアのための「余白」(=「自陣地」)は作られていません。
ですから、他の作例と比較した場合、このマリアは、一目ですぐわかるというようには描かれていないことがわかります。
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このように、描かれている場面は同じであっても、描き方によって、
聖母マリアの際立たせ方にはヴァリエイションがあるのです。
3.二項対立
主人公を一目で伝えるこのタイプの「余白」は、主人公の有する「絶対領域」あるいは「自陣地」のようなエリアだとお話しました。
それが明確にあらわれるのは、「二項対立」構図の時です。
下の図のG、H、I をご覧ください。
真ん中がポカンと無駄に空いているようには見えないと思います。
真ん中は、「自陣地」を同量だけ持っている二つの拮抗する主人公がいて、その力が出会い、拮抗する、緊張感のある場に見えると思います。
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(G)は、何度か来日したこともあるボッティチェリの<受胎告知>です。
左側の大天使ガブリエルのエリアと、右側の聖母マリアのエリアが、ちょうど左右半々で、対比的に描かれています。(左:室外、背景には遠景が広がる、飛翔する、目を開ける、床は円形模様/右:室内、背景は閉じている、身をかがめて座る、目を閉じる、床は四角形模様)。
この二人は、どちらかが主役の「主・従」ということではなく、「主・主」として存在しています。
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(H) は、ティツィアーノの<聖愛と俗愛>と呼ばれる作品です。
タイトルから判る通り、二つの愛の姿が二項対立的に描かれています。
謎も多いのですが、右側の裸体の女性は神聖なる愛を表しており、左の花嫁姿の女性が世俗的な愛を表しており、真ん中のクピドがその愛をかき混ぜているという解釈が一般的です。
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( I )の俵屋宗達の風神雷神図屛風も、「真ん中が余っていて空いている」(=真ん中に[無駄に余ってしまった]余白がある)わけではありません。左の雷神と右の風神がそれぞれに「自陣地」を有している(=主人公を示すための、それぞれ自分自身の「余白」を有している)、だから真ん中が金箔のみのエリアになっている、そう認識すべきものなのです。
横長画面はこのような二項対立構図と親和性が高く、
例えば「受胎告知」などは、他の主題と比べて、
横長で描かれることが多くなっています。
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次回は、余白の意味機能を、別の観点からもう少し詳しく見ていきます。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
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