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日本の初等教育における英語とプログラミングについて

前書き

現在の日本全国津々浦々における公立の小学校では、既に英語の授業が「総合学習」の教科の時間内で行われており、プログラミングの授業も来年度から始まる予定だという。政府としては「国際人」(日本人の大半は国際ホニャララなるものについては1945年の敗戦以降の対米感情をもとにしか考えていないので、すなわち「英語を使える人」)を育てたい、デジタル庁も発足したし最先端のIT技術を使いこなせるエンジニアやイノベーターとして活躍できる人材も欲しいから十数年以内に即戦力になれる人材を育てたいという魂胆なのだろう。しかし、日本国外ではなく国内の潮流やそれぞれの教育における本質を見ても、政府の目論みが成功するとはとても思えない。皮肉ではあるが、日本全国の小学校(や既にプログラミング教育も始まっている中学校)をキリロム工科大学に仕立て上げようとでも思っているのか?*
*恐らく、政府は日本を国民が英語とIT両方に精通してイノベーターを多く生み出してきた(というイメージを持たれる)アメリカやイスラエルのような国に変革したいと思っているが、現状の日本の産業構造や人口ピラミッドを考慮すると人材供給源のインドにもなれないどころか、アルメニアやキルギスやモルドバのようなIT立国を目指せるようなポテンシャリティも見えない。精々件の大学の現状(作者の方には無断リンクで申し訳ないが下記参照)を国全体でやるようなオチだけが想定されうる。

英語教育の理想と現実-オーラルコミュニケーション優先で良いのか?

私としては、将来はともかく、現状はまだどうにか多くの日本国民が日本語で情報に触れることができる状態であることを考えても、日本人の児童に英語ほか日本語以外の言語を第二言語、第三言語などとして教育するのであれば、小学校では日本語(国語)を第一言語として文法や現代文の読解を中心に教え、中学校に入学した段階で英語を文法を中心に教え始めた方がよいのではなかろうかと考えている。

文科省などの官僚らは、自らの理想とする「国際化」された日本人には、観光地で客引きのために現地人が使うようなレベルではなく、英語を第一および第二言語として使う人々と会議をしたり彼らにスピーチしたりするための、いわゆる「ビジネスレベル」の英語能力-Lingua francaならぬLingua anglicaとして英語を使う能力を持つことを暗に求めているフシがあると思う。感染症が収まった後に「観光立国」を再度打ち出して、「海外のリゾート地などで観光客相手に観光業従事者が行っているような」レベルの英会話を国民にできるよう仕込むつもりだというなら話は別だが。
そこで、オーラルコミュニケーション(OC)であってもそれを実現させるにはやはり決まり文句の掛け合いではなく、主述の関係や一文の構造がはっきりした言葉を構成して発言できる能力が求められるため、やはり文法は避けては通れない。もちろん、言語というものは人間の間で用いられる以上可塑性があり「文法」も決して絶対かつ不変ではないことは念頭においているが。
そして、第二言語として英語をそのレベルで使用するなら、第一言語である日本語で文法の理解や読解(インプット)の能力を高め、英語の文を見聞しても感覚ではなく自分の頭で日本語であってもいいから解釈できるようにする能力を養う必要があるのではなかろうか。

しかし昨今の英語教育は、内情はよくわからないが英語はおろか日本語の文法やボキャブラリーや読解などを叩き込むよりも前に、英語ではOCを優先的に子供に仕込もうという算段だという。まずは日本国内の現状はさておき、官僚他多くの日本人が現在でも想定している「外国人」たる、白人で英語ネイティブのexpatsらを相手に英会話がネイティブスピーカー並に話せることを期待しているのか。

それでも、大概の日本人児童の家庭は和英のバイリンガルや英語モノリンガル(単一言語)などの言語事情がある家庭でもない限り、日本語モノリンガルの家庭が大半である。ここで家庭や学校で用いる第一言語の土台が脆弱なまま、第二言語以降の言語を会話のみ仕込んだところで、HelloやNice to meet youなどのような決まりきったフレーズ(もしくは“Let’s going”のような誤りがあり日本人の間でしか確実に通用しない表現)しか覚えられず、かつその言語や第一言語の使用も拙いために、意思疎通が困難なセミリンガル*の児童が現れるのではないだろうか。そもそも現行の教育制度では英語教育に割く時間が日本語(国語)教育より少なく設定されているのもあって、いくら思春期前に英語教育を始めたところで大概の児童はセミリンガルまでにも至らず、結局日本語モノリンガルとして終わる可能性が高いが。
*セミリンガルについては下記の記事を参照されたし。キツいタイトルではあるがなかなか思わせられるところがある。余談だがこのブログの記事は、エロネタ以外は「異世界転生」として日本国外で就職を試みる日本人の話などそこそこ面白い…。

プログラミング教育とかけ算の順序問題-もしくは「さんぽセル」ともしもオードリー・タン氏が日本にいたら

プログラミングもまた、日本の数学教育の現状と社会の構造を見る限り末端のプログラマー労働者を増やすだけに終わるのではないかと諦観している。むしろ、プログラミングで学べると謳われる読解力と傾聴力に論理的思考やクリエイティビティ、問題解決能力などを育成するには、現状の算数の文章題を何度も児童に解かせる方が有用ではなかろうかとまで考えている。
理由の一つは現行の教育現場における「かけ算の順序」問題である。プログラマーの間でもこれに関してコーディングの面から考える記事があるが、問題の本質はそこではない。

そもそもこれは「2×3」と「3×2」の結果は同じであるのに、一部の教員は「必ず2×3と書かなければいけない」ということで「3×2」と書いた児童を減点しているということであって、コードでどう過程を表現できるかの問題ではない。「円周率は3」「徒競走の手繋ぎゴール」のような「ゆとり教育」の影響と後ろ指さされそうな都市伝説じみた話であるが、この思考はプログラミング教育にも影響をもたらしかねないと警告しておく。例えば、決まりきった構成や文法でコードを書くよう教員が児童に強要し、同じ処理結果が出るもののより短時間で処理できたりリソースの消費を抑えられたりするコードを書いた児童は減点されるとか。これではプログラミングの本質的な学びが得られるわけがない。せいぜいプログラミングができたとしても、大半は現在の悪徳商法として知られつつある高額なプログラミングスクール*の卒業生のような顛末になるか、さもなくば下請け企業の末端プログラマーのようになるかであろう。政府は児童らが上流工程のストラテジストやエンジニアとして育つよう目論んでいるのかもしれないが、生憎そうなる人材は少ないと言ってよかろう。
*悪徳商法としてのプログラミングスクールについてはこれまた無断リンクで申し訳ないが下記を参照されたし。

また少し前に「さんぽセル」という商品を小学生が開発したところ、大人たちが「子供の筋力が弱くなる」「甘えるな」とバッシングしているのを見るにつけ、政府が一方で期待しているGAFAMのような競争力の強い大企業を作れるイノベーターもこの国では芽を踏み潰されて育たないのだろうと確信した。昨今の渋谷あたりに本社がある日本の通称「ITベンチャー」?知らん。

これと同様に、日本のデジタル庁もまたその迷走ぶりもともかく、政府はそこに台湾のデジタル大臣オードリー・タン(唐鳳)氏のような人材がやってきて大改革をしてくれることを望んでいるようだが、日本ならこの状態では仮に彼女のような人材が官僚や公務員として現れても、アイデンティティからアイデアまで何から何まで槍玉に上げられて叩き潰されるのではないかとしか想像できない。
それ以前に、一部では「失敗」と称される2000年代前半のIT革命以前にも、日本は官制のIT人材教育計画「シグマプロジェクト」(下記リンク参照)で大いにコケたことがあり、日本国産のIT製品についても検索エンジン「千里眼」やあのWinnyなどが潰されてきたことも思い出しておきたい。それ前後や以降の惨状?そんなものどもももう知らん。
シグマ計画 - (コ)の業界のオキテ

そう考えると、そのIT革命を「イット・かくめい」と読んだ輩が今でものうのうと政界のご意見番を務めており、企業もIT化に乗っかりきれずに衰弱していく中、今更DXを叫ぼうとも「デラックス」だの「デー・エックス」だの「デー・ペケ」だのとしか言えない人に冷たくあしらわれる未来しか見えてこない。この体質が官民産学のあらゆるセクタ全体に蔓延る状況でプログラミング教育を行ったところで、日本に何の国益があるというのか?どのようなイノベーションが生まれるというのか?

後書き

結局のところこれまた悲観になってしまうが、日本政府は自国がもう衰退しか道筋がないから、若者には末端の作業員でもなんでもいいから海外に出て稼いでもらおうということでもあるのか。よもや自国で内需を拡張するために末端の作業員を増やそうとでもしているのか。どうにも第二次世界大戦末期の「産めよ殖やせよ」のように、現在か数年前の潮流を誤解して即戦力を増やすつもりかとも思えてしまう。

英語にしろプログラミングにしろこれらの教育が、児童の成長や社会情勢、それにただでさえ非正規雇用教員の増加や教員の過労などで疲弊しているという教育現場の現状をも見据えて、中長期的なビジョンに基づいて行われるとはとてもではないが思えない。

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