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【第1話】フーガ

(あらすじ)

操は25歳の漫画家。隣の蜂鳥家でおばあさまと暮らしている幼なじみの芹香とのんびり緩慢な日々を過ごしている。
蜂鳥家は名だたる有名人やVIPを顧客として抱える神がかりの家だ。毎日ひそかに要人たちが家を訪れる。芹香はこの家の後継者として育てられてきた。
ある日、操と芹香の共通の親友で、高校時代のクラスメイト鹿島ナリコから操の家に電話がかかってくる。操は、寝込んでいる芹香をおいて一人で彼女に会いに行くが・・・。

☆☆☆


「ねえ、今度はゆっくりと下からなめてみてくれる?」

真っ白な舌が、僕のリクエスト通りに下から上へと這い上がる。
くるっとまるめた舌先で、今にもこぼれ落ちそうになっている白い液体をすくいあげる。
「もう疲れてきたんじゃない?休む?」僕はうつむいている芹香に声をかけてみた。

「だーいじょーぶ」芹香の口の端から白い筋が伝って襟元のレースに落ちた。
「じゃあ、あともう少しだけ続けてもらっていい?」
芹香は返事の代わりに、僕に向かってウインクしてからぺろっと白い舌を出してみせた。

僕は椅子に座り直し、背筋を伸ばした。
再び彼女の顎のラインを捉えようとしたところで先が丸くなりすぎた3Bの鉛筆に気づいて、予備のものと交換する。
僕は鉛筆を構えて、スケッチと芹香を正面から交互に眺めてみる。
そして、芹香に気づかれないようにため息をついた。
連載の原稿の締め切りはとうの昔に過ぎてしまっていた。
昨日も、出版社の担当者から、原稿の進捗を気にするメールが来ていたけれど、タイトルで内容がだいたい想像できたので開かずに放置したまんまだ。
僕はスケッチを続けながら、その事を思い出して頭を何度か横に振った。
とにかく、今はこれを描かなければいけない。

「だめだわ、操」芹香が突然口を開いた。
「もう溶けちゃって限界だわ、これ」そう言って片手に持ったソフトクリームを上に掲げる。はずみでたまりかねたようにソフトクリームの塊が、もったりと床に落ちた。
僕は立ち上がった弾みで、机にぶつかった。鉛筆が数本、からんからんという高い音を立てて床に転がった。芹香の右手のソフトクリームはもうコーンしか残っていなかった。フローリングの床は溶けて崩れ落ちたクリームで濡れて光っている。
「冷凍庫にまだあんだろ?取ってくるよ」と芹香がドアを指さして言った。
僕は片手を振りながら部屋の隅の濡れた雑巾を持ってくると、芹香のところまで行き、床をきれいに拭いた。
「今日はここまでにしよう」と僕は雑巾を畳みながら言った。
「まだ出来るよ。信者のひとたちが来るまでまだ時間があるしさ」と芹香は両手でピース・サインをつくって得意げに言った。それから湿ってぐにゃぐにゃになったコーンをあっという間にむしゃむしゃと食べた。
「今日はここまでにしよう」僕はもう一度言った。両手が砂糖でべたべたしていた。
「そろそろ原稿に手をつけないと、さすがにやばいから。ありがとう。助かったよ」
僕が机の上を片付けだすと、芹香は「えー、まだ食いたかったのに」とかなんとかぶつぶつと文句を言っていた。でもそのうち諦めて床に脱ぎ捨ててあった靴下を履くと、部屋を出て行った。
ここは芹香の家の離れにある洋室で、僕らが小さいときによくこの部屋でお手伝いさんと一緒に遊んだり、昼寝をさせられたりしていた。
あれから二十年以上経った今でもこうやって、いつでも好きなように使うことができた。
僕は台所で手を洗ってから、そのままコップで水を二杯飲んだ。
それから自分の家から持ってきた筆記用具とクロッキー帳をトートバッグに突っ込むと窓のところまで行き、カーテンを全開にして窓を開け放った。

昨夜からずっと降り続いていた雨は今はもうやんでいた。窓から雨で冷やされた風が、部屋の中に入ってくる。空は昨日とはうってかわって目が痛くなるくらい真っ青だった。庭木の枝の所々で、まだかろうじて残っている雨の粒が日光を反射し、きらきらと光っていた。
池のほうからは錦鯉たちが愉しげに水面を跳ねる音が時々聞こえてきた。
そうやってぼんやりと煙草を吸いながら庭を眺めていると、黒のレクサスが敷地へ音もたてずに入ってきた。後部座席の窓ガラスはスモーク・フィルムが貼られており、中の様子を見ることはできない。
中が見えなくても、乗っている人物はだいたい想像がつく。
誰でも聞いたことのある大企業の創業者か、引退した元政治家か、現役の政治家かのどれかだ。
その巨大な車は蜂鳥家の玄関の前で停車した。
すぐに運転席のドアが開くと、黒っぽいスーツを着た痩せた男が降りてきて後部座席の方へ来ると、男がうやうやしくドアを開けた。

後部座席から灰色のズボンに黒い革靴を履いた左足が出てきたところで、僕はすばやく窓を閉めると、サッシ窓に鍵をかけた。そしてカーテンを元通りにした。
誰が来たのかは、あとできっと芹香が夕食の時にでも喋るだろう。
彼は、蜂鳥家を司る神様からありがたい神託を受けにやってきた顧客なのだ。

さっき落とした鉛筆が一本、床に転がっていた。
僕は煙草を灰皿に押しつけて火が完全に消えたのを確認してから、鉛筆を拾い上げた。鉛筆の芯は軸の奥の方から折れてしまっていて、中が空洞になっていた。僕は床に頬がくっつくくらいかがみ込んで折れた芯がどこかに落ちていないか探した。でもどこにも見当たらなかった。
僕は諦めて、折れた鉛筆を他の鉛筆と一緒にペンケースにしまうと、もう一度煙草の火が消えているのを確認して、電気を消して部屋を出た。

この世の終わりみたいに口が悪いけれど、とてつもなく美しい女の子というものはこの世に実在する。
隣に住んでいる僕と同い年の幼なじみだ。
外見はというと、まず最初に目がいくのはそのヘアスタイルだろう。さらさらした前髪を眉の上でまっすぐに切りそろえ、栗色の長く細い髪は背中の下まである。この髪型は幼稚園の時からずっと変わっていない。街中ではよく人の目を引いてきたし、知らない人たちからじろじろ見られることはしょっちゅうだった。そのうえ、顔の作りが尋常ではないくらい美しいときているので、それはもう注目の的にならないわけがない。中学校の帰りに二人で一緒に街へ買い物に行くと必ず知らない人から声をかけられた。
一緒に写真を撮らせてほしい、と二人組の男子高校生や男子大学生のグループ、女子高校生のグループなんかも寄ってきた。
僕と芹香が着ている制服を見て、どこに住んでいるのか、と質問してくるスーツ姿の会社員もいた。
僕と芹香はたいてい学校から制服のまま遊びに行っていたので、「家まで送ってあげるよ」という大人たちも少なからずいた。
あるとき新宿の伊勢丹の前で、待ち合わせに遅れて行った僕を一人で待っていた芹香が大勢の人に囲まれて、警察沙汰になったことがあった。
彼女の美しさは、見る者の本能に訴えかけてくるものがある。
口さえ閉じていれば。
伊勢丹の前で、ちょっとした騒動になった時、警察を呼んだのは芹香本人だった。
そのころ僕は駅からの道を走って待ち合わせ場所に向かっているところだった。
もともとは学校が終わったら直接新宿に向かう予定だったのだけれど、僕の両親が急遽、北海道の知人の葬儀に参列することになったので両親を見送ってから出かけることにしたのであとで伊勢丹前で待ち合わせることになった。
僕が到着したときは、すでに芹香の周りには人だかりが出来ていて、人混みの隙間からセーラー服を着た芹香の姿がちらちらと見えた。
その日は4月だというのに真夏並みの気温になって、僕は半袖のTシャツにブルージーンズの格好だった。袖で顔を伝う汗を拭いながら近づいていくと、携帯電話を手にした芹香が見えた。
輪の中心に近づくにつれて僕は、はっとした。一人のスーツを着た男性が芹香の腕に手をかけて、笑ってなにか話しかけていた。

芹香は顎をきゅっと引くと、眉を寄せ相手を一瞬だけにらみつけた。その瞬間、周りの空気は薄氷のように一瞬のうちに張り詰めた。
「おまえ、いいかげんにしろよ?」
彼女は目の前のスーツを着た男性会社員に向かって笑みを浮かべながら抑えた声でこう言った。
「おい、何度も言わせるな。手を、どかせ。私にふれるな。頭の悪さは顔に出るってほんとうだよな」

僕と芹香は文字通り赤ちゃんの時から一緒に過ごしてきた。
僕の両親は大学の講義や民俗学の研究旅行なんかで忙しく、家を空けることが多かったので、蜂鳥家に預けられることが日常になっていた。母親は、僕を出産して三ヶ月も経たないうちに、蜂鳥家に僕を預けて授業に復帰したらしい。
蜂鳥家は、当主であるおばあさまと芹香が二人で暮らしている。他には住み込みのお手伝いさんが一人と通いのお手伝いさんが二人いる。三人とも僕と芹香が生まれる前からこの家で働いている。
芹香は、小さい頃からその類い希なる容貌の美しさで近所でも有名だった。
個人的な好みはひとまず横に置いて、関心を持たずにはいられない、そういう種類の美しさを芹香は持っていた。ほぼ二十年以上、一緒にいる僕ですら、時々目を奪われる瞬間がある。それは彼女がただ単におそろしいくらい整った容姿をしているからではない。僕は思う。芹香の身体から半ば暴力的に放たれている一定の波動の発生源が、その見かけの美しさから来るものではないことをまざまざと見せつけられるからだろうと。まるで暗く深い地中から掘り出された大地と歴史の力を蓄えた宝石のように。
僕の漫画にも何度か芹香をモデルにしたキャラクターを出してみようとトライしたことがあった。
でも、何度か試行錯誤した結果、芹香をモデルにすることは不可能だとわかった。
なぜなら芹香が持つ能力は僕のささやかな画力と表現力ではとてもじゃないけれど、手に負えるものではなかったからだ。机の前で締め切りまでの貴重な時間がただ無意味に過ぎていくだけだった。
僕は、力なく卓上カレンダーに目をやる。天井を仰ぎ見ながら受話器をあげて担当者に電話をかける。はい。ちょっと登場人物を変更したいんです。そうです、はい。今月中はちょっとむずかしいです。
そんなことが幾度となく繰り返された。

芹香は、僕の漫画を毎月(毎月原稿が完成して無事雑誌に掲載されれば、ということだが)楽しみにしている。そして読み終わると、いちいち感想を伝えてくる。
それが本当にどうでもいい内容で、そのたびに僕はいらいらさせられることになる。
雑誌に掲載された漫画は僕にとっては過去にすぎない。もう済んでしまったことなのだ。だから、掲載された自分の作品や単行本を、設定の確認とかキャラクターの相関図の見直しとか以外で読み返すということはほとんどない。見たところで、いまさらどうしようも出来ない粗に気づいて、落ち込むかいらいらするか、あるいはその両方に決まっている。心が暗くなる。健康に良くない。モチベーションがさらに低下するだけだ。

あるとき業を煮やした僕は、芹香に言った。
「あのさ、何回も言ってるけど、いちいち感想とか言ってこないでもらえる?はっきりいって不愉快なんだよ」
それを聞いて芹香はたちまち顔を輝かせた。昔から僕が腹を立てているとわくわくした顔になる。性格が悪いのだ。
「どうして?どうして?」と芹香が身を乗り出して言った。
「どうしてじゃないよ。おまえの感想なんか、僕には知ったこっちゃないんだよ」
「あらやあだ。貴重な一読者の意見じゃない。参考にしなさい。そしたらもっと単行本が売れる」
僕はそこら中の空気をかき集めたくらいの大きなため息をついた。
「あのね、僕の漫画はノーマルな青年漫画なの、いちおうは」と僕は我慢強く言った。
「それなのに、ヒロインのおっぱいが小さすぎる、だの、あそこまでやっといて最後までやらないのはリアリティーに欠けるだの、早くやってるところが見たい、だの、おまえの感想は偏りすぎなんだよ」
長いつきあいだ。こうやって話しながら、もう芹香がほとんど僕の話を聞いていないのはよくわかっていた。水の中にいるカエルに水をかけた程度のことなのだ。
「偏見くらい持ったっていいじゃない」と芹香は真面目な顔で言った。それからにやりと笑って言った。
「人間が持っている数少ない自由よ。大事にしないとね」






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