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【第5話】フーガ

「ところで漫画はどう?売れてるの?」とカシマが言った。
「まあ、なんとか食べてはいけてる」と僕は言った。
店内はさっきよりも混み始めていた。
僕はコーヒーの残りを飲んでしまうと、またなんとなくメニューを開いてドリンクやホットケーキの写真を眺めた。
「描くのって、やっぱり愉しいもの?」とカシマが言った。
「うーん」僕はフルーツサンドの写真を見ながらちょっと考えた。「まあ、結局は愉しいんだろうね。なんだかんだいってやめられないわけだし」
「すごいわね。尊敬するわ。心から。ほんとうよ」
「すごくはない」と僕は言った。「これしか出来ないからやってるだけだよ」
カシマはすぐに首を振った。
「ちがうわ。そうやってなんでも一人で抱え込んで、自分の頭で考えて消化して落としどころを見つけて、いろんなことを片付けていってるのがすごいって言ってるの」
「そんなたいそうなもんじゃない。ほんとに。この歳になっても出来ないことの方が圧倒的に多いしね。会社勤めなんて絶対出来ないって中学生のときにはもう自覚があったからね。僕には100パーセント無理だって」
「でも、操くんは初めて会ったときから常識的だし、とても社会性を大事にしてる人だと思ったけど?」
「それは比較対象が芹香だからだね。間違いなく」
僕が真顔でそう言うと、カシマは笑った。
「じゃあ、操くんも、自分がまともじゃないって思うわけ?」
「まともだったら、まず漫画なんて描いてない」と僕は言った。
カシマはまた笑った。
「ねえ、お腹すいてる?」カシマが唐突に言った。
実はさっきから空腹を通り越して胃がきりきりと痛み始めていたところだった。
「ものすごくすいてる」
「ねえ、中華食べない?この近くにあるホテルに美味しい中華料理のお店があるの。前に行ったことがあるんだけど、すごくおいしくてまた行きたかったんだ」
「いいよ。そこに行こう」
外はまた雨が降っていた。
僕らは店を出ると、傘をさしてホテルまでの道を歩いた。
ホテルに着くと1階にある中華料理店に入った。
案内された席について、僕らは真ん中の値段のコース料理を注文した。
そして食事中、料理のこと以外は話さなかった。
カシマの言ったとおり、料理はとてもおいしかった。
デザートに苺がのった杏仁豆腐が運ばれてくると、カシマはぱっと顔を輝かせた。
「一人で中華はちょっとハードル高いじゃない?操くんのおかげで助かったわ」とカシマは杏仁豆腐を食べながら言った。
「これも食べる?」と僕は自分の分の杏仁豆腐を彼女のほうにやった。
「いいの?」
「いいよ」
カシマは僕の分の杏仁豆腐もあっという間に食べた。僕は煙草が吸いたかった。
「ねえ、今日はまだだいじょうぶ?」とカシマが言った。僕はちょっと意外だった。
「いいよ」と僕は言った。もうすぐ9時になるところだった。
「うち、この近くなの。家でちょっとだけ飲まない?」とカシマが言った。
「僕はいいけど。カシマはいいの?」
「いいから言ってるのよ。もちろん。少し飲みたい気分なの。つきあってくれない?」
「わかったよ。行くよ」
僕は会計を済ませると、お店の人に頼んでタクシーを呼んでもらった。
途中、コンビニエンスストアに寄って酒とつまみを買って、カシマのマンションへと向かった。

カシマのマンションは、5階建てでほとんど新築みたいに立派だった。
彼女の部屋は3階の角の1LDKの部屋だった。
「静かでいいところだね」と僕は言った。
カシマは買ってきた缶ビールを冷蔵庫に入れていた。
「ここ、去年改修工事したばかりなの。家賃はまあ安くはないけど、一応オートロックだし、安心だからって親が出してくれてるの、実は」
カシマが隣の部屋で着替えている間、僕は彼女がすすめてくれた象の子どもくらいありそうな大きなビーズクッションに寄りかかってテレビを見ていた。そうやって待っているうちになんだか腹がふくれてきてしまった。中華料理のコースを食べたんだから当然といえば当然だった。
それで僕が「ビールを飲むのはちょっときつい」と言うと、カシマが冷蔵庫から缶のハイボールを出してきてくれた。
「これなら、まだ飲めるでしょ?まだあるから、飲めるだけ飲んで」
僕らは、ガラスのテーブルを挟んで向かいあって乾杯した。
彼女は缶ビールを美味しそうにごくごくと飲んだ。それから大きく伸びをした。彼女はワンピース姿からラベンダー色のスウェットの上下に着替えて髪をおろしていた。
僕らはしばらく柿の種をつまみながら、テレビのニュースを見て世間話をした。

外はあいかわらず雨が降りつづいていた。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
カシマがテレビのボリュームを少し小さくした。雨の音が少し大きくなった。
彼女は3本目の缶ビールを開けた。
「なに?」と僕は言った。時計は10時半をさしていた。僕はそろそろ帰りのことを考え始めていた。
カシマは柿の種を一粒唇に挟んだままで、少しの間何も言わずに黙っていた。僕はハイボールを飲みながらカシマが話しだすまで待っていた。
「気を悪くしたらごめんね」とカシマが口を開いた。
「いいよ、なんでも」
「操くんは、つきあってるひといるの?」
僕はもうちょっとでハイボールをカーペットに吹き出すところだった。
「いないよ、そんなの」僕はティッシュで口の周りを吹いてから言った。
「でも彼女がいたことはあるわよね?」
確かに、高校生の時に少し付き合った女の子がいた。同じクラスの子だった。でも3ヶ月しか続かなかった。そしてカシマに言われるまで、すっかり忘れていた。
「つきあったうちに入らないよ。すぐにだめになってしまったし」
「それは芹香のことが好きだから?」
顔をあげたら彼女と目が合った。その瞳は酔っているのにもかかわらずまっすぐで鋭かった。そしてひやりとしていながらもその奥底には小さな炎をたたえていた。
僕は残っていたハイボールを一気に飲み干した。空の缶をテーブルに置いた途端、カシマが間髪を入れずに「はい」と新しいハイボールの缶を渡してきた。
僕は機械的にそれを受け取り、そして機械的に缶を開けた。

いつからだろう。いつの間にやら僕はそのことを考えないようにしてきた。考えさえしなければ、その問題自体が存在しないわけだし、存在しなければ考える必要もないということだ。それは間違ったことだったけれど、間違っていても別にかまわなかった。僕は結論を回避しつづけてここまで怠惰に、時間を浪費しつづけてきた。問題とはすなわち答えそのものだった。そんなことは、ずっと昔から分かっていた。だからこそ、時間が経過していくのを待つほかなかったのだ。ほかに何ができただろう?
僕は、ハイボールを半分くらいまで一気に飲んだ。今夜はいくらでも飲めそうな気分だった。酔っているのか、いないのか、もう自分でもわからなかった。
「どうしてそう思った?」と僕は訊いた。
「だって、私もそうだからよ」
僕は、ハイボールの缶をテーブルに置いて、彼女を見た。彼女も僕を見ていた。彼女の目は赤く充血して、泣きそうにも笑い出しそうにもみえた。
「そっか」と僕はつぶやいたあとに、何も言えなくなった。そういうことだったのか。
「そうよ。自分と同じ人を好きなのって、なんとなくわかるの」
そう言うと、彼女は立ち上がって冷蔵庫から冷えた缶を出してきてテーブルに並べて、僕の隣に座った。
「飲みましょう」
僕はカシマが自分で打ち明けるまで、今までそんなことを想像したことさえなかった。
「ねえ、これ、人に言ったのはじめてなのよ。もちろん。なんだか言葉にすると、すっきりするわね」とカシマはにっこり笑った。
僕のイメージするカシマは、いつでも笑顔だった。どんなときでも僕と芹香に笑顔で接してきてくれた。
今、僕は初めて目にする彼女の笑顔を見ていた。
彼女はウイスキーの水割りを飲んでいた。僕が飲んでいる缶ではなく、グラスにワイルドターキーを5ミリほど注いだところにミネラルウォーターを注いだものをまるで麦茶でも飲むみたいにしてごくごくと飲んでいた。
すると、彼女が何かに気づいたようにはっと顔をあげた。「ねえ、煙草吸いたいんじゃない?吸ってもいいわよ。そのかわりに私にも一本もらえる?」
カシマはそう言って隣の部屋へ入っていき、5分ほどしてガラスの灰皿を持って出てきた。
はい、どうぞと言ってテーブルに置かれた灰皿には使った形跡があった。
僕はカシマに一本渡してから、ライターで火をつけてやった。それから自分の分に火をつけて大きく息を吸い込んだ。僕らは、ゆっくりと深呼吸をしながら大事に煙草を吸った。まるで精神安定剤みたいだ。
「私ね、つきあってた人とこの前別れたの」とカシマは言った。
「長かったの?」と僕は言った。
「2年」とカシマが言った。「いい人だったわよ。というか、私には良すぎた。最後まで私の言うとおりにしてくれたわ。なんにもしてあげられなかったのに」
雨の音がふいに思い出したように急に大きくなった。カーテンの隙間から窓ガラスに雨の滴がしぶきになって打ちつけているのが見える。ときどき、雷鳴が聞こえた。
「芹香がずっとあのままでいてくれたらいいの。私が望むのはただそれだけなの」
カシマは灰皿に短くなった煙草を押しつけると、グラスに口をつけたままで呟いた。グラスにはまだ半分以上水割りが残っていた。
僕はちょっと迷ってから新しいハイボールの缶を開けた。
「操くんは、芹香のどこが好きなの?」とカシマがグラスに口をつけたままで言った。くぐもった声のおかげで、その口調からは悲壮感がいくぶん薄れていた。
「顔」と僕は言った。カシマは大笑いした。
「カシマは?」と僕は言った。
「私?」と彼女はまぶしそうに目を細めて僕のほうを向いた。
「芹香が抱えている地獄にすごく興味があるの。あの子が受け継いだ宿命。運命。あの子は強いけど弱いわ。それでも得体の知れない大きなものにたった一人で立ち向かっているのよ。いつか、ほんの少しでもいいからあの子の背負っているものを共有することができて同じ世界を見られるといいなって思う。でも無理ね」
僕は雨の音にまざったカシマの透き通った声に耳を傾けていた。
「一生、叶わない」と彼女は僕の肩にそっと頭をのせた。
僕は、ハイボールの缶をテーブルに置いた。そして両手で彼女の肩を押えてそっと唇にキスをした。
短い口づけだった。
唇が離れたあとも、カシマはずっと目をつむっていた。
涙が一筋、彼女の頬をつたって胸の上に落ちていった。涙はスウェットに濃い影を残して吸い込まれていった。
目を開けるとカシマの両目はたちまち涙であふれ、とめどなくこぼれ落ちた。
彼女は僕の肩に額をつけたまま下を向いて声を殺して泣いていた。
僕らはまるで互いの健闘を讃え合うようにやさしく抱きあった。
そして、僕は彼女がスウェットの下に何も着けていないことをその時に知った。
「操くん」それに気づいたようにカシマがささやいた。
僕たちは、お互いの心の中にいる芹香を抱きしめていた。そしてまたカシマは僕自身を、僕はカシマ自身を抱きしめていた。

たしかに僕は自分にとって最も大切なものから逃げつづけてきたのかもしれない。それは僕のすぐ後ろにぴったりとついてきていて、僕を追いかけてきていた。でも、ようやくわかった。逃げていたのも、追いかけていたのも僕自身だった。
カシマが僕の首の後ろに両腕をまわして、耳たぶにそっとキスをした。
アルコールと香水の混じった甘い匂いがした。
「ねえ、今だけ、好きって言ってもいい?」カシマが耳元でささやいた。
僕は彼女のスウェットの中に手を入れ、なめらかな裸の背中をゆっくりと撫でた。
目を閉じると、芹香の長い髪に覆われた白い背中が見えた。
「明日、朝になったら起こしてくれる?」とカシマが僕のベルトに手をかけながら言った。
「朝になったら、起こすよ」と僕は言った。
それからどこかで僕たちを見ているであろう神様のことを思い、そっと目を閉じた。












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