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【第3話】フーガ

寡黙な毎日ではあるけれど、孤独ではない。僕は今までそう信じて生きてきた。

机の前に座ってパソコンを立ち上げると、「電気グルーブ」のアルバムを流す。飲みさしのコーヒーが入ったマグカップに、新しいペットボトルのブラックコーヒーをつぎ足した。コーヒーが机にこぼれた。「虹」が始まった。大好きな曲だ。

近所のパン屋で買ってきたツナ・サンドイッチを食べながら、下描きにとりかかる。そう、締め切りはとうに過ぎている。それはよく知っている。わざわざ確認するまでもなく。
とにかくなにがなんでも再来月号の掲載に間に合わせる。今俺のやるべきことはそれだけだ。
A4のコピー用紙に描いたネームの束を脇に置いて、1ページ目から順番に原稿用紙にシャープペンシルで描いていく。もうなにも考えなくたって手が勝手に動いていく。最後のサンドイッチを口に放り込んたときにパン屑が紙に落ちた。原稿用紙を持ち上げて、ゴミ箱にパン屑を落とす。
連載を始める前に担当と打ち合わせして、連載回数をまず決める。今回の連載の回数は全8話。だいたいの話の流れはもうあらかた決まっていて、これはまずよほどのことでもない限り、変更はしない。
そのはずだった。
第1話の半分にも満たないところまで描いたところで、自分がこの物語に興味を失っていることに気がついた。
まるで、自分が描いたものとは思えないよそよそしさと気まずさがそこにあった。いや、違うな。自分が描いたからこそだ。
うんざりする。
どうするんだよ、これ。
前にも後ろにも進めないじゃないか。
やれやれ。まったく。
シャープペンシルを原稿用紙の上に放り投げて、天井を仰ぐ。そこにはうっすらと日焼けしたクロスがあるだけだ。電灯の笠の中に黒くて小さい虫が数匹落ちてたまっている。
椅子の背もたれに身体をもたれかけたまま、僕は目を閉じた。

中学二年生の時に、僕の両親が行方不明になった。夏の初めのことだった。二人が搭乗する予定だったアメリカ行きの飛行機が炎上し、太平洋の広い海に突っ込んだのだ。二人は今も見つかっていない。唯一見つかったのは、母親のネーム入りのスーツケースの残骸だけだった。だから飛行機に乗ってはいたのだろう。

僕は、その事故の知らせをおばあさまから聞かされたのだ。芹香の父親が、家を出て行って行方をくらましてから、三ヶ月が経っていた。
おばあさまは、僕を母屋へ呼び出した。僕は自分の部屋でテレビゲームをしているところだった。芹香は僕のベッドで寝転がって漫画を読んでいたけれど、僕と一緒に部屋を出るとそのまま「ローソンに行ってくる」と言って出かけていった。僕のサンダルを履いて。

「なんか用?」蜂鳥家の広い居間に入るなり、僕は不機嫌さを隠しもせずにぶっきらぼうに訊いた。ゲームを中断させられたのと、期末テストの勉強に手をつけてない自己嫌悪でいらいらしていた。
おばあさまはいつも通りの涼しげな和服姿で、背筋を伸ばしてソファに腰掛けていた。帯に扇子を差している。
僕は少なくとも五日は着ているよれよれのグレーのスウェットに、目にかかる髪を留めるヘアバンドをしていた。

「そこにお座り」とおばあさまが僕の顔を見ないで言うと、すぐにテーブルに置いてあったテレビのリモコンを取った。
てっきり僕はテレビをつけるのかと思っていた。でも、おばあさまはテレビをつけずに、そのままリモコンを両手でしっかりと包み込むように持ったままでいた。
おばあさまは「そこにお座り」と言ったっきり、何も言わずにただ前を向いて座っているだけだった。
僕はわざとおばあさまとテレビの間に陣取ってあぐらをかいた。
「なんか用?」と言って僕はヘアバンドを頭からむしり取った。

不意におばあさまが僕を見た。
「おまえの、お父さんと、お母さんが、さっき、死んだよ」
おばあさまがはっきりと区切るようにゆっくりと言った。
その途端、突然耳鳴りが始まった。
「は?」僕は思わず右耳を押さえながら訊き返した。耳鳴りのせいで、自分の声がものすごく遠い場所から別人の声みたいに響いた。
僕はもう一回「は?」とさっきよりも大きな声で繰り返した。それでも声はさらに遠くから聞こえてきた。いったいおばあさまはなんのことを言っているんだ?
「なんの話?」
「さっき、飛行機が、落ちたよ」とおばあさまは区切りをつける言い方でまた言った。
いつの間にか僕は腰を浮かせて、前のめりになっていた。僕とおばあさまは正面から互いの顔を見つめ合う格好になった。
その間おばあさまは、僕から一切視線をそらさずにいた。僕も目をそらさずにいた。というより、そらせなかった。
耳鳴りはどんどんひどさを増していった。
おばあさまの目はまるで池に落ちたビー玉みたいに時々光った。芹香の目とおんなじだ。芹香も時々こんな目をすることがあった。
その作り物みたいな目を見ているうちに、僕は「ああ、もう自分はひとりぼっちになったんだな」と感じた。そして、芹香が「とっくに死んでるわね」と言っていた意味がやっと分かった気がした。ふしぎなことに僕も死の気配を感じていた。
僕はその瞬間に大人になったのだった。自分が一人になったことを受け入れた時に。
25歳になった今でも飛行機に乗ったことはない。乗る予定もないし、乗るつもりはない。
あの日、何があろうと一生飛行機には乗らないと心に決めたのだ。
乗らないほうがいいような気がするから。たぶん。


突然、家の電話が鳴りだした。数秒遅れで、机のコードレス子機も鳴り始める。電話のベルがまるで輪唱みたいにして追いかけるように家中に響き渡る。
出るつもりはなかったのに、いつまでもたっても鳴りやまないので仕方なく電話に出た。その電話は僕の気持ちを見透かしているようだった。
僕は思いきり背伸びをしてから、おそらく80回目くらいのベルで受話器を取った。

「もしもし」と僕は言った。
「もしもし」と相手が言った。
知らない女の声。低いところまではいかないけれど、安定感のあるしっかりとした聞き取りやすい声だ。
「どなたですか?」と僕が言った。
「操、くん?」と相手の女が言った。
知らない女から名前を呼ばれたせいで、僕は少し緊張した。
「・・・どちらさまですか?」
「カシマです。ねえ、なんで携帯持たないの?」そう言うと相手の女はこらえきれなくなったように、愉しそうに笑い出した。

カシマ。その名前を聞いた途端、すぐに彼女のことを思い出した。
鹿島ナリコ。高校時代のクラスメイトだった。芹香と同じクラスで、よく学校帰りに三人で喫茶店に寄ってお茶を飲んで帰ったこともあった。
僕と芹香の文字通り唯一の友人だった。

「カシマ?ひさしぶり。びっくりした」と僕は言った。
電話の向こうでまだ笑っている彼女の声がすごく懐かしかった。
「操くん、元気にしてた?」
「元気だよ。まあなんとか。カシマは?」
「あたしは元気。ぜんぜん変わらないよ。ねえねえ、今、なにしてた?」
「いや、とくになにもしてないよ。ぼーっとしてた」
僕がそう言うと、カシマはまた愉しそうにくすくすと笑った。
「ほんと?それなら良かったわ。なにかの邪魔をしたんじゃなかったなら」
「いや、邪魔なんかじゃないよ」
僕はもうちょっとで"むしろ、ありがたいよ”と言いそうになるのをかろうじてこらえた。
「ねえ、もし暇ならさ、これから会わない?もちろん芹香も一緒に」とカシマが言った。
「いいよ」と僕は言った。壁の時計は午後2時45分をさしていた。
「じゃあ、昔と一緒のお店で待ち合わせましょうか。5時に新宿のルノアールで」
「いいよ。5時にルノアールで」と僕も言った。
じゃあ、あとでね、と言って電話を切りかけたカシマに、僕は慌てて言った。
「今は携帯電話、持ってるよ。番号、伝えておこうか?ほら、すれ違ったりしたら困るから」
僕がそう言うと、カシマはまたくすくすと笑った。
「いいわよ。あとで会った時に教えて?」
そう言ってカシマは、じゃああとでね、と電話を切った。


新宿は雨だった。雨のせいか、いつも混んでいるルノアールはめずらしく客がほとんどいなかった。小さな音でバッハの「フーガ」がかかっていた。
僕は店内をゆっくりと見渡して、カシマらしき人物がいないのを確認してから壁際の二人がけの席についた。


僕は結局一人で店に来ていた。芹香は謎の高熱で昨日の夜から寝込んでいたからだ。
昨日カシマとの電話を終えてから、すぐに蜂鳥家へ行ってみた。
裏の木戸を通り、庭を抜けて勝手口から家の中へ入った。
台所で里芋の皮を剥いていたお手伝いさんが僕を見るとにこにこしながら「いらっしゃい」と言って迎えてくれた。
僕が、芹香は?と訊くと、お手伝いさんはちょっと顔を曇らせ、「昨日の夜からぜんぜん熱が下がらないんです」と言った。
蜂鳥家は、歯科とかそういう特別な医療以外で医者にかかったり薬を飲んだりすることは、基本的にしてはいけない決まりになっている。そこには産婦人科も含まれていて、芹香はこの屋敷の離れの和室で生まれた。おばあさまは、芹香のお母さんが産後に心身のバランスを崩したからといって、病院に行くことを絶対に認めなかった。芹香の血液型も調べることはなかった。今でも芹香は自分の血液型を知らない。芹香に言わせれば、血液型なんて知らなくても生きていける、ということだ。まあ、本人がそれでいいなら僕もとくに異論はない。
芹香はまだ赤ちゃんの時から高熱を出して寝込むことがたびたびあった。
おばあさまが言うには、高熱が出るということは身体がリセットされている証で、そうやって体温を身体の限界まで上げることによって毒素を出しているのだそうだ。
「芹香、操。いいかい?よく覚えておいで」
昔、おばあさまは僕と芹香にこう言った。
「熱は善きもの、熱は善きものだよ」

「まだ熱、下がらないの?」と僕は台所の椅子に座り、お手伝いさんが出してくれた冷たい麦茶を飲みながら訊ねた。
「ええ。39度からずっと下がらないんです。でもね、お元気なことはお元気なんです、普段と変わらず。少しですけど食欲もありますし、時々起きられてお部屋で何かしておられるみたいですよ」
「ふうん。じゃあ熱だけある感じだ?」
「さようでございます」お手伝いさんは微笑んで、バケツからまた皮のついた里芋を取り出した。僕と話しながら、里芋を剥く白い手はずっと器用に動いていた。

彼女は住み込みのお手伝いさんで、僕と芹香が生まれるちょっと前に20歳で蜂鳥家へやって来た。僕と芹香は彼女をムーちゃんと呼んでいた。本名はムツミといった。ムーちゃんがおそろしいのは、ここへやって来た時から、まったく年をとっていないということだった。少なくとも45歳にはなっているはずなのに、どう多く見積もっても、30歳そこそこにしか見えないのだ。

僕は麦茶を飲むと、芹香の部屋へ向かった。
芹香の部屋は庭に面している縁側付きの十五畳の和室で、部屋からは庭全体を見渡すことができた。

「起きてる?」と僕は部屋の襖に向かって声をかけた。
「入れー」とすぐに芹香の声が聞こえた。確かにいつもよりもけだるそうな熱っぽい声をしている。
襖を開けて、部屋に入ると僕はあっけにとられてしまった。床に大量の漫画がそこらじゅうに散乱していた。
芹香はパジャマ姿でベッドに寝っ転がって漫画を読んでいた。僕を一瞥すると、読んでいた「ハトのおよめさん」をサイドテーブルに伏せて、起き上がった。
「おせーじゃねーか。なにやってんだよ。ヒトが苦しんでるっつーのによ」と芹香が言った。
「どこがだよ」と僕はあきれて言った。それから床に落ちていたたくさんの「ガラスの仮面」を拾い上げて適当に積み上げてから、空いた所に腰をおろした。
床は足の踏み場がないくらいに、ありとあらゆる種類の漫画が散らばっていた。それは見事なくらいだった。
「砂の城」やら「稲中卓球部」やら「月刊少女野崎くん」やら「なるたる」やら「ヴィンランド・サガ」やら「ハッピー・マニア」やら。成人向けのエロ漫画まであった。
僕はそのへんにあった漫画をいくつか手に取ってタイトルを確認した。
いったいいつの間に買ってきたんだろう。
その間、芹香は目を閉じ両手で頬を押えたまま、身動きせずじっとしていた。

「おい」と僕は声をかけた。「起きて大丈夫なのか?」
芹香はぱっと目を開けて、真顔でダブル・ピースをした。
「ねつが、さがらない」と芹香が言った。少し息があがっていた。
「今、何度?」と僕は訊いた。
「39度7分」
「食欲は?」
芹香は、うーん、と言ったあとに「実をいうと、ある」と言った。
「あるの?」僕はちょっとびっくりした。「何食べたの?」
芹香は、目をつむって指を折りつつ数えながら答えた。
「ハンバーグ、ナポリタン・スパゲッティ、マカロニグラタン、豚肉の生姜焼き、それに、ご飯。温かいそうめん。冷たい杏仁豆腐」
「もう逆に病気だろ、それ」と僕は信じられない気持ちで言った。
「だってお腹がすくんだもん」と芹香が言った。
「これ、どうしたんだよ」僕は床の漫画を指さして言った。そのとき漫画が縁側にまで雪崩のようにいくつも重なり合って無造作に落ちているのに気づいた。
「そんなの決まってんだろ。買ったんだよ」
まるで大地震に見舞われた図書館のような光景を前にして、思わず僕は感心せずにはいられなかった。そして、ひょっとしたら熱が出たのは、夜通し寝ないで、漫画を読んでいたせいなんじゃないかと思った。

「操、夜にまた来いよ。古畑任三郎のDVDもあるからさ。一緒に観ようぜ」
それで僕は、さっきカシマから電話がかかってきたこと、これからご飯を一緒に食べてくることをなるべく穏やかに芹香に伝えてから、「おまえは、家にいろよ」と言った。
芹香はたちまち般若のお面みたいな顔になった。
「バカ。私も行く。絶対に行く。なんとしても行く」
「だめだ」僕は立ち上がった。「熱が39度7分もあるのに行けるわけないだろ。おとなしく寝てろ」
「呪ってやる」芹香は身体を翻すと、枕に顔を突っ伏して低い声で呟いた。
「ちゃんと布団に入って横になってないと治らないよ」と僕は言った。芹香はまだ枕に突っ伏したまま、まだぶつぶつと言っていた。
「おやすみ」僕はそう言って襖を閉めた。
部屋の中からドサッという何かが落ちる重たい音が聞こえた。




















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