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【第2話】フーガ

蜂鳥家にとって1975年はとても幸運な年だった。
芹香が生まれたのだ。
蜂鳥家には長い間子どもが出来なかった。
1970年の段階で蜂鳥家は新規の顧客を受け付けていない。たとえ誰からの紹介であろうと。さっきやって来たレクサスの客は、古くからの信者ということになる。
顧客たちはこの家をひそかに「鳥かご」と呼んで大事にしてきた。

おばあさまは「見立て」を自分の代で終わりにすることをかなり以前から公言していたという。
顧客たちから何を言われようと、廃業すること自体、そんな事は些末なことだと一笑に付していた。「見立て」は自分の代限りでお仕舞いにすると何年も前から多くの顧客たちに言っていたにもかかわらず、それでも彼らは当然のことだけど納得しなかった。たぶん今だってしていないんだろう。それはそうだ。自分たちの心のよすがにしてきたものがなくなるわけだから。ある日から別のところに神様の言葉を聞きに行ってくださいね、なんてそんなことはまず不可能だ。

おばあさまは一人息子(芹香のお父さんだ)が二十歳で結婚の報告をして来た時にこう言ったという。
「子どもは諦めなさい。子どもが欲しいのなら養子を取るか、それが嫌なら犬か猫でも飼いなさい」
当然のことだけど、彼は憤慨した。
冗談じゃない。どうして諦めなくちゃいけないんだ。だいたい母さんにどうしてそんなこと言われなくちゃいけないんだよ。
おばあさまは、かわいい一人息子にきつくなじられても眉ひとつ動かさずに言ってのけた。
「子どもは出来ないよ。おまえたちに子どもは犠牲が大きすぎる」

その言葉通り、息子夫婦に子どもは出来なかった。それは呪いとなって、息子夫婦の人生のほとんどに影を落とすことになった。1975年までは。
おばあさまの予言が外れたのはこれが初めてだった。

こんなふうに僕がまるでその場にいたみたいにして、会話の内容まで事細かに知っているのは、僕の父親が教えてくれたからだ。父親と芹香の父親は同級生で幼なじみだった。僕の両親も二十三歳同士で結婚して四十三歳の時に僕が生まれた。
そういうわけで、僕と芹香はそれぞれの家庭でたいせつに育てられた。
芹香は神がかりの家の跡取り娘として。
僕は、まあ、ごくごく普通の家庭の夫婦の一人っ子として。

中学二年生の時に、芹香の両親が離婚した。
芹香の母親は、出産の時に体調を崩してからずっと、寝たり起きたりを繰り返していたのだけど、ついに実家へ帰ることになったのだった。
僕はそのことを蜂鳥家の食卓で夕食のハンバーグを食べている時に芹香から聞かされた。
「そうそう、いちおう言っておかないとね」と前置きをすると「うちの親、ついに離婚するみたい」とよその家の話でもするみたいにあっさりと言った。
「あの人にとってもそのほうがいいんじゃない?もともとあの人にこの家はきつすぎたのよ。離婚したほうが幸せよ。あの人にとっては」
芹香は自分の母親のことをいつも「あの人」と呼んでいた。
冷たい言い方になってしまうかもしれないけれど、芹香からそのことを聞いて、確かにそうかもしれない、と僕も思った。僕が芹香のお母さんと顔を合わせたのは、離婚するまでの十四年の間でもほんの数える程度しかなかった。芹香のお母さんは、いつも母屋と渡り廊下でつながった離れの部屋で過ごしていて、母屋に顔を出すことはほとんどと言っていいほどなかった。もちろん僕が離れに立ち入ることもなかった。
芹香のお父さんは、それからまもなくして黙って家を出て行った。今もどこにいるのか分からない。

「とっくに死んでるわね」
芹香がぼそっと言った。芹香のお父さんが家を出て行ってから1ヶ月くらい経った頃だった。
芹香にしてはめずらしく落ち込んだ様子だった。

僕はわざとあっけらかんと明るく言った。
「芹香のお父さんは頭も良いし、かっこいいからどこでだって生きていけるんじゃない?」それはただの気休めの嘘ではなかった。
「どうだか」と芹香は即座に言った。
「わかるのよね。もうこの世にいないってのが。別にどうでもいいんだけどさ」
僕はちょっと前にあることを思いついていた。でも、それを口に出すことがはたして正しいのかどうかが考えても答えが出なかった。
”おばあさまに頼んで、お父さんがどこにいるのか、見立てで視てもらったら?”
でも結局、僕は言わないことにした。芹香もそれ以上なにも言わずに黙っていた。
僕も黙ってコーヒーを飲んでいた。

ひとつだけ、見立てのことでおばあさまが教えてくれたことがある。
ある日、学校が終わってから夕食までの間、僕は蜂鳥家の居間で暇をつぶしていた。芹香は熱を出して自分の部屋で寝ていた。
その日も、ちょうど一組の顧客たちが見立てのためにやって来た。
黒いスーツを着た男が二人、着物を着た小柄の年配の女性を挟むようにして屋敷へと入っていくのを僕はソファで横になって見ていた。年配の女性はおばあさまと同じくらいの年齢にみえた。
彼らが、大きな車に乗って帰っていくのを僕は、オレンジジュースを飲みながらぼんやりと眺めていた。
彼らが去って10分ほどしてから、おばあさまがお手伝いさんと一緒に居間へと入ってきた。
おばあさまは、見るからに疲れた顔をしていた。目はくぼみ、顔に血の気がほとんどない。

おばあさまはソファに腰をおろすと、お手伝いさんに「熱いお茶を」と言った。お手伝いさんは頭を下げると、部屋を出て行った。
背もたれに寄りかかり目をつぶっているおばあさまは、さっきよりもますます小さくなって見えた。
お手伝いさんがオレンジジュースのグラスと緑茶の湯呑みをテーブルに置き、空のグラスを持って出て行くと、おばあさまはすぐに熱い緑茶をゆっくりと少しずつ飲んだ。
僕もオレンジジュースをごくごくと全部飲んだ。グラスをテーブルに置くとき、ジュースの氷がからんと音をたてた。
「だいじょうぶ?」と僕は言った。
おばあさまは湯呑みをテーブルに置いた。それから僕の手の上に自分の手をそっと重ねた。僕は自分の手の上に置かれたおばあさまの右手を見た。それは顔と同じようにほとんど血の気がなく、白く細い骨が薄い皮膚をかすかに盛り上げ、影を作っていた。それとは対照的におばあさまの手のひらはとても熱かった。
「ありがとう」とおばあさまは言った。
「どういたしまして」と僕は言ってから、壁の時計を見た。午後4時30分だった。
「今日はもう終わり?」と僕は訊ねた。おばあさまはうなづいた。
まだ僕の手にはおばあさまが手を乗せたままだった。僕はだんだん居心地が悪くなってきていた。でも、どうすることもできない。このままでいるしかない。
おばあさまは僕の手に重ねた自分の右手をじっと見ていた。
しかたなく、僕も同じようにおばあさまの手を見ていた。
「操、私がどうしてここに来る人たち全員にちょっと信じられない額のお金をもらうのか。わかるかい?」とおばあさまが言った。
僕にはもちろん分からなかった。そんなこと、わかるわけがない。
僕は首を横に振った。

「それは、私が人間だからなんだよ。私は神様ではない。その証拠にお金を支払ってもらう。勘違いしてもらっては困るからね。無償のボランティアなどでやるのはむしろとても危ないことなんだよ。いつしか自分のことを神様だと思ってしまう。神様になれると思ってしまう」
「つまり、おばあさまは神様のふりをしているわけではないってこと?」と僕は言ってみた。
おばあさまはうなづくと、微笑んだ。さっきの能面みたいな顔と違って、柔らかな表情だった。そしてこう言った。
「操、神様はちゃんと他の所においでになるんだよ」
そう言うと、そっと僕の手から自分の右手をはずした。



















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