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だから私はクリスチャンなのだ

私はカンタベリーのクリスチャンの団体でボランティアスタッフとして働いている。昨日は海まで日帰り旅行。夏の間は毎週土曜日は日帰り旅行に行っていた。今年の夏は、今回が最後。(だよね?)

帰りのバスの中で、私は間違いを犯してしまう。。。

(話は変わるが、繋がっているのですが、)

映画Back to the Futureでは、父親が交通事故でひいちゃった男性と主人公のお母さんは結婚する。「かわいそう、守ってあげなきゃ」という思いから、恋になるということのようだ。。。

実は私も、男性に対して、惹かれるというよりも、「助けてあげたい」という気持ちの方が強くなってしう。ある男性を助けてあげたいと思って、というのも昔の自分を見ているみたいで(何事にも一生懸命なんだけど、疲れちゃってるし、目的が薄れてきている。。。)気になってしまっていた。自分でも素直に「助けたい」と思っていたのだが、どうしたことがそれが「気になる」人になっていたことに、昨日気づいた。

でもその「気になる」は彼の望むところではないと悟り、(私の不謹慎さに)悔い改め、祈った。

聖日の今日、昨日のことが気になり、(自分を赦せない、自分では自分を赦すことができない)教会で賛美しながら涙がポロポロ溢れた。

私は、(ボランティア)ミッションワーカー(神様のために仕える)として働いている。その全ては「奉仕」であり、その中心は祈りである。神様が私たちのミッションの核であり、全てである。

それなのに私は、聖書をあまり読んでいない。対人関係において、異性に対してしっかりとプロとして接することができていなかった。(「助けたい」という思いから「気になり」出してしまっていた。)自分の弱さに、痛みを感じ、愚かさに恥ずかしくなり、居ても立ってもいられなかった。

今日、初めて行った教会で、初めて会った方に、礼拝が始まる前に一つのみことばを見せられた。(なんで私がこのことに自責し悩んでいたことを知っていたのだろう。いや、彼女は知らないはずだ。)

神様は知っていらっしゃった

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

フィリピの信徒への手紙 4:6

私が自分のことを赦せなくて、自責の念に苦しめられていたのに、教会に行って最初に与えられたみことばは、「思い煩ってはいけない」だった。そして大学時代の友人からも、「彼はえみちゃんのこと嫌に思っているわけじゃないんじゃない」と言ってもらい自責の傷が癒された。神様がくれた言葉だと信じている。

神様に全て委ねよう。神様が後は私たち両方の面倒を見てくれるのだ。だから、思い煩ってはいけない。

私は教会で自分の不完全さを告白した。そして、自分の弱さを認めた。人を助けなければいけないポジションにいるのに、私は、自分自身が信仰的に助けが必要で、キャパオーバーというか、まだまだ自分自身の成長が必要であること。プロらしくない行動をとってしまったこと。でもそんな不完全な自分を受け入れようと思ったのだ。

自分の身(ミッションワーカーであること)を自覚し、自分をコントロールすることができるように、信仰的に成長できますように、と私は祈った。

最初の賛美をしている時、いろんな人がたくさん礼拝堂に入ってきた。こんなにもたくさんの人がイエス様を信じているんだ。賛美しているんだ、あなたがイエス様なんだ、と思うと涙が涙が溢れた。

信仰は私にとって全て。なのに、間違ったり転んでばっかりで、信仰を失いそうになったり、弱いところがありすぎて自分にがっかりしてしまう毎日。

でも、

神様は全て知っておられる。

神様を信じることで、弱みを強さに変えることができる。

人のことを自分のことのように考えてしまうことは悪いことではない。自分の弱みが、助けたいという思いから気になってしまうというのであれば、神様に私が自分自身の感情を場所場所でコントロールできるように祈り求めることができる。神様は、私の弱さも全部知っていらっしゃるのだ。わざわざ説明なんてしなくていい。神様、私に強さをください。そうイエス様に祈った。

神様は「毎日を楽しみなさい Be Joy」と言ってくださっている。
罪悪感は、神様からではない。私たちはもう、罪から解放された、「Free Indeed」完全に自由になったのだ。

だから、罪悪感、自責というのは、イエス様を信じたその日から、背負う必要がなくなっているのだ。なぜなら罪や恥をイエス様が全て背負って、十字架に掛かって死んで、3日目に蘇り、死をも克服して私たちの罪や過ち、全てを背負ってゼロにしてくださったのだから。

神様は、「Be Joy」喜びなさいと言ってくださっている。
私のこれからの人生はもっともっと楽しみながら生きていけるのだ。もっと楽しむべきなのである。


私は、奉仕をしながら、ボランティアの仕事を存分に楽しみながら、「自分の」ために時間を使うことも大切だと思い出した。

(今まで散々自分のために時間を使ってきたが、奉仕している身の今はとことん人のために時間を使っている)自分にしっかりとオフを設けて、ぼんやりしたり、好きなことをする時間を設けたい。特に今は仕事を掛け持ちしているので、なかなか難しい。

ボランティアの仕事は人に関わる仕事なので、放っておけず(経済的に貧しい学生たちにご飯作ったり、ロンドンにいるんだけど電車に乗れなかったとか言って連絡してくれる学生にアドバイスをしたり)。自分が経済的にロンドンで困ったこともあり、キャリアが行き詰まって大変だったこともあるので、周りにいる苦しむ学生の気持ちが、痛いほどに分かり、もどかしいのだ。

最近自覚してきたのは、だからといって、自分自身が自分を支えられなくなってしまっては、人を支えることができないということ。信仰的に、私がミルクが必要なのに、人に食事を与えることができない。

今は自分で聖書を読む時間を設けて、一対一の聖書勉強会をしてもらったりして、自分を霊的に成長させる時間を設けていこうと思っている。

聖書の時間を設けていないと、誤ったアドバイスをしてしまったり、人間的なジャッジをしてしまったりしてしまう。また、今回のように感情をコントロールできなくなり、よくない行動をしてしまったりする。だから、自分の霊的な成長(聖書の言葉の中に生きること)はとても大事なのだ。

私はリビングライフで聖書を学ぶ時間を設けている。

教会に行くときは、今週一週間で自分がしたこと(間違ったこととか)後悔して悲しみを持っていく。するといつも神様が語りかけてくれて、赦してくださり、私を痛みから解放してくれる。そして悲しい顔で教会に入ったのに、笑顔で教会を出ていくのだ。

ロンドンや鹿児島の教会で泣き崩れたこともある。恥ずかしいが、周りの人たちは自然に受け止めてくれて祈ってくれるので、私にとって教会は、自分が自分でいられる、自分の弱さを360度出せるところなのだ。

霊的に安定していない時は、霊的に攻撃を受け、ボロボロになり、恐れやネガティブなことばっかり繰り返し考え「させられて」しまう。怖さと共に生きてしまうのだ。

でも、そんな時、教会で祈ってもらい、(悪霊みたいなの追い出すこともある)、ポジティブになることができるのだ。そう、「罪悪感」は神から来るものではない。神様は、喜びなさい、と言っているのだ。

人生、何度も霊的アタックを受る。私はネガティブになったり、鬱みたいになったりする。そのために、私たちには強さが必要で、その強さは、神様の言葉(聖書)にある。毎日のディボーション(聖書を読んで、神様の教えに立ち返ること)、そして教会に行くことで、弱さを強さに変えられるのだ。怖さから、どんな霊的アタックよりも強い盾を磨くことができるのだ。

私にとってクリスチャンでいることは不完全であることを認めてあげること。自分が弱いから、自分で立てないから、イエス様に助けてもらっている。神様の前でのみ膝をついて頭を下げて、その神様の憐れみに感謝するのだ。

30年間仏教徒だった私。東京の台東区、東上野で一人暮らしをしていたのも、そこが仏具の街であったから。一人暮らしの家でも仏壇を買い入れ、中国に滞在していた6年間のうち、主要なお寺は2時間コースで周り、お経も中国語で唱えていた。そんな「熱心」な仏教徒であった私は、聖書の「せ」の字も知らず、「イエス様?誰それ」という人間だった。そんな私に、一年前、聖霊が臨まれ、イエス様を、本当の神様を信じざるを得なくなったのだ。

私は自分がパウロのように勇敢なクリスチャンとはいうことができないが、パウロがクリスチャンを迫害していた名のあるリーダーであったことについては、自分も熱心な仏教徒であったので、近く感じるものがある。

そんな彼がクリスチャンであるが故に、クリスチャンであるために自分の命も惜しまず福音を伝えたことは、私に大きな勇気を与えた。

彼は、クリスチャンを迫害している途中で神様によって目を見えなくさせられる。「パウロ、なぜ私を迫害するのだ?」と問いかけられたパウロは、本当の「神様」を知ることになる。それは、この世をゼロから作られた、全ての全ての想像主であった。

私は同じ年代では横に出るものはいないのではと自信を持って言えるほどの仏教徒だった。でも、ある日、東京の一人部屋で母を思い泣いていた時、天国からの光を浴びた。日が暮れて光が入ってくるはずがないのに、暖かくて、心地の良すぎる光が私を包んだ。私は、母を思う悲しみの涙から、母を感じ、母の横にいらっしゃる方の存在から絶大な安心感に浸っていた。それは、「神様」だった。

船に乗って、こっちを見て、光を放ちながら手を振ってくれた。それは、天国からの光だった。聖霊に臨まれ、聖霊に満たされ、私は天国を見た。

https://www.youtube.com/watch?v=gAVu1d-FvBE

聖霊は臨まれる。

私はその翌日、イエス様を自分の救い主と認めた。一体全体イエス様が誰なのか、キリスト教とはなんぞや、知らないまま、ただお一人のこの世の想像主である大きな大きな宇宙を作った神様を信じた。

こうして神様に出会ったのは、一年前のことである。そして、今私は、神様の福音を伝える仕事をしている。

信仰は私にとって生きることであり、今は私は、十字架を背負ってイエス様に従い生きているのだ。もちろん、間違いも犯すし、「あるまじき」行動だってしてる。人を傷つけるし、困らせる。空気を読まないし、読めない。間違いを犯してばっかり。だから私は、イエス様を信じるのだ。

イエス様が、私の罪を背負ってくれた。だから私は、今まで自分が背負ってきた、背負いきれない罪や過ちや罪悪感から解放されて、完全に自由になることができたのだ。

イエス様は、信じたその日から、ずっと私を気にかけてくれた。今も、つまづくたびに、大丈夫だよ、着いてきなさい、そう言ってくれるのだ。
私は不完全だ。私は間違いを犯す。私は自分で自分を赦すことができない。だから私はイエス様を信じるのだ。

本当の神様は、私たちを愛してくださっている。神様の計画は、私たちを苦しめるものではなく、私たちに恵みを与え、祝福してくださるもの。だから、全ての悪、罪悪感、暗闇は神からくるものではなく、悪からくるものなのだ。その悪に打ち勝つために、私たちはイエス様のお名前によって祈り、聖書を読み力をつけ、そして教会で人との交わりを通して霊的に強くたくましくなっていくのだ。

神様のご計画は良いもの。
神様は、私たちを愛している。
どんなに間違いを起こしても、神様は悔い改めをさせる。そして罪から解放し、私たちを自由にしてくれるのだ。その神様は私たちが悪いことを犯すのを悲しみ、止めてくださるのだ。私たちは、自分を守り、神様に守られるために聖書のみことばに生きて、クリスチャンと励まし合いながら、愛と慈しみを持って一日一日を生きているのだ。

2023年9月10日 聖日

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