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みんなとちがう「わたし」かけがえのない「自分」



自分は、いったい、なにものだろうか。


このことについて考えだすと、
心が痛む。

ありもしない臓器の、
いったいどこが痛むのか。


誰かに相談したいと、一度も思わなかった。

誰かに相談して解決できると思わなかった。

自分でもわからない問題を、
他の誰が解決できるというのか。

このまま抱えながら
生きていくのだと思っていた。

この問題から離れたかった。
もう考えたくなかった。

それなのに、いつも胸がしめつけられる。
考えたくないのに、考えてしまう。

正確に言えば、ふと思い出すのだ。

そして、とても悔しい気持ちになる。
自分はなにも悪いことなどしていない。

人に親切にして、人に合わせて、
毎日を精一杯生きているのに、
どうしてこんなにも苦しいのだろう。


みんながいう「ハーフ」とはなんだろう。
私は「ナニ人」なのだろう。


自分で自分のことがわからない。
それがこんなに苦しいことなのか。

誰にも言えず、
心の奥に重いものを抱えながら
毎日を生きていくのが、
これほどにつらいことなのか。


誰かに相談する勇気はずっとなかった。


大学の友人たちは、
夏休み冬休みになると地方に帰省する。

待ち焦がれるように、
喜んで帰省していった。
家族に会うためだけではない。

その土地を踏むことを、その土地の空気を吸うことを、心から望んでいるように見えた。

そして地方で早々と内定をもらい、
卒業した後は故郷に帰った。

私は父の転勤で引っ越しが多かったから、
土地に対する思いがない。

その時々の景色や場面、思い出はある。 
友人のたちの顔も思い出す。

でも、
それは大学の友人が想う
「ふるさと」ではない。

ひとつの場所ではない。
私が帰る場所ではない。


私には「ふるさと」がないのだ。


彼らの意味する、
定住する土地に焦がれていた。



大学生になった時、
初めて心の内を少し開けた。

友人にさりげなく言ったことがある。
それは別の話のなかで、「自分はナニジンなのかわからない。日本人ではないよね」

その友人は言った。
「あんたは、自分が思う以上に日本人だよ」

別の友人にも、さりげなく言ったことがある。
「普通に生きたい。普通になりたいな」

その友人は言った。
「普通ってなあに?普通って一番難しいよ」

私が考えている以上に、周りは私を「ガイジン」とは思っていなかったのかもしれない。
その時初めてそれを知った。


少しだけ心が軽くなった。
暗闇の道のりに、
優しい月明かりが差したように感じた。


この世の中には様々な集いがあり、同じ体験をした人たちが対話をし共感する。

誰かに話を聞いてもらうだけで、楽になるという。
勇気を出して、カミングアウトする者もいる。


もっと早く誰かに相談できたなら、
どんなに楽になれただろう。
どんなに自由に生きられただろう。

もっと楽しい生活ができたのに。


中学高校の時の私は苦しんだ。
どこから話せばいいかわからなかった。
自分のことを話す勇気が、まるでなかった。


自分の顔を鏡で見た。
「ガイジン」だった。

日本の学校に通い、日本語を話すけど、わたしは、日本人なのだろうか。

私がそう思っても、
周りはそう思わないかもしれない。



私の「国」はない。
私が帰る「ふるさと」はない。


みんなとちがう「わたし」。

わたしはとは、なんだろう。
わたしは、いったい誰だろう。


どうしてこんな身に生まれたのかと落ち込んで、自分が大嫌いだった。
自分を傷つけてばかりいた。

自分を大切にする生き方を知らなかった。

強くなりたいと思った。
自分が弱いから、こうなるのかと思っていた。

わたしが、「唯一無二のかけがえのない存在」だと知る由もなかった。

自己肯定感やアイデンティティという言葉を知るまでは。