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タンパク質を摂ると撮る2

引き続き、なぜタンパク質を撮ろうとしているか?について。2回目。(写真は内容に関係ありません、季節的にいいかなと思って)

私は写真撮影の依頼を受けたり、自分で営業したりしながら撮影で食べているので、プロのカメラマンである。仕事は料理撮影と雑誌が多い。

今やカメラはとても身近なもので、誰でも毎日のように撮影して SNS に Upする。情報源も誰かの写真を見てとなっている人が多い。簡単に撮影できて楽しい。がゆえに、僕も私もプロのカメラマンになれると思うだろうし、ネットの中だけで商売にもなる。そして、先がわからない時代だからこそ、俄かにこの職業そしてまた次の時代に則した新しい職業へと変遷するのかもしれない。反面デジタルカメラによって、 PCによって、消え去った職業もある。「吹けば飛ぶような」と言うがまさにそのもの。
そんな砂つぶの様な私でも続けていくことで、見える景色が変わってくることもあるように思う。自分の名前で独立して10年。今年は11年目。

プロフェッショナルとは?と、もしいつかその定義を NHKに問われたならば「どんな条件下でもある一定の結果が出せる人」だとずっと思ってきた。「手早くて安定的に上手い!」職人としては正解だと思うが、作家としては変態になれる人なのかもしれないな、と思い始めた。変態は良い意味で、突き詰められる人。褒め言葉として。

「フリーランスなんて不安定でよくやってるね」という主旨のことを言葉を変えてまろやかに言われることもあるが、ま、それしか無理という人種も世にはいるだろうし、私は流れでそうせざるを得なかった。一方で、フリーランスなんだから仕事だって創り出せる。また、たくさんの人を知ることができる。枠がないから。そして何より生きてる実感がある。いや、もうそれしかない。この実感はやっぱり、責任持って仕事をするようになってから。楽しいの向こう側を覗けた気がしている。楽しいの向こう側は「充実感と責任感を伴ったもっと楽しい」なのではないか?と思い始めている。いや、これは私が個人事業主だからかな。会社組織を立ち上げるとこれは「責任感」が「楽しい」を追い越しているのかな?と人を見ていると思うことがある。ある有名なパティシエがしみじみと私にそう語っていたのが忘れられない。

ここで「写真」についても考えてみる。今、世の中の写真のあり方を考えようと毎日のようにインスタに写真を Upしている。これは実験として。あそこに写真を Upしている人は似たような写真を撮っている人と群れる傾向にあり、そう誘導されているとも感じる。例えば、心に停まったものを息をするように映像にして撮りためて眺めて交流したい人が溢れている。心象風景的な集団。写真の色や表現方法の統一感、まとまった雰囲気。そして、少女が麦わら帽子に白っぽいリネンのワンピースを着て、何故か寅さんみたいな革のトランクを持って花畑に立っている。このパターン、非常に多い。言い方は悪いが真似をして酔いしれている、コスプレの世界みたいだ。もちろん趣味だからいいと思う。他にもデジタル加工で雪も降れば、リフレクションを追加もできる。月が大きくなったり、不要だと思えば通行人は消されて、そういう加工ありきの作品もある。また、子育てやペットについての情報交換や可愛い記録の自慢グループ。グルメや地域のこと。お店の宣伝。これらはもう共有、情報伝達の手段であって写真ではないない(と石内都という写真家が書いてた)。ぼやけた写真がたやすく垂れ流されていると思う。

そう「写真」ってのは撮り手の意図があって切り取られた世界なのだ。私はそう思う。時々ハッとする写真に出会う。ただの街のスナップにも撮り手の視点がある場合だ。それに加えて写真にはやはり「そのもの」を「知らしめる」あるいは時代を「記録」「残す、留める」「後に伝える」という本来の大きな役割があって、そこがなかったら絵でもイラストでも漫画でも良いのではないか?

一時期は「私写真」の時代があった。個人的な記録の写真であって、日常にありながら心の陰を晒す様な写真。「アラーキーチルドレン」などと言われてそれはブームでもあった。しかしそこに共感が生まれる範囲は狭いと思う。またある時点で既に飽和したのではないか?とも思う。本来の役割を果たしつつも撮り手の視点がある、両輪を兼ね備えた写真。これが強い!というのが結論。「私」以上に視野を広げて、時代や歴史、その被写体を表現して問う、訴えかけるなど。テーマは色々だが、誰かに伝える写真であるならば、やはり意図・意思を持って世界を切り取る方がいい。個人的な感情を写真に託しても「アンタのエクスタシーを見せられてもそりゃ知らんがな...」となってしまうことも多々あるわけで、多くの共感を得るのは難しいということ。それでも、「自分が好きで綺麗と思うものをただ撮りたい」と、私も最初は思っていた。私が有名人で広瀬すずならまだしも、誰もそんな私に興味ないし、「勝手に残したらええがな」と言われるだけ。これをずっと繰り返してきたのだった。

写真にできることを踏まえて撮れということ。意味を持ち考えて突き詰めて撮れということだよな...といい加減に方向性を変えた。私を通過して出せるそれは何だろう?何をどう撮ってどこに出せば、私が撮る意味がある写真になってそのテーマを残せるのか?

私には、食品の撮影が多く、料理写真がそもそもスタートで、それも全て自分が選んできた。料理と食べ物に興味があった。昔から私には幼アトピー性皮膚炎があったこと。健全な肉体と健全な魂というのは密接な関係。そういう思考だったし、そのことを教えてくれる人が周りにたくさんいて、自分自身も食によって救われてきた。また妊娠や出産を経て子どもに食べさせるものも、それは手を抜かないというか、抜けないと思って今日までやっている。

だから3.11の後はどうしていいかわからず台所に蹲ることもあった。恐れは知識がないからだなと思って、本を読んだり、あちこち話を聞きに行ったりもした。先のことだから見えないことがだから、でも子どもたちが大人になった時に困るのではないかと思って...オトナはいいけど子どもには先がある。女だし出産もしたいと思うかもしれないし。学校で環境の学習してやけに怒っている時もあった。小学生は正義感が強いし、自分たちのこととして捉えているなと感じる。そりゃそうだよね。グレタさんも怒ってるよね。

そういう経験と現在を経て、テーマを選ぶ→調べて動く。写真はシャッターを押すまでの思考と行動が90%だ。

私のテーマは「食と子ども」なのである。そこからさらに、何をモチーフにどういうコンセプトで撮影するか?どう見せるか?を突き詰めて絞り込んで、撮って眺めてトライアンドエラーを今やっている。ま、「それも勝手にやれよ!」と言われればそうだけど、それを表に出して届く写真になるかどうか?言葉以上に揺さぶる部分があるかどうか?と、そういう挑戦。

次はタンパク質を撮るをもう少し書くことにする。


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