ダンスを介して感じる理由

WE CANNOT HEAL WHAT WE CANNOT FEEL

私が何でラテンダンスクラスをやりたいか、なんで研究をしたいかについてすこしお話させてください。

ずーっと私は「表象(メディアで描かれる人の身体)」と「身体の政治性(人種・社会的階層・身体的障害・体型・国籍など)」がすっごく疑問で、今博士過程にいます。

”キラキラしてるマイノリティーの人”とか、”身近なインフルエンサー”とかばっかり見てる私達からすれば、「あー、きっと私が何も出来ないのは自分のせいだ。社会は昔よりももっとマイノリティーを受け入れてるじゃん。」って自己嫌悪に落ち入りそうになりますよね。
でも実はそのメディアで見る「表象」は、社会の構造的な理由で本当に苦しんでいる大多数の人の声を隠す役割をしているかもしれません。むしろ、この「みんなみたいに上手く出来ない自己嫌悪の気持ち」自体が今と同じ社会構造を再生産する仕組みの一つとして働いているのかもしれません。

私が”日本人女性”なのに謙虚にも真面目にも振る舞えないからって、自分の感情や行動や身体を一生懸命マネージメントして、自分の身体的特徴に紐づいた理想像にしたら、その”日本人女性としての規範”を再生産して、今と何も変わらない社会で生き続けなきゃならないのかもしれません。

感情資本主義という考えによると、感情は社会的に構築されていて、そして感情のマネージメントが社会の基盤となっているらしいんだけど、そんな感情に良し悪しつけたのは人間だと思いませんか?私たちの身体が効率的でなきゃいけないとか言い出したのも、最近の西洋社会に住む人間じゃないですか?
むしろ「健康」の概念も数値も作ったのは科学が進歩した時に教育を受けられた西洋社会の人間じゃないですか!ある研究者は「健康」の数値は、その数値を持つ人間を再生産することで、国として人口を予測したり、マネージメントしやすいから「健康」を進めるように仕掛けたっていうし。

私の研究のテーマは「女性の主体性」ですが、主体性には大きく分けて2種類あると言われていて「従属的な主体を生み出す主体化(=臣従化)」と「自由な主体を生み出す主体化」 があるらしいです。
きっとこの文章をここまで読んでくれている人は、ユーロセントリックな、効率とか個人主義とか自己規律とか、そういったイデオロギーの圧力みたいなのから生産される自分のあり方に疑問を持っている人なんじゃないかなーと思います。こんな風に自分が社会から統治されているのに気づいているんだけど、どうしていいのか分からない。私も同じですー!
ある哲学者は「批判」という言葉について、批判とは「一切の統治を望まない技術ではなく」、「今ある形で統治されないためにはどうすればいい のかという問いを巡る考察と技術のことである」て言ってました。私にとっての「批判」の実践は、ユーロセントリックな色々な自分を規律させようとする方法じゃなくて、アフロセントリックなダンスでした。ネオリベラリズム的な考え方が嫌いそうな、遊びとか柔軟性とか即興性とか、そんな哲学を体現した(embody)ダンスを輪になってすることで、身体の政治性について問う機会を作りたいなーって思ってます。


だからもし時間があったら、一緒にアフロセントリックに身体を感じましょー❤️

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