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近代戦争は100年ごとに起こる?高校の先生が放った予言と記憶研究との出会い

近代戦争は100年ごとに起こる。

私の通っていた高校で、世界史の先生がある時言い放った自説。その先生によれば、17世紀の三十年戦争から数え、18世紀から19世紀のナポレオンの台頭とウィーン会議に終わる第二次百年戦争、言わずもがな20世紀の第一次・第二次世界大戦と、100年のスパンで戦争が引き起こされているという。

近代戦争の特徴をどう定義するか、その先生の視点がややヨーロッパ中心になっていることなどを脇に置いておくと、「なぜ100年か?」という疑問が、当時からずっと心に残っているのです。

私はこの100年という時間軸を、三世代の親密な記憶が失われるタイミングだと考えています。

「戦争を直接経験した人々がいなくなっても、その経験を受け継ぐことができるのだろうか」

この問いを考えた時、自分のじいちゃん・ばあちゃんから直接証言を聞くことのできるタイムリミットは、ちょうど100年くらいなのです。戦争体験を客観的に話すには時間がかかること、成長してからでないと自分ごととして戦争体験を語ることが難しいこと、受け手である孫世代にもある程度の理解力が必要であることを考えると、例えば1945年に終結したアジア太平洋戦争の記憶を語ろうと思うと、終戦当時20代だった昭和1ケタ生まれ世代が、2023年現在、健康に90代まで生きている必要があります。

欲を言えば、30代以上でもっと社会の中枢にいた人、選挙権を持ち、仕事をしながら戦争を体験した人、開戦当初から従軍した人などの証言を聞いてみたいものですが、その可能性は2023年現在ほとんど失われています。

私は、小学生の時にかろうじて自分のじいちゃんから戦争体験を聞く機会がありました。8月が近づき「おうちの人に戦争体験を聞いてこよう」という学校の宿題をこなすため、じいちゃんから親づてに聞いた話で鮮明に覚えている話では、じいちゃんは若いころ中国戦線に従軍していて、漢江を下っていた時に中国軍の銃撃にあった。でもじいちゃんは、対岸に銃口を向けずに空を撃っていた、ということです。

正統な歴史学では、こうした証言や記憶と、それが実際にあったということを裏付ける史料を照らし合わせて、歴史事実を確定します。でも、私的で親密な関係性の中で受け継がれる記憶の1つ1つを裏付けることは難しく語るうちに一番肝心なところは曖昧になってしまうことが多いのです。

私は、旧日本軍の体質や、戦闘下という状況を考えると、じいちゃんが「空だけを撃っていた」はずはないと思っています。まだ小学生の孫にあまり残酷な話をしたくないという配慮からか、戦争中とはいえ人を殺めたという良心の呵責から逃れるためか、じいちゃんは「対岸を撃った」という証言は残さなかったのです。

修士論文ではこの辺の問題を扱いました。『じいちゃんはナチじゃなかった——家族の思い出の中で語られたナチズムとホロコースト』という先行研究では、親密な家族同士の語りの中で、ナチスやホロコーストに関わっていた「じいちゃん」の戦争の罪がそぎ落とされ、むしろ英雄化されていく傾向があることが論じられています。

「大変な時代だったが、ユダヤ人の家族を逃がした」「殺害を命じられたが、わざと致命傷にならないようにした」など、一部の道徳的な(?)エピソードだけが語られていき、残酷なエピソードは語られなくなっていくのです。そりゃ、誰もなるべく話したくないし、聞きたくないわな。

とはいえ、戦争を直接体験した世代が多くを占める時代には、暗黙の前提として戦争への忌避感が共有されています。どんなに保守的な政治家でさえ、政治的な取引や婉曲が大いにあったとはいえ、軍国主義との距離感を保とうとしました。ちょっとでも世の中が戦争に傾きそうな時は、運動を組織して抵抗した民衆もいました。

しかしいずれ、誰もが話したくない、聞きたくない記憶がぽっかりと穴のように空いたまま時代が下っていく。子世代、孫世代の私たちは、その穴の存在を予感しながら、もうその穴の存在を「事実」として証明すらできないほど、忘れてしまいそうになっているような感じです。

そんな時に、映画や博物館、記念碑や式典、文化的慣習の中で、こうした記憶はどう受け継がれ、変容していくのか。むしろ、戦争を直接体験した人たちの記憶を鮮度の高いまま受け継いでいくには、どういうテクノロジーを使い、どういう文化を築いていったらいいのか。そんなことを考えていて出会ったのが「記憶研究 memory studies」でした。

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