観客のいない劇場は劇場の死なのか

劇場に人がいない。忙しくてうれしい悲鳴の上がるはずだった予定に反して、静まり返ったステージ。いちおう一介の舞台スタッフだというのに、3月に入ってから、機材にさわってない。

すべて上から下りてきた。知らないうちにすべてが決まっていた。何かあった時に責任を持てないという理由から、動ける範囲がじわじわと狭くなった。パブリックな場でありながら、パブリックヘルスのために、縮こまったパブリックの領域。

観客のいない演劇は可能なのか。この問いは、表現の自由が極端に制限されたナチスドイツ時代を生きた劇作家・ブレヒトが、生涯をかけて追求してきた問いだ。考えてみれば、歴史をさかのぼると、劇場はあらゆる理由で特定の上演を断念する場面があった。政治的な理由から、経済的な理由から、差別などの社会的な理由から。

動画は、冷戦下のポーランドと米国で、観客にプロパガンダ芸術を提供することを強いられた劇場人たちが、自由な表現を求めて闘ってきた記録映画の予告クリップ。観客のいない劇場は演劇の死だ、と今をときめくベテラン劇作家がのたまったが、観客がいることを前提に、権力者の思うままに政治的メッセージを宣伝するよう求められる時代には、観客のいない劇場こそが演劇の生になる。

技術の発展で、ブレヒトの想定していた劇場とは違う時空間が生まれているという見方もできる。ニューヨークのMETやベルリンフィルなどは、ここ10年以上オンライン配信を効果的に劇場のプロモーションに使ってきたが、今回の事態を受けて、日本でもいくつかの劇場や団体がオンライン公演に踏み切った。画面越しにつながった視聴者は観客と呼べるのか、拍手の鳴らない劇場は劇場と呼べるのか、という問いが新たに生まれてくる。

さらに言えば、生のパフォーマンスと画面越しのそれはどう違うのか、ということも改めて考えさせられる。映画という技術が登場したとき、それは生の演劇とどう異なるのか(異なる「べき」なのか)ということが議論されたように、あるいは録音技術が登場したとき、それは生演奏とどう違うのか、どちらが良いのか、ということが議論されたように。

いずれにしても、このできごとは、新しい創作と、新しい評価指標を生めるかどうかの転換点になると思う。劇場に人を集めてはいけない、という条件のもとで、どんな表現ができるのか。入場者数や収益が主な事業評価の指標となっている中で、新しい表現の制作現場はどう評価できるのか。

こうして考えると、いま日本の現場に圧倒的に不足していると思われるのは、劇場と表現者をつなぐプロデューサーだ。もっと言えば、削られていく予算と表現の領域のがけっぷちに立ちながら、新しい挑戦を喜び、遊べる、専門家だ。

ずさんな契約に基づく一方的な公演キャンセルで、収入ゼロや赤字を余儀なくされているアーティストに思いを致し、日本の文化芸術状況、とくにその脆弱な専門性に憤りをもって抗議するとともに、いち制作サイドとしてできる限りの変革を試みていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?