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義母に捧げる歌

2024年6月に95歳の義母が急逝なさった。
先日ようやく49日を迎え家族で義母を見送った。



10年前から義母は老人施設で暮らしていた。私は一番近くに住む嫁なので、何かあると駆けつけるのが常だった。施設からの電話のほとんどは困り事だ。色々あって実に思い出が増えた。忘れてしまったこともあれば、いつまで経っても忘れられないこともある。



49日前に義母のことを書いておこうと思ったが、まとめられずにやめた。もう少し寝かせてから。今せいぜい書けるのは義母が危篤になった時からの覚書だけ。思い出が近すぎて書くのが難しい。義母の鎮魂のためというより、自分の気持ちをただ書き付けておきたいだけ、そんな長い書きつけです。関心のある方どうぞ。


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義母が施設に入った最初の頃とは、色んな状況が変化した。骨が丈夫じゃない義母は二年に一度は総合病院に入院して手術し退院してを繰り返していたが、90歳を超えた頃からはそれもできなくなった。



高齢のため麻酔に耐えられないという医師の判断で、手術の類いは無理になった。肘の骨に異常があって本来なら手術なのだが、そういう事情で「そのまま」になったりもした。義母の片腕はある時期から力なくぶら下ったまま使えない状態になった。



一年位前からは息子や娘の顔も識別できなくなった。調子が良い日はまた戻る、を繰り返した。耳はほとんど聞こえない。それでも胃腸は丈夫なので栄養は摂れていた。そのうち逝かれる、、と家族の誰もが思っていた。



6月半ばのある日、施設から義姉に連絡が来て私達夫婦と義姉の三人は急いで施設に向かった。義母は3日位何も口にしてないそうだった。時が来たという責任者の勘で呼んでくれたらしい。義母を車いすで施設の庭に連れ出したが呼びかけにも答えず、義姉のことも夫のことも認識できなかった。その日、施設の池には桃色の蓮が咲いていた。初夏の眩しい朝日を受けて輝く蓮が、義母の目に入ったのかどうかはわからない。「もう長くない」を皆が感じて帰宅した。




危篤の知らせはその翌朝だった。病院で延命治療せず、このまま看取るという親族の合意が出来ていたので、施設の一室で身内の付き添い人をつけて最後まで見守ることになった。施設はその24時間の付き添い人を基本的に一人に決めてくださいという。夫はその前後に講義予定がびっしり入っていたし、義姉はお商売があると。私が一人で残ることになった。危篤でも、このまま一週間位生きることもよくあるから大変だねと施設の人達は私に言った。




しょうがない。人の「死に時」を私が決められるわけもなし。お母さんが逝きたい時まで付きそおうと思った。うちの夫は五男なので、兄嫁は私以外にもいるが「遠い」とか「仕事でいけない」とか色んな事情を主張して誰もすぐ来ないので、この手の役目は私にくる。誰もいないなら私がやる。義母を一人逝かせたくはない。




さて、危篤の義母と二人これから何日か過ごすかもとなった。意識はないものの、危篤とは思えない程義母の息は安らかだった。時間はたっぷりある。まずは義母に今までの正直な思いを伝えた。施設のスタッフは私に「ハルモ二、全部聞こえていますからね!」と力強く言う。この期間に言いたいことは全部言っておけ!と、顔を出すたび暖かく言葉をかけてくれた。それは義母とのゆったりとしたお別れの時間をだった。




その数日後、夫はソウルでの大事な研究発表を控えていた。その発表は夫の研究人生を左右するように見えた。「親の葬式」よりそっちを優先するべきだと私は思っていた。また私自身もその翌週、友達と海外旅行を予定していた。キャンセルするならすぐにしないとお金だけ全額払うことになる。しかし義母が逝かれる時は分からない。



一緒に海外に行く友達に病室から申し訳なくそのことを告げると、「流れにまかせよう!私はどこに行きたいというより、あなたと一緒に行きたいんだ」と言う。友達の気持ちが心底ありがたかった。



義母とは色々あっても「義母はいい人間だ」という気持ちがいつもあった。会話は全くかみ合わないし、考え方も生き方もまるで違ってお互い理解不可能だけれど、「義母は善良な人だ、私に意地悪をするような事は絶対ない!という不思議な確信はあった。義母の枕元で夫の研究発表の事、私の翌週の海外旅行の事をただ伝えた。



義母のことを思うと、私には何だかさだまさしさんの歌が流れる。特に切ない系の歌の「無縁坂」(香西かおりさんじゃなく)とか「防人の歌」とか。

運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうことって確かにあるとあなたを見ていて思う。 (無縁坂)
私は時折悲しみについて考えます。誰もが等しく抱いた悲しみについて。
生きる悲しみと老いていく悲しみと
病いの悲しみと死にゆく悲しみと現在の自分と。(防人の歌)



義母は歌わない人だったが、ある夜歌とも言えない歌を歌っていたのを聞いたことがある。最初はただ泣いてるのかとおもった。音程の上下はほぼなく一本調子で、ほぼ泣き歌だった。あの感じから一番近いのが上記の歌だ。さださんの歌のように綺麗な歌ではなかったが、義母の声から、誰に愚痴ってもどうにもならないやりきれない思いを感じた。



言いたい事一通り伝え終わった私は、旅立つ義母に向けて歌っていた。韓国の有名な童謡「故郷の春」が口から出てきた。義母は今から魂の故郷に還っていくので、なんだかこれがふさわしいと思えた。



私の故郷は花咲く山奥の地。
 桃や杏や小さなつつじが咲く所。
 あそこで遊んだ日が懐かしい。



韓国人だったら誰でも知ってる有名な童謡だ。
義母の生家は雇人の多い豊かな家だったと聞いている。
子供時代の明るく楽しい思い出が義母にはきっとある。
お嬢様だった義母にはこれが似合う。




その晩、義母が一番可愛がった息子や孫がバタバタと病室に面会に来た。義母が最後に会いたかった人達だと思う。良かったねお義母さん。そして、その早朝、義母は静かに逝かれた。




義母がすぐに亡くなった事で、夫はソウルに研究発表に、そして私の方も海外旅行に行けるめどが立った。私と一緒に損するリスクをとってでも待ってくれた友人にも「一緒に行ける!」の嬉しい報告ができた。




義姉の家が地方の名士なので弔問客が多かった。葬式では現金払いの品物が意外と多い。会計の私は忙しかった。最近では夜の弔問客がいなくて眠れるのがありがたかった。韓国でも今や土葬はメジャーではないが、義母の望みに従い土葬にした。埋葬に時間とお金が掛かる上にその後の管理も大変だ。しかし義母にしてあげられる最後の事だ。都会にいる家族は不満そうだったが、私達夫婦はそれが良いと思った。埋葬は天気に恵まれた。土に還っていく義母を家族が取り囲んで見送った。



葬祭費の計算を終え、葬祭場にレンタル喪服を返却した後、「今後の墓や祭祀のこと」「今回集まった香典の事」を話合うため家族が集まった。話し合いはあまりスムーズではなかった。家族であっても皆意見が違うから。ただそこで兄嫁の一人が家族に向かってこんな事を言ってくれた。「家族みんなで一度ちゃんとえみこに感謝しないといけないです。オモニが病院に入ってから、会計ををはじめ色々えみこがやってきたんです。」



その兄嫁は現在家族の祭祀を一手に引き受けてくれている人だ。亡くなった義母とは最も親しい嫁だった。義母の入院中もしょっちゅう会いに来てくれた。料理も対人マナーもこの人の真似をしていればまず世間で怒られることはない。私にとっては「韓国嫁の手本」みたいな人だ。義母の件に関して、田舎ではどうしても近くに住む私の負担が大きい事を、常にねぎらってくれる優しい兄嫁だ。「えみこはどんな韓国人の嫁よりも、正しく伝統にのっとった韓国の嫁だ。」といつも立ててくれた。



兄嫁の呼びかけに拍手が来たが、兄嫁は更に続けた。「今回は感謝をお金であらわさないといけないです。」気の利く兄嫁のお陰で、私はその場でまとまったお小遣いをもらった。



スピーチを求められたわけじゃないが、私は家族全員を前に勝手に喋っていた。「義母さんとは、入院してから色々あったのですけど、今ではもう全部いい思い出です。このお金は義母さんがくれたお小遣いだと思って、来週楽しく海外で遊んできます。この家にお嫁にこれて良かったです。ありがとうございました~!!」家族の集まりが終わってその兄嫁と私はしっかり抱き合った。「お義姉さんありがとう~」二人で泣いた。「いやいや、あんた偉かったわよ、ご苦労さん」この兄嫁さんがこういう場でこんな主張をしたのは、私の知る限り初めてだった。兄嫁さんこそ、一人で祭祀を引き受けていてもっと大変なのに。そういう人だから人の大変さも目に入るのだろう。




私はその後、友達とそれはそれは楽しく海外旅行に行ってきた。とても清々しい旅だった。なんだか義母が一緒に来ているような気がして、見えない義母に話しかけたりした。世界で一番高いビルディングから「お義母さん、この景色見える??すごいよね!」と。



先日、ようやく義母の49日が終わった。(一週間ごとに集まって拝んでた)本当は夫の兄が代表でコサ(故人への代表挨拶のようなもの)を読むはずだったが、直前になってそのお役目がうちの夫に回って来た。どうも怖じ気づいたらしい、義兄が。夫は急いで自分で文章を作って壇上で読み上げた。義母に対する素直な思いと感謝が溢れる朴訥な言葉に皆が涙した。心に沁みるコサだった。うちの夫は心根がいい。




お義母さんありがとう。色んな意味でありがとうです。私はあなたの息子とこれからも頑張って生きていくので、どうか見守ってください。どうか安らかに。待っててね、次の秋夕、お義母さんお気に入りのお義姉さんと一緒に料理作って待ってる! こっちに遊びに来てね~。




ということで、義母の49日を迎え一区切りがついたので書かせてもらった文章です。色んな事をはしょっており、私の主観的な文章ですが。義母の事には万感の思いがあって一つ一つ細かく書くとキリがなくて、私としてはかなり簡単に書くように心掛けました。姑の話ってダイジェストじゃないと重すぎるよね笑 書けたことで何かを下ろせたような気もしています。この夏は義母のお見送りの夏だったなと。読んで下さりありがとうございました。


 























 





































































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