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【Lonely Wikipedia】1860年代

ではまず1860年代に世界で何があったのかを概観してみたい。

1860年
• 9月7日 - ジュゼッペ・ガリバルディ、両シチリア王国の首都、ナポリに入城。翌10月両シチリア王国の版図であるシチリアを含む南イタリアをサルデーニャ王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。
• 9月21日 - 八里橋の戦いの開始。最終的に清軍を敗戦する、イギリス軍とフランス軍は北京へ進軍する。
• 10月24日 - 英仏露と清の間で不平等条約北京条約締結
• 11月6日 - エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に当選。
• 12月よりアメリカ南部諸州が合衆国からの離脱を宣言。
• この年、サルデーニャ王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、ローマ教皇領およびオーストリア領ヴェネト地方を除き、イタリアを支配下に収める。
1861年
• 1861年4月12日 - 1865年4月9日 - アメリカ南北戦争。
• 1861年 - 1870年 - イタリア統一戦争。
• 2月4日 - アメリカで南部7州がアメリカ南部連合を設立、独立を宣言。
• 3月17日 - ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世によるイタリア王国の成立宣言。
• 4月12日 - 南軍が連邦のサムター要塞を攻撃、アメリカ南北戦争の開始。フランス、コーチシナ戦争によりベトナム南部占領。
• 6月25日 - オスマン帝国第32代皇帝アブデュルアズィズ即位
• 11月11日 - 清の第10代皇帝同治帝即位し、母西太后による摂政政治始まる。
• 12月8日 - フランスによるメキシコ出兵
1862年
• 1月21日(文久元年12月22日) - 文久遣欧使節、欧州諸国との不平等条約解消交渉のため出発。
• 5月1日 - 第2回ロンドン万国博覧会が開幕する。
• 6月5日 - フランスとベトナム間で不平等条約サイゴン条約締結
• 6月6日 - 両都両港開市開港延期問題に関し、日英間でロンドン覚書締結
• 文久2年8月21日 - 生麦事件。
• 9月22日 - リンカーン、奴隷解放宣言を出す。
1863年
• 7月1日-7月3日 - ゲティスバーグの戦い。
• 8月15日(文久3年7月2日)- 薩英戦争。
• 9月30日(文久3年8月18日) - 八月十八日の政変
• 11月19日 - リンカーン、ゲティスバーグ追悼演説(人民の人民による人民のための政治)。
• 12月13日 - 李氏朝鮮第26代国王高宗 (朝鮮)即位、父興宣大院君の摂政政治始まる。
1864年
• 1月16日-10月30日 - ドイツ統一戦争(第二次デンマーク戦争、プロイセン・デンマーク間)。
• 4月10日 -フランス主導でマクシミリアン (メキシコ皇帝)即位し メキシコ第二帝政始まる。
• 7月19日 - 太平天国の乱終結。
• 8月5日 - 英仏蘭米の連合艦隊が馬関を砲撃し下関戦争始まる。
• 8月20日(元治元年7月19日) - 禁門の変。
• 9月、アメリカ北軍、アトランタを陥落させる。
1865年
• 4月3日 - アメリカ南部連合の首都リッチモンドが陥落。
• 4月9日 - 南軍のロバート・リー将軍が降伏し、南北戦争の事実上の終局。
• メンデルの遺伝の法則発表(ブリュン自然協会で口頭発表)。
1866年
• 3月7日(慶應2年1月21日) - 薩長同盟成立。
• 3月8日 - 李氏朝鮮でキリスト教弾圧丙寅教獄始まる
• 6月22日-7月26日 - ドイツ統一戦争(普墺戦争、プロイセン・オーストリア間)。
• 8月16日 - 李氏朝鮮で米国船ジェネラル・シャーマン号事件起こる
• 10月11日 - 李氏朝鮮とフランスの間で丙寅洋擾勃発
• メンデルの遺伝の法則発表(ブリュン自然科学会誌で論文発表)。
1867年
• 1月30日(慶応2年12月25日) - 孝明天皇が没し、第122代明治天皇が践祚。
• 4月1日 - パリ万国博覧会開幕。日本からは幕府と薩摩藩、佐賀藩が出展。
• 6月19日 - 米国主導でマクシミリアン (メキシコ皇帝)処刑され メキシコ第二帝政終わる。
• 7月1日 - カナダがイギリスから独立。
• 7月15日 - フランスのカンボジア支配を宗主国シャム(タイ)が承認
• 11月9日(慶応3年10月14日) - 大政奉還。
1868年
• 1月1日(慶応3年12月7日) - 神戸港対外開港。
• 1月3日(慶応3年12月9日) - 王政復古。
• 1月27日(慶応4年1月3日) - 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の勃発)。
• 2月4日(慶応4年1月11日) - 神戸事件。
• 上野戦争。
• 北越戦争。
• 会津戦争。
• 4月6日(慶応4年3月14日) - 五箇条の御誓文。
• 10月1日 - タイ、ラーマ5世即位。
• 10月23日(明治元年9月8日)- 元号が慶応から明治に改元。
• ロシア帝国、ブハラ・ハン国占領(英露のグレート・ゲーム)
1869年
• 6月27日(明治2年5月18日) - 箱館戦争終結(戊辰戦争の終結)。
• 7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還。
• 11月17日 - スエズ運河開通。

このように、世界史的に見ても激動の10年であった。前半にアメリカで南北戦争があり、それに影響されるかのように、北米のイギリス植民地がカナダ連邦として独立し、一方でメキシコではアメリカによって、フランスに支持された第二帝政があっけなく終わった。そのフランスは、アジアでアロー号事件に引き続きインドシナへの進出も強めていた。そんなフランスの圧力への反発もあり、大院君が摂政となった朝鮮では激しい攘夷がおきていた。一方ヨーロッパではイタリアとドイツでは統一戦争がおき、国民国家成立への動きが加速していた。そしてその流れに押し流されるかのように、日本では明治維新が起きることとなる。

それぞれの細かい話はこれから個別に見るとして、ここではそこに至るまでの流れを軽く押さえておきたい。

まずはこの時期の中心となる南北戦争がおきたアメリカについて。

そもそもアメリカの独立は、北米植民地からイギリスがフランス勢力を追い払ったことに対して、植民地に代表なきままで税金を課したことから始まった。フランスは当然アメリカを支持し、結局独立派が勝利を収めて、五大湖以南、ミシシッピー以東のフロリダを除いた地域がアメリカ領となった。

その後、旧大陸ではフランス革命からナポレオンの帝政にいたり、そのナポレオンが北米植民地のルイジアナをアメリカに売却したことからアメリカは大きく西方に拡大した。

また、イギリスからスペインに返還されたフロリダでは、無償土地と言うことで開拓者を惹きつけたため、開拓者が大挙して押し寄せ、結局少数しかいなかったスペイン人役人が打ち負かされ、西フロリダに独立政府を打ち立てた。一方東フロリダは原住民が強かったようで、おそらくその為もあってイギリスはそこをスペインに返還し、スペインもまた無償土地というようなことをしたのではないかと考えられる。結局西フロリダはアメリカに組み入れられ、一方東フロリダは三度に亘るセミノール戦争で原住民が強制移住等もあり、ほぼフロリダからは追い出されてしまった。第3次セミノール戦争は1859年まで続いており、これ自体南北戦争に大きく関わっているのではないかと考えられる。

次いでメキシコ。

1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。

アメリカから遅れること50年弱、1821年に第一次メキシコ帝国成立。1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立。これにはスペイン本国の情勢が深く絡んでいた。1808年からナポレオン傀儡のホセ1世に対してスペイン独立戦争が始まり、1812年に、植民地からの代表を含んだ議会によって、国王の正当性と主権在民を謳った立憲君主制の1812年憲法が成立した。ナポレオンの失脚後の1814年にフェルナンド7世による王政復古があり、その憲法はすぐに廃止された。それに対して1920年に立憲革命が起こったが、フランスを中心とした神聖同盟の介入を招いて再び王政復古、33年にフェルナンド7世が没すると、3度にわたるカルリスタ戦争へと混乱の時代に突入していた。
これに影響されるかのように、メキシコでも自由主義と軍政との間で揺れ動いていた。そして、スペイン系以外の移民が多くを占めていたテキサスでは、1824年憲法で定められた奴隷制度への反対などから、アメリカへの編入の動きが起きていた。これを受けてアメリカは27年、29年に相次いでテキサスの買収をメキシコに持ちかけたが、いずれも拒否された。ここで、メキシコのサンタ・アナという毀誉褒貶の激しい政治家が出てくるのだが、彼はテキサスへの管理を強化するためにテキサス遠征を行ったが、その間にメキシコ本国で中央集権化への動きが起き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。この辺りは、実際にはサンタ・アナがテキサス独立を認めないように奮闘していたのだと考えられる。36年にはテキサス共和国が成立したとされる。このあたり、英語や日本語では完全にアメリカサイドから書かれた情報しか出てこないので、実態は非常にわかりにくい。そして45年にアメリカによるテキサス併合が起きる。このテキサス併合が合法であるという前提で現在の国際法が成り立っているとすると、様々な矛盾はまさにそこから生じているのだと言えそう。この辺り、南北戦争にも直結する話なので、またそこでみることができたらみてみる。
とにかくこのテキサス併合を受けて46年から米墨戦争が始まる。おそらくメキシコ側は先住民の存在も鑑みて北部への進出は控えていたのだと考えられるが、そこにアメリカが一方的にテキサスを併合し、さらにその境界をメキシコ側に入り込むように変更をしようとしていた。そうして起きたのが米墨戦争だが、戦い自体はサンタ・アナ率いるメキシコの方が優勢だったのにも関わらず、本国での混乱のために北での戦いを終わらせざるを得ず、大幅な領土割譲を含んだグアダルーペ・イダルゴ条約が1848年2月2日に調印された。この条約自体、管理権をアメリカに売却する、というような内容であったが、調印後にアメリカがその内容を大幅に書き換えており、強奪と言って良いものであった。要するに、アメリカ西部については、アメリカ領有の正当性自体、ほとんど存在していないものだと言える。そして、この米墨戦争は、真っ当な神経を持っていれば、とてもではないが直視できるようなものではない。結局現状追認のような形で53年にサンタ・アナとの間でガズデン購入が成立したが、それによってサンタ・アナはメキシコを追放されることになる。そんな米墨戦争を経て53年に日本にやってきたのが、マシュー・ペリーということになる。

アジア情勢については、西欧諸国の進出に伴う反応的な要素が強いので、具体的な事件のところでみることとする。


続いてヨーロッパ。
まずイタリアでは、

ナポレオン没落後のウィーン会議によって、イタリアには小国が分立した。

ウィーン体制(ウィーンたいせい、Vienna system, Vienna Settlement)とは、ウィーン会議(1814-1815年)以後のヨーロッパの国際秩序である。1848年革命を経てクリミア戦争(1853年-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的体制であった。

ナポレオンの存在感が大きいので、 フランスの流れに触れざるを得ないが、ナポレオン失脚後、1815年に王政復古でブルボン朝が復活したが、30年の7月革命でブルボン朝が倒れ、ルイ・フィリップが王となった。

それは各国に影響し、ベルギーの独立、ポーランドの11月革命によるロシアの影響力拡大、そしてイタリアでのカルボナリの蜂起へとつながる。このカルボナリの蜂起自体は、ルイ・フィリップの支援も得られないまま、オーストリア軍によってすぐに鎮圧されるが、1848年革命への萌芽となる。

1848年革命は、48年1月12日のシチリア革命によって始まったとされるが、なぜシチリアでその時に起きたのか、というのはちょっと今は追えそうもない。ここにもスペインの1812年憲法の影響がありそうで、そして米墨戦争も関わっていそうだが、直接の関係性はわからない。シチリア革命はともかく、全体の流れとしては、45年からアイルランドでジャガイモ飢饉が起き、その対応としてイギリスの穀物輸入が拡大し、それによって正貨である金が流出し、それに対してバンク・オブ・イングランドが商業手形の割引率を引き上げ、信用収縮が起き、47年金融恐慌が起きた、ということがありそう。それが、特にイギリスの商業金融への依存度が高かったフランスでの恐慌につながり、それが革命への道を開いた、という具合に理解したが、それが正確な理解なのかどうかはまだちょっとわからない。

とにかくこの1848年革命は、ヨーロッパ中に広がり、ウィーン体制を終わらせることになった。それがイタリアやドイツといった地域での統一国家形成への動きへとつながったと言えそう。

この辺りはまた戻ってみることもあるかもしれないが、とりあえずはここまでとする。

Photo from Wikipedia 1860s

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