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市場・政府・組織・社会 経済学と経営学の境目

経済学と経営学は一体どこで分かれるのか。現代において、ざっくりと言えば、経済学はマクロの社会的厚生のようなものを極大化するためにあり、一方経営学はミクロの経済主体の利益の最大化のためにあるのだと言えそう。そして、近代経済学は、ミクロの利益最大化行動が市場を通じてマクロの社会的厚生の最大化をもたらすのだと説明していると言えるのだろう。しかしながら、実際にはそこには、経済学において合成の誤謬として知られる、ミクロの最適行動がマクロの最適化につながらない、という部分がかなり大きな部分を占める。これは一体なにを意味するのか。

経済学における市場

そもそも、経済学が生まれた当時は、市場というのは具体的な財の交換市場であり、現代のような仮想的な金融市場が額で言えば市場のほとんどを占める状態とは全く異なっていた。株式の市場での取引が行われるようになったことが大きな転機となって金融市場の拡大が始まり、そしてそれは、特に限界革命以後の経済学の進化とほぼ軌を一にして発展してきた。つまり、アダム・スミス的な市場と分業の世界をベースにしながら、実際の経済学の進化は株式市場を典型とする金融市場での均衡が資源の最適配分をもたらすのだ、という、スミスを理論的根拠とするには牽強付会ともいえる、現実の実体経済から離れた方向で展開することになったのだ。

ケインズによる金融市場分析

それに対して、その金融市場を実体経済と分けて考える、ということを行ったのがジョン・メイナード・ケインズであるといえる。ケインズの考えに基づいて、ISとLMという、実体経済である財市場と貨幣の需給に関わる金融市場が分けて考えられるようになり、そして金融市場に影響を及ぼす政策としてのマクロ経済政策というものが、経済学においての主要な研究対象となった。

ケインズの金融市場、とりわけ株式市場を念頭に置いた言葉ではあるが、「美人投票」というものがある。より多くの人が美人だと考えた人が美人コンテストで優勝するように、金融市場においては、取引されるそのもの自体の価値よりも、皆がなにに価値を見出しているのか、ということの方がより重要になる、という考えだ。つまり、金融市場では、商品価値ではなく、商品の観察結果の価値が取引される、ということになるのだ。

「観察」

ここで、観察、ということが重要な意味を持つようになる。観察というのは、自然科学的に考えれば、対象には直接干渉せず、単にそれを見ることによって結果を得る、という行動であるといえる。しかしながら、金融市場においては、観察の結果、価格が上がりそうだと考えたら、自らそれに投資し、さらにはそれがさらに価値を増すように主体的に行動することになる。それはもはや観察ではなく、参加である。つまり、自らの行動自体も他者からの観察、とも言い難い、他者との駆け引きの一部となり、それはもはや、自分が審査員であるという「美人投票」とは異なった、単なるさや当てとなる。

金融市場での最適配分?

財市場ならば、財自体にそれぞれ固有の価値があることから、その固有価値の分配が市場によってうまく行われ、最適配分に近いものが実現される、という理屈は成り立つ。しかしながら、果たしてさや当てになんらかの最適配分が実現するという理屈は成り立つのだろうか。自らの利益極大化が、他者の品定めをして安い時に買って高い時に売るということで、それを皆が行えばそれは人を値踏みして安く買った後に、膨らませて高く売る、ということの繰り返しとなり、結果としては社会に利益を取りこぼすことなく自らの利益を極大化することが合理的となり、そこに社会的厚生を極大化する理屈は全く働く要素がない。

合成の誤謬

ここでまず一つの合成の誤謬の原因が明らかになる。つまり、経済学的な利益極大化が経営学を凌駕することで、財の品質向上による価値増大を通じた市場による社会的厚生増大作用というものが働かなくなる、ということだ。要するに、経済学的なミクロ合理的行動が、マクロの合理性をもたらさない、ということになるのだ。

一方で、マクロ経済政策は、貨幣市場のコントロールということを一つの大きな駆動力にしている。しかし、貨幣市場においては、独占的に優位なポジションを持っているものがさらに利益を積み上げやすい、つまり、さや当てにおいて、美人は美人であるというだけでモテる、ということが起こるので、厚生の改善を必要とする不美人のところにはいつまで経っても貨幣市場からの利益は落ちてこないことになる。つまり、経済学的なマクロの合理性自体が、経営学的な財の品質向上作用というものを無力化し、依らば大樹の影よろしく、美人の側によってそのおこぼれをもらう方が合理的になる、という行動を起こすことになる。

経済学的利益の勢力拡大

これは、経済学と経営学のパワーバランスにおいて、経済学的利益の方に大きく傾いていることによって起こっていることだといえる。それによって、経営学自体も、組織論、組織の利益のようなことに大きく振れるようになり、それは、アダム・スミス的な個々のスキルを十二分に生かしてそれを交換することによって起こる分業の利益という、経済学が社会的厚生の増大をもたらすための基本的な機能を大きく損なうことを意味している。つまり、経済学、経営学の両面において、分業による市場分配の利益が、組織によるさや当て行動にによって蚕食されているのが現在の状態であるといえるのだ。

「観察」再定義の必要

これは、観察が参加と一体化、つまり主客の同一化によってもたらされているのだと考えられる。要するに、マクロ的な美人投票、というよりもさや当て行動というものは、対象を安く買い叩くことによって成り立つので、それ自体対象の品質向上に結びつきにくく、それゆえに分業と市場による社会的利益を生み出しにくくなっているのだと考えられる。それを避けるために、観察とはなにを意味するのか、ということを再定義する必要があるのではないだろうか。

見る、という行動は、観察から監視までのスペクトラムにわたるのではないかと考えられる。つまり、単に見るだけの観察から、条件を色々変えてみる実験、そして自らの思う通りの行動を導く誘導、さらには無言の強制によって自らの思い通りに対象を動かす監視まで、対象への干渉度合いに応じてさまざまな見方がありそうだといえる。そして、その延長線上に直接参加があり、つまり、観察の延長上の参加は、自らの意図に引き寄せる、という強い動機を持つことになる。

ここで、経済と経営ということについて考えてみると、本来的には、経済は観察に特化し、一方経営が組織運営であるとすれば、それは監視的な側面を持つことになる。マクロ経済学の導入、そしてその政策への応用に従って、成果が求められるようになり、理論的にもゲーム理論やナッジの導入によって経済学は監視の色彩を強めた。一方で、企業もどんどん巨大化することで社会への影響力を増し、そしてさらにサプライチェーンマネジメントまでもが経営として意識されることで、経営自体が社会監視的になってきた。つまり、経済学が性質を監視の方向にシフトさせ、一方で経営学がその範囲を社会全体に広めることで、社会全体の監視的な色彩が非常に強くなってきているのだといえる。合成の誤謬は、この社会の監視化によって引き起こされているのではないだろうか。

「参加」のスペクトラム

一方で、参加という行動が引き起こす他者との関わり方について考えると、それは対話から強制のスペクトラムが広がっているのだと言えそうだ。お互いの納得を求める対話、相互の違いを明らかにする議論、立場の違いに白黒をつける討論、その結果としての論破、そして自分の立場を相手に押し付ける強制という関わり方がありそうだ。

ここで、縦軸に観察から監視、横軸に強制から対話までをとってみると、第一象限が観察ー対話という市場、第二象限が観察ー強制という政府、第三象限が監視ー強制という組織、そして第四象限が監視ー対話という社会になるのではないかと考えられる。

観察ー対話

そしてそれをなめに見て、右肩上がりのベクトルが経済・経営であるとすると、左肩上がりのベクトルは社会・政治であるといえるのかもしれない。だとすると、経済を観察という元の特性に引き戻すとともに、経営をダウンサイジングして個別に市場に直接影響を及ぼすことのないようにして資本主義を市場に基づいたものにし、一方で社会における対話の特性を回復させ、権力が強く社会全体を縛ることのないようにダウンサイジングして民主主義を活性化させることで、個々の主体の相互観察、相互の違いの尊重、そして対話を通じたお互いの納得に基づき、相互の棲み分け、分業によって市場が効率的に作用するようになり、社会厚生の最適化が実現されるのではないだろうか。

ちょっとまだ自分の頭の中もしっかり整理できていないようで、生硬なところがあって読みにくいが、とりあえず今のところでまとまった考えを書いてみた。

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