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【Lonely Wikipedia】チベット動乱

昨日の青海の暴動についてもう少し補足。

循化事件是1958年4月發生在第十世班禪喇嘛故鄉、中国青海省循化撒拉族自治縣的藏族和撒拉族暴動。中國共產黨稱為「循化撒拉族自治縣反革命武裝叛亂事件」。循化縣的民眾因為不滿當地甚受敬重的加乃化仁波切被軟禁,以及財產被收歸國有,因此殺死工作組組長等人。中共出動解放軍鎮壓,四小時內平息了事件。這個事件雖然只是一個地方性衝突,但對中国後來的民族政策產生了巨大影響。

1958年4月に、パンチェン・ラマ10世の故郷である青海省循化県で起きた暴動。パンチェン・ラマの師匠が県の副知事を務めていたが、その財産の国有化に対して反対の暴動が起こったという。

當時循化縣的4個藏族鄉里,噶楞、溫都和道幃3個農業鄉在1956年已經成立了高級社,以牧業為主的岗察乡就成了推動「牧業合作化」的主要對象。

農耕県では全て国有化が終わったが、唯一の牧畜県で問題が起こったようだ。
なかなか微妙な問題なので要点をまとめることができないが、

加乃化仁波切曾擔任過第十世班禪喇嘛的老師,當時是循化縣副縣長,在當地深受民眾敬仰。1958年4月,循化溫都寺(又譯「文都大寺」)的加乃化仁波切等上層人士被請到縣城去參加「學習班」,不准離開。
1958年4月17日,岗察乡牧主奴日洪布帶領民眾抗拒合作化,同時要求釋放加乃化仁波切,民眾扣押鄉黨支部書記,砍斷電線杆。次日抗議升級為武裝衝突,工作組組長被打死。接著,撒拉族頭人也率領撒拉族民眾加入。4月24日,各族民眾共4000多人在撒拉族頭人韓乙奴和阿訇韓乙四夫的帶領下包圍縣城,其間發生毆打幹部,搶劫商店等暴力行為。
循化事件的範圍包括循化縣的七個鄉,其中除了岗察乡外,都已經實行了合作化。中共官方文件指地主、富農與富裕中農趁機從農業生產合作設取回牲口與農具,而且當地超過2/3的黨員與共青團員也參加了反抗活動,其中近半數的黨員與共青團員參加了對縣城的攻擊。事後這些人中有人被指控為「骨幹份子」與「趁機搶劫國家財物」。
4月25日拂曉,解放軍步兵第55师163、165兩個團共約四個營、55师工兵營、砲兵306團一個混合砲兵營,以及循化縣兩個民兵騎兵營奉命渡過黃河,圍殲「叛匪」。韓乙奴和阿訇韓乙四夫得到解放軍進攻的消息,已經率領武裝人員在夜裡逃走,被解放軍包圍的基本上是要求釋放加乃化仁波切的民眾。解放軍趕到後,在沒有遭到抵抗的情況下,攻擊民眾。直到解放軍發覺「叛匪」們並不具備反擊能力,自動停火,才發覺死傷者全是手無寸鐵的民眾。在4小時內,民眾死傷719人,其中435人被擊斃。由於對手是平民,解放軍沒有傷亡,死亡的15名幹部和民兵是中共派出解放軍前被殺。財產損失約90萬元人民幣,包括糧食、油、現金,以及約兩百棟房屋受損。
戰事結束後,中國政府展開搜捕,一個下午就「俘敵」2499人,其中包括1581名撒拉人,537名藏人,38名漢人和343名回人。循化縣當時人口僅有11,000人。
當日,加乃化仁波切得知消息,在「學習班」裡悲憤自殺。中共宣稱他是「循化事件」的組織者,他的死亡是「畏罪自殺」。至於他如何組織「叛亂」的詳情,中共至今沒有公佈。

副知事が県主催の「勉強会」に招かれたが、そこから戻ってこなかったので、その釈放を求めて抗議行動が起こった様子。工作組の組長が死んだという。その翌日に、サラール人が参加し、暴動が激化。これにはブルジョワクラスも参加し、のちに幹部となって財産を略奪したと非難された者もいたという。イスラム系らしき名の二人が、解放軍の到着を聞いて、武装兵を率いて夜のうちに逃げ出し、そこに解放軍が到着して2500人近くが逮捕されたという。それは、県の全人口の20%以上に当たる数だった。副知事はその日のうちに自殺、共産党は彼に責任を押し付けた。このほかにも青海省では多数が逮捕されており、そこから逃れるために多くのチベット人がラサに集まり、その多くが59年のチベット暴動に参加したという。
共産党は、この事件は民族問題ではなく階級闘争だとしたというが、そういう言い方をしている以上、やはり本質は民族闘争だったと考えるべきなのだろう。

サラール語はトルコ語やトルクメン語と相互理解が可能なほど近いとされ、それがいかにして青海にやってきたのか、というのは非常に謎が多い。

実際のところ、トルクメン人自体も謎が多く、オグズ語族ということで同じ語族が作ったガージャール朝イランが衰退する中で、ペルシャ方面からトルコ系の人々が逃れてきたのがトルクメン人なのではないか、とも感じられる。そして、トルクメン人は、その謎の出自にも関わらず、トルクメン・ソビエト社会主義共和国というかなり広い領域にわたる共和国を得ており、反ロシア的な志向が強かった中央アジア諸部族に睨みを効かせるために、あえて南の国境付近に人造的に作られたのではないかと思える節もある。そうなると、共産党とはかなり繋がりがあったとも考えられ、その勇猛さを買われて青海に導入されたのではないだろうか。

そうだとしても、パンチェン・ラマの地元にそれを送り込むというのはかなり趣味が悪い。毛沢東ならばやりかねないとは思うが、それでもやはりダライ・ラマとの関係性の方が気になる。毛沢東がやるのならば、もっとチベット全域なり新疆なり、もう少し違ったあり方もあろうが、サラール人は8割方が青海省に集中して住んでおり、そしてその中でも循化サラール族自治県に全サラール人の6割が住んでおり、そこに狙いをつけてやってきたのは明らか。

どういう繋がりかまではわからないが、ダライ・ラマが西からトルキスタン人を引き入れ、それが循化県に入るように仕向けたのではないか。そして、チベット人の家畜を国有化するに際して、そこに入り込んでそれを略奪同様で奪い取ったのではないか。それに対して青海のチベット人がラサに押し寄せ、それがラサ暴動に繋がっていったように見受けられる。

そしてラサ事件、いわゆるチベット暴動へとつながる。

1959年2月7日(藏曆年廿九),中国人民解放军西藏軍區副司令员鄧少東與丹增嘉措觀賞賀年金剛舞時閒聊,閒聊間丹增嘉措決定在2月21日大法會的考試後擇日去看西藏軍區文工團演出(是鄧少東邀請還是丹增嘉措主動提出,史料矛盾極爭議),又因燈光與佈景技術困難,丹增嘉措同意不按慣例在羅布林卡宮殿觀賞,而是3月10日移駕軍區禮堂觀賞。
達賴出行按傳統禮儀有25名藏軍警衛團全程隨行仪仗,而西藏軍區慣例不許外部軍人進入,加上在藏軍不知情下軍區內正在修築備戰工事,軍區副司令員鄧少東拒絕藏軍警衛團隨行入軍區。鄧少東安排達賴來軍區禮堂看演出,是燈光與佈景技術困難的不得已之舉,本意是舒緩緊張局勢。中国大陆异议人士李江琳认为,此举結果給自己造成難題,至今中華人民共和國政府出版物均避而不談「拒絕藏軍警衛團隨行入軍區」。噶廈高層官員認為不遵從達賴出行傳統禮儀是極不尊重,加上當月(3月)在青海和川邊發生了喇嘛被政府邀去「學習班、宴會」遭誘捕的前科,令上層官員憂慮其安全。
丹增嘉措堅持出行,兩名孜仲(僧官)益西隆珠、巴什·阿旺丹均見無法勸服,蓄意曝光其保密行程,然而消息經謠傳變成「漢人準備帶走達賴」甚至「達賴已被劫走」,各地藏民蜂湧包圍羅布林卡,請求丹增嘉措取消軍區之行,後改為要求丹增嘉措撤換隨行藏軍警衛團,由包圍民眾另組衛隊護送出行。
藏民群眾控制了罗布林卡内的三位噶伦,並在大街上張貼海報、呼口號,要求中国共产党離開西藏,最后演变为大规模起義。噶伦阿沛·阿旺晋美及帕巴拉·格列朗杰等几位亲中共派噶厦官员在军区内寻求保护,而帕巴拉·格列朗杰的哥哥索朗降措则被藏民杀死。围困罗布林卡的群众推举了一百余名代表成立了人民会议,实际上取代了噶厦政府的权力,形同政变。 

これも何が言いたいのかよくわからないが、要するにダライ・ラマは人民解放軍をダシにしたのか、あるいは共犯関係だったのかはわからないが、とにかく不穏になったラサを抜け出そうと画策しており、それを察したラサの人々が勝手に逃げ出さないように、という抗議行動に出た、というのがラサ事件の始まりではないか。あるいは青海の事例のように、勉強会に出席という理由で雲隠れし、チベット自治区での牧畜国有化を進めようとしたのかもしれない。いずれにしても、ダライ・ラマの怪しい行動に対して民衆が反応した、というのが実際のところであろう。
その後の経過も、なんとも茶番くさい。騒動の発端となった大砲砲撃は曾惠山という経済警察が個人的に発射したのだという。経済警察というのがどういう立場なのかよくわからないが、漢人的な名前を見ると、もしかしたら第18軍として先にチベット入りしていた張国華子飼いの者が混乱に乗じてダライ・ラマを逃すために行ったのかもしれない。
騒乱自体は3日で治ったようだが、いったい誰と誰が戦ったのかすらもよくわからない。周恩来はガシャ政府を解散させ、その権限をチベット自治区準備委員会に移し、チベット全土で「民主的な改革」を即刻実施することを発表した。一方で毛沢東は事件はガシャ政府と「地元の反動グループ」が仕組んだものであると結論づけた。ガシャ政府が主犯であることは共通の認識のようだが、「民主的な改革」の立場と「地元の反動グループ」というのは見解の相違で同じ集団を指しているようにも感じる。

这篇公报确立了中华人民共和国政府的官方立场,即达赖喇嘛是被劫持出走。此后虽达赖喇嘛多次否认,中华人民共和国政府仍坚持此立场。
在三月十日拉萨叛乱爆发以后,达赖喇嘛曾三次给中央驻藏代表来信,说明他已被反动分子劫持,并且表示正在尽一切可能设法处理反动集团的违法行为。

このダライ・ラマの否定と、その後に書かれた行動の違いがよくわからない。出奔と言われたことに対して抗議しているのだろうか。それとも反動グループに拉致という部分を強調したいということなのか。
全体的に毛沢東がダライ・ラマを庇って印象を作っているという感じを受ける。
結局、この事件と関わるかどうかはわからないが、毛沢東は59年4月27日に大躍進政策の失敗の責任を取って国家主席を辞任している。

それに先立つ動きとして

28日,总理周恩来下令将西藏噶厦政府解散,并由西藏自治区筹备委员会行使西藏政府职权,任命十世班禅为筹备委员会代理主任委员。
29日,十世班禅向北京发电报,表示支持国务院的决定,并从日喀则赶往拉萨,行使代理主任委员职权。
4月1日,达赖喇嘛抵达印度,在印度组织西藏流亡政府,致力于“西藏独立运动”。
同年4月14日,十世班禅率领西藏代表团抵达北京,准备参加了第二届全国人大第一次会议。
当晚,周恩来在中南海为其举行宴会。
15日,毛泽东召集第十六次扩大的最高国务会议,重点谈论西藏问题。
十世班禅大师出席会议并在人大全体会议上作了长篇发言,阐述了“西藏在平息叛乱和改革中取得的伟大胜利,严厉谴责一小撮反动分子背叛祖国、妄图阻挡西藏社会进步的罪行。
同时,真诚希望达赖喇嘛回到祖国怀抱,共同建设新西藏”。

パンチェン・ラマは、人民解放軍がラサ事件を治めた後に筹備委員会代理主任委員に任命され、それを受けたという。なお、パンチェン・ラマは事件当時どうもラサではなくシガツェにいたようだ。4月1日にダライ・ラマがインドにつき、チベット亡命政府を作る。14日にはパンチェン・ラマは全人代に出席するために北京に飛んだ。翌15日に国務院でチベット問題が取り上げられ、パンチェン・ラマはそこで演説し、チベット情勢について反動派の行動を非難し、ダライ・ラマの帰国も訴えた。そして27日の毛沢東国家主席辞任となる。もっとも、パンチェン・ラマはのちに毛沢東とも会見しているので、この演説が直接の原因となったわけではないだろう。なお、パンチェン・ラマは生涯にわたってダライ・ラマを非難することはなかったという。

インド入りの途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国側も国務院総理周恩来の名義で「原西藏地方政府を廃止した」と布告し、これより十七か条協定は消滅した。

On the path that was leading him into exile in India, the 14th Dalai Lama arrived 26 March 1959 at Lhuntse Dzong, where he repudiated the "17-point Agreement" as having been "thrust upon Tibetan Government and people by the threat of arms" and reaffirmed his government as the only legitimate representative of Tibet. On 20 June 1959, at a press conference convened at Mussoorie, the 14th Dalai Lama repudiated the agreement once more, explaining that, "since China herself had broken the terms of her own Agreement, there could no longer be any legal basis for recognizing it."
In his essay Hidden Tibet: History of Independence and Occupation published by the Library of Tibetan Works and Archives at Dharamsala, S.L. Kuzmin writes that the Agreement had critical defects. The use of newly made personal seals instead of official governmental seals was not legal. The Tibetan delegates exceeded their authority by signing the Agreement without the approval from the Dalai Lama and the Kashag. The preamble to the Agreement contained ideological cliches that do not correspond to reality. The Chinese Government ordered PLA soldiers that entered Tibet to command the "local" government to send their people for negotiations with the center (i.e. central government); the contracting parties acknowledged this in the Preamble and Point 2, so the agreement was signed under a military threat. The Agreement was drawn up in such a way that a number of terms were ambiguous and allowed for different interpretations by the Chinese and the Tibetans. It also contains some internal contradictions.
1959年藏區騷亂後,達賴喇嘛流亡印度,便於1959年6月20日重新發了一份聲明,稱「十七條協議」是西藏政府和西藏人民在「武力下逼迫」簽訂的,後來合作的時候中國中央政府也沒有遵守協議,宣佈不承認「十七條協議」。後來西藏流亡政府指,当年由阿沛·阿旺晉美率领的5人谈判代表团,是在中共当局的逼迫下和北京签署17条和平协议。当时他们在无法通知西藏政府的情况下,代表團的代表是以个人名义在协议上签名,文件上的印章没有代表的正式官衔,雖然是西藏代表團但代表不能代表西藏。

ダライ・ラマが十七か条の協定を取り消したのは事実として、周恩来の対応やジクメの主張が本当にあったのかはちょっとよくわからない。その後の七万言上書も含めて、事実関係がねじ曲げられていることと、チベット人と中国政府との感情の絡れとが入り乱れて、ちょっとまだ実際どうだったかがわからない。

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