政治を政策論議の場とするために(思案中)

政治とは一体なんなのか、ということが常に頭に取り憑いてきてしまう。私は政策の話は好きなのだが、それが政治的になったと感じた瞬間にどうも冷めてしまう性質を持っているようだ。とは言っても、一体何が政治的なのか、というのはどうにも定義しがたく、嫌だと思ったらそれを政治的であると表現するよう自分をチューニングしてきたようにも感じる。だとすると、一般的に言って政治とはなんなのだろうか。

政治が社会的意志決定の場であるとすると、それは本来的には社会認識についての議論の場であるということになる。しかしながら、社会認識というのは議論をしなくても共有され得て、そうするとそれは誰が表現したのか、という問題になりうる。そうなってしまうと、表現をする正当性の争いのようなことになって、議論は単に正当性を得るためのものになってしまう。認識はそれぞれが自己消化し、そこから自分なりの解釈、そしてそこから導き出される問題意識、解決すべき目的、そしてそこに至る方法論が固まることで政策となるのだと言えそう。この、認識から政策までの間が、社会と個人との間にある空白部分であるといえ、そこが社会的意志決定を行う際に、正当性、そして主導権をめぐる争いになってしまう。その部分について私は政治的であると感じていると自己認識しているのだが、それをどう表現するのか、ということを考えるところですぐに政治性の罠にはまりこんでしまい、考えがまとまらなくなってしまう。つまり、社会認識の中に自己認識が飲み込まれてしまい、そこで正当性を主張し、主導権を握ろうとすることが政治的なのではないかと感じて嫌になってしまうのだと言えそう。

それを一体どうやって解決したら良いのか、ということで、一方では社会的意志決定という考え方を放棄するということ、そしてもう一方では政策について議論すること、というように形式的には答えが出ているのだが、それを社会的意志決定システムの中に実装するということが非常に難しい。つまり、社会的意志決定システムの中に行って、社会的意志決定システムはおかしいから変えろ、ということをいうのは非常に妙な話となり、それはどう考えても”政治的”にしか解決のしようがないように見える。それを回避しようとすると、政策のみという話になり、それなら別に政治が絡まなくてもビジネスでも十分解決可能なのではないか、という考え方になってしまい、かと言って、ビジネスでの交渉というのも、政治的文脈に大きく影響されるので、結局”政治性”の罠から逃れられないことになる。

この、社会的意志決定部分をいかにして対話的なものにできるのか、というのが、私にとっての”政治性”問題解決のために鍵となっていそう。そこで、この社会的意志決定部分をできるだけ細かく分割し、対話的な要素をいかにして抽出できるのか、ということを考える必要がありそう。

まずはじめに取り除く必要がありそうなのが、文脈の正当性をめぐる演劇的な要素であると言える。対話がその内容ではなくいかに正当な文脈を纏ってそれを受けの良いように表現するか、ということで評価がなされるようになれば、そこにはもはや対話的要素はなく、どのような政策であっても様式美に乗せてうまく演じることで評価がなされるという、芸能的なものとなってゆく。それが政治でなされれば、それはいとも簡単にポピュリズムへと転化してゆく。政治にある程度の表現力が求められるのは当然であろうが、それが文脈を纏ってその操り人形となり演ずるだけ、というのはもはや政治とは言い難い。そういう要素はやはり芸能的な部門に任せ、政治に影響することは避けるべきであろう。

ついで、個別の政策自体の論理的整合性などを調べ、まとめるという、いわば学者的な要素と政治との関わりということになると、政治は常に新しい理論を求め、それを自分の手元に置いておきたいと考えるものだと言えそうなので、それを理由に学問への政治的介入が行われることもありそうだし、逆に学問の方から積極的に政治に近づき、それを売り込む、ということもなされるであろう。政策論議が盛り上がること自体は良いことであると思われるが、権力闘争によって理屈が曲げられるというようなことは避けるべきではないだろうか。

ここをどのように具体的に調整するのか、というのは非常に難しい問題であり、というのは、政治にはある程度のスピード感が求められ、それに合わせて理屈を乗せるということになると、なんらかのアクセントをわざわざつけて、そうすることで流れに乗る、というプロセスが必要になるのかもしれない。それは、対話によらずして理屈を曲げる、ということにもなりかねず、つまりまず理屈を政治的潮流に合わせるということの難しさがあるのだと言える。理屈の部分については、学の中で十分に議論されるべきではあろうが、そうなると政治的な利益はどんどん薄くなる。それをいかにして解決するべきか。

理屈で言えば、政治を対話の場であると定義し、政治家はそれぞれさまざまな文脈を背負ってその対話の場に現れる。それに対して学の立場から理論が提示され、それについて政治家がそれぞれの文脈に基づく立場からその理論に対する見解を出し合い、対話を行って現実適用への道を探る、ということになるのだろう。そして、自分はこういう文脈の立場から、その理論についてはこういう解釈を行い、だから賛成、あるいは反対である、という理屈に基づいて議論が展開されれば、対話的に問題解決され、合意に至ることができるのでは、と考える。ただし、権力闘争が激しいと、そのような悠長な話ではなく、スピードや力で決めてしまおうという誘惑、そして学の側からも、自分の理論をなんとかして社会実装したいという政治的野心による、議論が熟す前での権力へのすり寄りということは簡単に起こってしまうだろう。

この、政治において対話と権力が接して転換するあたりが、私の”政治性”問題の中心課題となっていそうだが、まだそれをしっかりと解決するような状態には至っていない。これは、関係性において常にフラットでいられるか、という、精神的な問題であるとも言えそうで、その心の有り様がまだまだ未熟だということ。

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