思考と相互監視

果たして思考停止はするものなのか、させられるものなのか。

二つの思考タイプ

思考が内面との対話であるのならば、それを止めることはできなさそうだが、環境との相互作用であると考えると、自己と環境との境目をきっちりと定められ、環境に出た瞬間に環境との同化が始まることになり、それゆえに環境からの干渉が生じて思考を妨害されることとなる。

他者からの眼差しによる思考停止

環境の中でも特に思考妨害的なのは、他者からの眼差しであると言えそうだ。眼差しとは、思考プロセスの観察であるとも言えそうで、そうなると、思考自体に直接接触してくることとなり、それによって自己の思考なのかどうか、ということに疑いを生じさせ、思考停止への道を辿ることになる。これは果たして思考停止を自らしたのか、それとも具体的特定もしづらい他者によって思考停止させられているのか。

思考が心地よくできない社会が自由な社会であるとは到底思えず、すなわち、眼差し、特に行動を規定するような監視的眼差しは、その眼差しに行動を合わせるよう強い圧力がかかり、それは明らかに思考停止を強いられていることになる。現代社会はあまりに多くの監視的眼差しに溢れており、その意味で、社会自体が相互に思考停止を強いる、非常に息苦しい状態にあるのだと言える。

相互監視の展開仮説

この相互監視に溢れた社会というのは、果たして社会秩序のために必要不可欠なのであろうか。相互監視自体は、よそ者の侵入を防ぐため、と言った安全保障的な目的で伝統的に行われていたものかと思われるが、現代社会はよそ者に対するというよりも、個別の文脈、それはそれぞれ固有の価値観に基づいたものであると言えそうだが、それを社会の中でより自分に有利な状態にするために、干渉文脈への監視が行われているような状態であるのかもしれない。すなわち、自分の文脈の邪魔をする文脈を監視し、それを自分の邪魔にならないように誘導する、ということがなされているのかもしれない。こういう状態であれば、それは社会秩序のためというよりも、個別利益のためであると言え、個別利益のために相互監視社会ができあがる、という行きすぎた自由の追求によって起こるパラドキシカルな状態にあると言えそう。

相互監視と社会秩序

この状態にあることの評価が非常に難しいのは、果たしてこの相互監視状態がなくなった時に社会秩序が維持されうるのか、ということが何とも言い難い、ということにありそう。元々は大雑把とは言え社会共通の価値観基準のようなものがあり、それに基づいて相互監視が行われるということであったのだろうが、特に現代日本においてはそのような共通の価値観基準なるものが存在するのか、ということすら怪しくなっているように見受けられる。代わりに、一般意志によって何となく定まる(正確には何となくではなく、計算に基づいているのであろうが)さまざまな行動基準によってそれが決まり、個々人においては、社会契約的に、自分で決めた行動基準に従って評価されるということになっていそうだ。

政治的に定まる行動基準

この行動基準というのが、定まったものであるときもあれば、むしろ政治的にその時々の役割とそれに割り当てられた行動に従って行動し、それが評価されるということの方が多いのかもしれない。そうなると、政治情勢次第で行動基準が変化するということになり、果たしてその可変的行動基準というのは社会秩序維持のために有効なのか、という疑念が浮かぶ。むしろ政治的に変化する行動基準は、政局や政変につながる可能性が高く、秩序維持という点ではマイナスに作用する可能性が高いのではないかと考えられる。その時に、果たしてこの相互監視社会というのは、個々人の思考の自由度を大きく制限してまでも維持される必要があるのだろうか。

文脈社会での相互監視

文脈によって動く社会では、他者の文脈を追うということ自体が監視のように作用することにもなり、その意味で地域社会における安全保障的な身近な人の見守りと言ったことが、民主主義によって政治化した社会においては、それが政局、あるいは支配のために使われるということが起きやすくなっていると言えるのかもしれない。特に、政治が民意を聞く、と称して社会に深く入り込むと、政治的対立状況によってはそれが相互監視から相互不信へと繋がってゆき、むしろ社会に摩擦を生じさせるようになるのかもしれない。政治とは文脈の統合プロセスであるといえ、その意味で文脈によって動く社会に政治が入り込むと、そこには常に文脈主導権争いが生じる要素が出てくるのだ。そして最終的に政治的に支配的文脈が定まり、その文脈の圧力によって相互監視の価値観が定まることになりそう。

相互監視からの脱却

このように、地域社会の秩序維持のために行われていた相互監視が、政治的に自己文脈を有利にするように使われるようになり、さらにはその政治への影響力を持ってして、支配者のための監視ツールへと変わってきているという状況で、このような相互監視を続けるべき社会的な必然性はもはやないように感じられる。しかしながら、長年の習慣に、功利主義的な同期も加わり、ほぼ生活と一体化してしまっているようなこの相互監視の仕組みから脱却するのは簡単なことではなさそう。脱却のためには、他者への眼差しに脳を使うのではなく、自らの内面との対話による思考ということを心がける必要があるのかもしれない。他者がどうあろうと自分は自分、というあり方が追求されることで、息苦しい相互監視社会から抜け出すことができるようになるのではないだろうか。

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