代表制間接民主主義の限界

独裁対民主の構図が作られる中、民主主義は理想的として語られがちであるが、私の目から見れば、少なくとも代表制の間接民主主義には、様々な点で限界が見られるようになっていると感じる。それについて論じてみたい。

まず、民主主義というのは対話によって成り立つのが理想ではないかと感じるが、代表制の間接民主主義、特に顕著なのは小選挙区制度であるが、一つの選挙区から一人しか代表が選ばれないとなると、候補者同士の対話が行われることは稀で、勝つか負けるかの勝負一色の世界となり、そしてそれを選ぶ有権者側も勝ち馬に乗らなければその後の任期中冷や飯食いになる可能性があるということで、対話などよりも、誰が勝つかということに焦点が集まりがちとなる。そして、議員に当選したとしても、その後大臣を目指して激しい競争が繰り広げられ、対話よりも、誰が人事権者となり、どうやったら大臣になれるか、ということの方が、議員の大きな関心事となってゆく。つまり、代表制間接民主主義において、対話のプロセスというのは単なる形式に過ぎず、ほとんどの局面で勝つか負けるかの厳しい権力争いが繰り広げられていることになる。

ここで、果たして権力争いと対話のプロセスというのは両立しうるのであろうか。民主的な多数決原理の下での権力争いとは、相手をやり込め、自分の指揮下に置くことで、なるべく多くの手下を支配下に置き、それによって自らの影響力を増すということであり、そこに対話が入り込む要素はほとんどない。あるとしても、対話というよりも、相手を論破するディベート的なものとなり、それはなるべく広い合意を探る対話とは全く異なったコミュニケーションだと言える。そういった対話なき権力争いが繰り広げられるのが代表制民主主義であると言え、それは対話のための仕組みであるとは言い難い。

ついで、人事が議員の関心事となると書いたが、民主的とは言い難い、人事権者とそれに従う議員たち、という構図は、対話の場というよりも、組織に近いものであり、つまり、選挙で選ばれた議員たちが人事をめぐって競争する組織に属する、というのが、代表制間接民主主義の実態であると言える。代表者が人事権者の顔色をうかがって行動することが常態化していれば、それを代表として仰ぐ社会自体もそういう傾向を持たざるを得なくなり、社会全体が人事権を持つ権力者の作り出す空気を意識しながら行動するという、(私にとっては)好ましくない権力志向の行動様式が蔓延ることになる。

さらに、対話の結果が多数決という形で定まるということの是非がある。突き詰めてしまえば、代表者の間での議決による多数決ということになると、その議決の時までに代表者に自分の意見を届け、その賛否に条件をつけるなどの態度を決め、議決の瞬間にいかに勝ち馬に有利な条件で乗るのか、という非常にテクニカルな意志決定を社会全体に求めることになり、政治的権力が大きくなればなるほどそのような技術の持つ効果がどんどん大きくなる。その中で、有権者の関心の低い問題であっても、その中に派生で様々なテーマを織り込むことでなんとなく社会を動かしたり、逆に有権者の関心の高い問題を作り出してそれとは直接には関わりのないこともその議決の中に織り込んで勢いで通してしまう、といった政治的テクニックが、そのようなスポット的な多数決の議決の仕組みでは非常に有効になる。それは、有権者の個別具体的な意志をデジタル的に分割して有利不利でスポット的に態度を定めさせるということで、政治サイドの都合が有権者の個別の意志よりも優先され、そして勝ち馬に乗るための技術を磨くという、個別の自由意志にとってはどうでも良いことを常に強いることになる。そのような代表制間接民主主義による多数決の原理はあまりに社会抑圧的ではないだろうか。

対話のための民主的仕組みとしては、こちらにも書いた常設委員会のような仕組みを各省庁に設け、それぞれの議員は自由意志とくじ引きのような民主的な仕組みでそれぞれ担当の常設委員会に所属し、その委員会での討議を通じて政策決定がなされるという在り方の方が望ましいのでは、と感じる。そうなると、相対的に言えば対話を通じて意思決定をおこなっているであろう官僚組織にとっては屋上屋をかけるような印象を持つかもしれず、そして人事権を持つはずの総理大臣にとってもその権力の源泉を奪われるように感じるのかもしれない。ただ、官僚組織は民主的なチェック機能を持たず、それが総理の人事権による大臣の指揮下に置かれていると、行政への民主的なチェック機能はほとんど作用していないことになる。立法だけが民主化されている状態というのは、どうでも良いことでもどんどん法律を作る、という状態になりかねない。むしろ実務である行政を民主化する方が、民主主義という観点でははるかに重要であるといえる。だから、常設委員会を通じた行政の民主化というのは一考の価値があるのではないかと考える。

もっと言えば、民主主義というのは、社会の規模が大きくなればなるほど機能しにくくなる。代表者による議論が必要となった時点で、すでに民主主義が有効に機能しうる限界を超えているのではないか、ともいえる。最適な民主主義単位での、最適な民主的な制度導入というのが模索される必要があるのだろう。それは、代表制間接民主主義からは最も距離があるといえるのかもしれない。

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