嘘と責任転嫁、正義の押し付けと示談のビジネスモデルそしてその政治的効果

価値観をめぐるビジネスモデル

資本主義が進むと、すべてが定型化したビジネスモデルに当てはめられるようになる。そして一般化された話になればなるほど上の階層の利益率の高いビジネスモデルとなる。アメリカなどで弁護士の報酬が高い、というのは、そのような価値観をめぐるビジネスモデルの最高峰にあるからだと言えそう。
それはともかく、一般化された価値観で、金になりやすいゴシップ的なものといえば、やはり悪徳であり、悪徳によって金を稼ぐ、というわかりやすい構図を立ててビジネスモデル化すれば、それが最も付加価値が高くなるのだといえそう。
さらにいえば、その悪徳を悪徳ではない、と開き直ってしまえば、それほど利益率が上がることはないわけであり、上記の弁護士報酬では、悪徳弁護士ほど儲けが良い、という、これもまたわかりやすい構図として提示されれば、そのメタシナリオはさらに利益率が高くなるのだといえそう。

略奪的経済への裏技

こういった資本主義的な利益確保の裏技が、公的に裏付けされれば、その手法で儲ける人々にとってそれほど都合の良いものはない。それは、実際のところ経済を決定的に痛めつけることになる。資本主義の基本はリスクをとってリターンを狙う、ということなのだが、リスクを取るとは一体何を意味するか。未実現のビジネスチャンスを生かしてそれを実現することで利益を獲得する、というのが健全な資本主義に基づく経済であると言えるが、それが関係性によってなされることになると、未実現のビジネスチャンスの話というのが嘘なのかどうか、ということが問題となる。実現の見込みがあれば本当だと言えるし、そうでなければ嘘となる。嘘となったら、そこまでの費用の責任が発生することになり、それを嘘だと断罪し、その責任を追求することで費用負担を求める、というビジネスモデルが、健全なビジネスモデルよりも利益率が高い、という上記の法則によって、未実現のものを早く実現しろ、と煽り立てることで、そのいうことを聞かないと嘘だと断罪して、金の取れそうなところから利益を引き出すという、経済を略奪的なものにする非常に大きな要因となるのだ。

断罪の押し付け、そして示談

一方で、嘘の断罪というのは、ある意味において正義の押し付けであり、その押し付けに成功すれば責任者から金をとり、一方で支払う方としては示談としてそれを処理することで嘘の責任から逃れることができることになる。そのどちらを選ぶのか、と迫ることで、どちらにしても弱みを握ることができるというのが嘘の断罪であり、だから正義を強く掲げるということが競争社会の中で強いスキルの要素として浮上する。そして強くそれを押し出せば押し出すほど、それに頼った方が有利になるということで、それを支持する人が増えてますますその力が強くなる。それは、多数決で社会の価値観を決める民主主義すらも危機に追いやる。

嘘が公的に支持される社会の帰結

それほどまでに公的に嘘を支持するということは、経済のみならず社会を破滅的に痛めつける。そこで、痛めつけられた側には、やられたらやり返せ、と囁く人もいる。何をどこまでやられたのか、というのは極めて主観的な問題であり、それを始めたら怨みはどんどんエスカレートして、歯止めが効かなくなる。そして、何がどこまでやられたのか、という判断をコントロールしようとするところに力が集まることになる。公的に嘘を正当化し、またその嘘を支持する、ということは、その嘘に従って判断基準を勝手に設定することで、権力を思うがままにできるということになる。

虚偽による認識の根の深さ

さらに、虚偽の認識は一旦広めるとなかなか修正が効かない。だから、敵対する相手の弱みを狙ったような嘘を流布することで、その弱みを痛めつけ、さらにそれを別の強くて明快な論理の中に組み込むことで、たとえその嘘を撤回したとしても痛みは残り続ける、ということがある。その痛みの元さえ特定しておけば、新しい論理を次から次へと被せることで弱みを握り続け、その論理に従わせ続けられることになる。究極的には、記録の改竄、さらに進んで歴史の改竄によって自分に都合の良い論理を作り上げ、それで痛みを締め上げることで、その改竄された記録や歴史が事実であると思い込ませ、それに基づいてこのような嘘を用いた支配従属体制が完成し、次第に強化されてゆく。
そのあり方の一例として、時代物を使った記憶改変がある。認識は論理の積み上げによるものが記憶として残りやすいので、嘘の論理が積み上げられると記憶がどんどん歪んでゆくことになる。テレビ等で時代劇が繰り返し放送されると、それが事実であるかのように記憶のあちこちに埋め込まれていって、人気のあるものや定番ものは社会の常識であるかのごとく記憶の中に大きく居座ることになる。記憶のみならず、社会の常識として人々の認識に埋め込まれたものは、他者へ向けられる認識の前提として社会の中に大きく横たわることになる。そうなると、その嘘によって捻じ曲げられた記憶を持つところには、違和感、ひどくすると痛みが押し寄せることになる。

スキルとしての嘘とそれによる抑圧

嘘のもたらす精神的な抑圧は、とりわけ対話の中で嘘を戦略的に用いて相手の錯覚を誘うことによって効果を増幅させる。それは、政治やマスコミの中で用いられるレトリックとして、権力争奪の大きな手段となっており、増幅効果はどれだけの人がその話を信じているかによって変わってくるので、支持の争奪手法として、嘘か真かのギリギリのラインを攻めること、そして効果的な認識誘導といったものがとられ、それは錯覚から認識の歪みに至り、そして初めに書いたような富や権力の源泉となる。
そのような歪んだ手法が、プロである政治やマスコミの内部だけでなく、社会全体に行き渡るどころか、政治が率先してその手法を正当化し、その罪を責任転嫁するということの意味はより深く考えられるべきだろう。

いわゆる従軍慰安婦問題の政治的使い勝手

具体的に、河野談話で正当化されたいわゆる従軍慰安婦についての官憲の強制性についてみてみると、これは政治的に非常に使い勝手の良いものだということがわかる。どういうことかというと、まず代表制間接民主主義において、誰もが議会で意見を言えるわけではないので、便宜的に代表者、つまり議員や大臣になりきって行動や発言をすることでその意見を通そうとする行動が、社会の中で、例えば課長代理のような肩書きのように課長に成り代わっての行動ということの延長として行われることはありうることなのだと言える。これは嘘と言えば嘘であるが、社会的な合意の中である程度広く行われていることだと考えられる。そんなことで、慰安婦の募集の中でそのように官憲を騙って行われた事例もあったのかもしれないし、社会的感覚としてそんなことがあったと言われればなかったとは否定しきれないというものもあるのかもしれない。しかし、事実としては、それが少なくとも本物の官憲によって行われたという証拠はないわけであり、それを一方的にあったと決めつけることで、その曖昧な一般認識を大きくあったという方向に揺り動かすことになる。

河野談話の政治的効果

それにはいくつもの政治的効果があり、まずは、社会的感覚としてのなりきりをいわば公式な形である意味で断罪、しかしながらそれは冤罪であるという意味で逆説的に免罪したということで、それをあえて撤回させようという意志を削ぐということがある。つまり、政治家なりきりによる権力公使によってこれを撤回させようとすれば、そのまま官憲の強制性ということになるわけで、それを行使された側にとっては自分が悲劇の従軍慰安婦であるという定義づけをして自らを守ることができるということがある。ついで、官憲に責任を転嫁したことにより、そのような強制性を誰かから行使されたときに、官憲の責任であるとして、反体制へのモメンタムとするという、マスコミにとって非常に都合の良い道具となることで、まんまとマスコミを丸め込んだ、ということがある。そして、その延長線上に、官憲の責任であるからとしてその政治的解決として国に補償を求めるという国家へのたかり構造を公式な形で支持したということがある。実際、慰安婦問題については「和解・癒し財団」なるものへの支出が行われ、その行き先は一部定まっていないがゆえに、政治的に無尽蔵とも言える若い・癒しのための支出だ、との触れ込みで先に取り分を確保し、そしてその分をのちに正式予算から別名目で力によってぶんどってくることで、政治力を確保する道具になっていると言える。これはマスコミにとっても非常に強い政治的な道具となり、弱者の声のようなものを和解・癒しと称して予算を分取るツールにして政治家に接触し、自らに都合の良い方に誘導するという強力な政治的影響力の源泉になっていると言える。そして、この嘘を嘘と言い切れないような状況においていることで、善悪、あるいは普遍的正義の基準のようなものを自ら握ることで、そのラインをコントロールしてそれによって政治状況をほぼ自由自在に支配できる状況を作り出していると言える。

このようなあまりに危険極まりない公的発言が、その責任者すら曖昧にされた状態でずっと残り続けるということのリスクについて、とりわけ政治というものががあまりに鈍感なのではないかと感じる。

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