見出し画像

オリンピック−ロシアドーピング問題の根源はどこに?

コロナ禍の中、2020(2021)年(ここでは西暦で統一することにする)東京オリンピック・パラリンピックは、一応何事もないかのように終わった。その東京オリンピックで、一つ特徴的だったのが、ロシアの選手団だ。2014年のソチオリンピック以来、繰り返し指摘されたドーピング問題によって、国としての選手団派遣ではなく、ロシアオリンピック委員会の編成した選手団で、国旗・国家を用いない個人としての参加となったのだ。それ自体非常に政治的であり、さまざまなことに絡んでくるのだが、こんがらがらない程度にその絡みを追ってみたい。

ドーピングの意味するところ

まず、ドーピングといっても、ここではいわゆる薬物でのドーピングというよりも、より社会的な、政治的ドーピングのようなものに焦点を当てて話をしたい。2014年ソチオリンピックは、2013年に2020年のオリンピックが東京になると決まって最初のオリンピック開催であった。つまり、東京オリンピックではドーピングが起こりそうなので、それに釘を刺すかのように浮き上がった問題であるともみることができる。ではなぜ東京オリンピックではドーピングが起こりそうだと看做されたのか。それはやはり1964年の最初の東京オリンピックまで遡ることになる。正確には、もう一つ前の1940年の幻に終わった東京オリンピックにも関わってくるのだろうが、そこまで広げると少し大変になるので、1964年からみることにする。

1964年オリンピック

こちらで書いたように、1964年では、アシックスに関わる疑惑があった。つまり、オリンピックの経済的ドーピングとも言える商業化の嚆矢はこの東京オリンピックだったと言える。その他にも、東京での都議会黒い霧疑惑など、オリンピックに関わる開発で、政治が金まみれになったのもこの時期であり、オリンピックの政治化についてもやはりこの東京オリンピックが大きな契機になっていると言えるのかもしれない。では、その源泉はどこにあったのだろうか。

戦争に関わる政治力

当時、オリンピック担当大臣を務めていたのは河野一郎であった。そして、河野一郎はこちらで書いたように、外務大臣でもないのにソ連との交渉に出向き、千島列島全体、あるいは樺太まで含めての戦後処理に関わる非常に大きな問題だったものを、北方四島という非常に矮小化した形で無理やりフルシチョフに飲ませ、人為的に北方領土問題を作り出した張本人であった。そして、河野は、それによって、千島・樺太に限らず、朝鮮、満州、あるいは台湾といった、サンフランシスコ講和条約では中ソが不参加、あるいは調印しなかったために未解決のままとなった問題について大きな政治力を保持することとなった。その処理の一環として1957年には朝鮮銀行の日本での残余資産を元に日本不動産銀行が設立された。その中には、法的に所有権がグレーな、朝鮮、満州における巨額の資産についての返還請求権(実務的に経済的な返還が可能かどうかはともかくとして、戦時中の大陸の記憶に伴う大きな政治力につながるもの)が含まれることになる。そして、それは、東京をはじめとした戦後開発において、戦時中の話が文脈として流れるたびに、政治力として予算確保につながる、という、まさに政治とカネによる打ち出の小槌のようなものになったのだと言える。そんな政治力がフル稼働となることによって、1964年の東京オリンピックは戦後復興、高度成長の輝かしい記憶として日本国民の心に植え付けられていった。

戦争の正当性

一方で、その日本における戦時記憶の形成は、スターリンやフルシチョフの持っていた戦時認識とは大きく異なるものであり、それはソ連における権力構造にも影響を及ぼしたのではないか、と想像される。というのも、まさにその東京オリンピックの開催中に、河野と北方領土について話をし、そしてそれを正式条文の中には書き込みたがらなかったフルシチョフが失脚することになったのだ。スターリンの拘っていた戦争による領土不変の原則に従えば、千島列島をソ連領とすることは、ソ連が第二次世界大戦の侵略国であったということを認め、その戦争における正当性を大きく弱めることになる。これは、第二次世界大戦の言うものの構図を定めるのに非常に大きな影響を及ぼすものであった。そして、この河野の必要ともしていないものを押しつけ、政治的に大きな貸しを作る、と言う手法は、その息子洋平の言う政治工学なるものの中に色濃く反映され、それがのちに国内政治において非常に大きな影響を持つようになってゆくが、それはまた別の話。

1980年モスクワオリンピック

さて、そのソ連における最初のオリンピックは、1980年のモスクワオリンピックであった。このオリンピックは、結果的には、日米をはじめとした67カ国が前年末に起こったソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議をしてボイコットする、と言うことになっており、それだけでも今のアフガン情勢に直結する非常に大きな意味を持っている。一方で、多くの西欧諸国はこれに参加したが、そこでは国旗掲揚をしないといった、まさにドーピング問題でのロシアの個人参加の先駆けとなるような動きがあった。

アフガニスタン侵攻

そのアフガン侵攻、普通に考えれば、まさに翌年にオリンピック開催を控えた状態で、突然の侵攻というのはあまりにリスクが高く、普通の国家指導者ならば取るべき選択肢ではないだろう。ということは、これはおそらくソ連国内の政治バランスの結果として生じたものだと考えることができそうだ。ソ連国内のことを調べるにはあまりに能力が不足しているので、日本側から追えるところだけでも追ってみたい。というのは、1964年東京オリンピックがフルシチョフ失脚というソ連の政変につながったことを考えれば、1980年モスクワオリンピックに関わる政変にも日本政局が関わっていた可能性は否定できないからだ。

日ソ共産党関係正常化

まず、目立ったところから言えば、ソ連がアフガンに侵攻した1979年12月24日その日に、日本共産党がソ連の共産党と関係を回復している。日本共産党は全千島返還を求めていることからもわかるように、スターリン、フルシチョフ、そしておそらくブレジネフへと続く路線と近いものであり、だからブレジネフ政権下での関係改善ということになったのではないかと考えられる。それは、ソ連、というか、スターリンの、少なくとも第二次世界大戦に関わる正当性の回復につながる動きであり、それでは困る、という勢力が、ソ連側のおそらくキリレンコ、アンドロポフ路線として集まっており、一方日本側では河野洋平、あるいは田中角栄、そして日本不動産銀行から代わった日本債券銀行と深いつながりを持っていたとされる福田赳夫はもちろんのことであるが、左側ではスターリン主義とは別の路線をとっていた日本社会党もこの系譜に連なることになる。その社会党は、年が明けると公明党と連立に向けて合意をし、政権獲得に向けて動き出していた。その変動は、79年に行われた総選挙の結果を受けてのことであり、その総選挙では、自民党が1議席を減らし、社会党は変わらず、公明党と共産党が議席を伸ばし、河野洋平の新自由クラブは大きく議席を減らしていた。選挙絡みの話を追ってゆくとどんどん脇道に逸れるので、それはおくとして、とにかく公明と共産が伸びた一方で、自民党側では大平と福田との間の四十日戦争が始まった。与野党ともに分裂含みとなったのだ。

カーターの反応

そして国際情勢も動き出した。アメリカのカーター大統領は、ソ連のアフガン侵攻直後、明けた1980年1月に強力な対抗措置を打ち出し、20日にはアメリカオリンピック委員会にモスクワオリンピックのボイコットの意思を伝えた。そこまでやる必要があったのか、というのは非常にわかりにくいが、日ソ共産党の接近によって第二次世界大戦の認識が変化すると、それは戦勝国の代表であるアメリカの立場にも大きく影響することであり、強く対応する必要が出てきたのであろう。それに加えて、アメリカはソ連よりも豊かな国であるということを強調していたが、実際にはその頃はオイルショックの影響で産油国であるソ連はかなり豊かになっており、その様子がオリンピックを通じて世界に流れると、それもまた不都合だ、ということもあったのだろう。さらに言えば、モスクワはロサンゼルスに勝って開催を決めており、そして次の開催はロサンゼルスで決まっていたわけで、それが比較されるということを恐れた、ということもありそう。そんなことが次の選挙でカーターがハリウッドスターであるレーガンに敗れたことにも影響しているのかもしれない。この辺りも話が広がる余地は大きいが、とりあえずはここまでとしておく。

テレビ中継

オリンピックの中継というのは、オリンピックの商業化をもたらした非常に大きな要因であると同時に、中継によって現地の様子を世界に知らしめるという情報政策の面でも非常に大きなものであった。モスクワオリンピックの日本における中継権は1977年にテレビ朝日が独占で獲得していた。本来ならば、NHKを中心とした共同の取材体系になる方がコストも抑えられるし、偏らない放送が期待できるのであろうが、一つにはソ連側が放映権の引き上げのために競わせようとしたともされるし、また朝日新聞からテレビ朝日の専務に収まっていた三浦甲子二が突出したともされる。三浦はのちにKGBとの関係が言われることからも、ソ連側で競争を煽っていたのは、長年KGBを牛耳っていたアンドロポフであるとみて良いのだろう。アンドロポフは、ブレジネフ政権下で繁栄しているソ連の様子が国外に流れることを妨げようとしていたかもしれず、その観点から都合の良いメディアとしてテレビ朝日を選んでいた可能性がある。つまり、三浦、そしてテレビ朝日は、そもそもボイコットがあろうがなかろうが、独占でKGBに都合の良い情報を流すという方針であったと考えられ、その意味でボイコットになればかえって都合が良い、とすら考えていた可能性すらある。そんな諸条件から、アフガン侵攻を行ったのも、テレビ朝日につながるラインから両共産党の接近をつかんでいたアンドロポフがブレジネフ潰しのために仕掛けた可能性がある。

日ソ関係を反映したオリンピック

オリンピック、特に日本との関係性で、ソ連・ロシアのそれに対する立場というのは非常に複雑で微妙であったことが見えてこよう。そんなことが、今回のオリンピックにおけるソ連の選手団の形態に影響しているのだろう。つまり、日本の政争に巻き込まれてプーチン体制が揺らぐのではかなわん、というようなこともあり、ドーピングという汚名をあえて引き受けてでも国としては参加しなかったと言えるのかもしれない。政治的ドーピングの元はどこだったのか、というのが、オリンピックが無事終わった今、解明されるべきことなのだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。