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日ソ共同宣言の真相?

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ソ連との外交関係回復

今年の10月19日で、日ソ共同宣言から65年となる。サンフランシスコ講和条約で積み残しとなっていたソ連との外交関係の回復という重要な話ではあるが、いまだに、この話が一体なんだったのか、というのがいまひとつよくわからない。千島、樺太を全部自分のものにするのだったら、サンフランシスコ講和条約に参加してその場で山分けした方が遥かに有利だったのにも関わらず、なぜ戦後11年も引き伸ばしたのか。そこからは、今捉えられているような、冷たいイメージの共産主義ソ連とは全く違った風景が現れてくる。

謎のフルシチョフの言動

まず、サンフランシスコ講和条約でソ連が調印しなかったのは、中華人民共和国が参加していなかったためだとされる。この中国との関係性についてはまたどこか別に書くとするが、一方で、この辺りの事情もあまり明らかではないと思うのだが、フルシチョフは直接交渉で河野一郎と歯舞・色丹の返還に合意したが、後にサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことを後悔したとされる。日本側から見れば完全勝利とも思える内容に対してそのコメントが出るのは非常に不思議なことであり、なぜそのような発言が出てくるのか吟味する必要があるのだろう。

ヤルタ協定

では、まず、なぜサンフランシスコ講和条約で、樺太、千島の放棄ということがうたわれたのか。それは、ポツダム宣言に基づくものとされるが、ポツダム宣言自体には、その具体名は挙がっていない。具体名が上がっているのはヤルタ協定であり、これは1945年2月にスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三者が現在ウクライナに属するクリミア半島のヤルタで会談し、戦後処理について話し合った結果として署名されたものだ。日本に関しては、外蒙古の現状維持、樺太の返還、大連の国際港化、旅順の租借権、南満州鉄道の優先的利益、千島のロシア属領化を含め、日露戦争の結果をひっくり返す要求で、太平洋戦争の戦況がもはやアメリカ優位に傾いていた中で、特に満鉄や大連のソ連の軍港化などの条件を出す方も出す方だが、飲む方も飲む方で、不自然としかいえないものである。そんな条件がソ連相手に飲めるのだったら、最初から日本相手に戦争する必要すらなかったのではないか、とも思える内容であり、一体何のための戦争だったのか、何のために日本を徹底的に追い詰める必要があったのか、そしてそのソ連からの条件を飲んだ上で、ソ連参戦を防ぐために原爆投下した、という理屈は果たして成り立ちうるものなのか。様々な点において全く納得のいく協定ではない。

スターリンの真意は何処に?

私が想像するに、これは、対日参戦を強く迫るルーズベルトに対して、スターリンがそれを拒絶するためにわざわざ高い条件を出し、それを断ったことを示す文書なのではないだろうか。つまり、スターリンは、この文書に署名することで、アメリカが満州権益を主張することを防いだのではないか、ということだ。スターリンは、基本的に一国社会主義者であり、満州が、清の復興、満州国として独立存続、中華民国または当時まだ存在しなかったが中華人民共和国への編入といった様々な可能性に対してオープンな状態を確保することを意図していたことは十分に考えられる。だから、この協定は即時公開どころか、戦争が終わって半年ほどもたった1946年の2月11日になってようやく公表されたのではないか。それを考えれば、ソ連の参戦が終戦間際、原爆が投下され、最早決着がついた後で、まず満州、樺太に攻め込んで終戦前に参戦することでヤルタ協定の有効性を確保し、その後に日本が降伏してからモトロフが強く主張していた千島列島への侵攻、そしてポツダム宣言受諾による戦闘終了という順序も理解できる。戦争を起こすというのはそんなに簡単なことではなく、大義名分のたたない火事場泥棒のようなことをすれば、終戦後の国際的な立場を明らかに悪くする。そんなリスクを冒してまで、たかだか、といったら失礼だが、取られたという意識が残るかもしれない樺太はともかく、鉄道が走っているわけでもないカムチャツカ経由で千島くんだりまで兵を送るというのはなかなかに大変なことだと思うのだ。そもそもそれはいらない、ということで樺太と千島の交換がなされたわけであり、それまでひっくり返して、というのは全く筋が通らない。ヤルタ協定でも千島に関しては別項となっており、その優先順位は高くなかったことを示している。樺太と千島に関してはモトロフがヤルタ協定に先立ってルーズベルトからソ連領容認の確約を得ていた。そのあたりを含めて、それぞれの地域についてのスターリンの真意は十分に確認されるべきなのだと思う。

ソ連国内の様々な立場

サンフランシスコ講和条約で全権を務め、その時からずっと外交の最前線に立っていたグロムイコは、反スターリン派が目立つソ連外交スタッフの中では例外的に親スターリン的な存在だった。そのグロムイコはミスター・ニエットと呼ばれ、サンフランシスコ講和会議に参加はしたものの、出てくる議題にことごとくノーを突きつけたとされる。それは、ヤルタ協定でスターリンが考えていたのと全く違う流れで、日本はヤルタ協定通りに全て放棄する一方で、満州において話の中心になるべき中国からの出席がない状態で、いったい何の話をしているのか、という様子を表しており、非常に真っ当な精神の持ち主であったと言える。むしろ、いくら無条件降伏とはいえ、なぜ日本がこんな条約を結ぶのか理解できないということでもあろう。ロシアの流れを汲むソ連としては、事実上ロシア帝国を崩壊に導いた日露戦争の相手である日本がこんな条件で降伏されたのでは立つ瀬がない、ということもあっただろう。日露ともに、いったい何のためにあんなに血みどろになって戦ったのか。日清戦争以来半世紀にわたるアジアの近代戦争の時代はいったい何だったのか。帝政ロシアに大打撃を与え、共産主義の時代の幕開けを告げたのは、日露戦争における日本の勝利だったのではないのか。そこがずれてしまったら、共産主義の歴史の始まり自体がよくわからなくなってしまう。それは、歴史解釈において、重要な意味を成すことになる。それは、レーニンをどう解釈すべきか、という問題に関わるからだ。だから、ソ連の中でもレーニンを重視するモトロフを含めたコミンテルン派は、どちらかといえば日本に対して強硬的で、それが全体的なソ連の戦後イメージを形作る中で、スターリンはそのような強硬路線を主導した人物ということで、非常に悪印象をつけられているのではないかと感じる。ソ連共産党の権力闘争的なものは、そのスターリンの立場というものを全く見誤っているために、非常にどろどろしたもののようなイメージがついているが、行動をしっかりみてゆけば、その路線闘争の様子は明らかなのであろうと感じる。

等身大のスターリン

さて、日ソ共同宣言は、そのスターリンが亡くなった後に、急にギアを上げて進み出すのだが、それはいったいどういうことか。スターリンは1953年に亡くなり、その後マレンコフ、ヴォロシーロフ、そしてフルシチョフのトロイカ体制が始まったとされるが、実際には、マレンコフが主導しようとするのを、フルシチョフらが集団指導体制になるよう押し留めていたと言えるのではないかと感じる。そんな微妙なバランスが続く中、マレンコフは失脚し、ブルガーニンが首相となる。そして56年になるとフルシチョフによるスターリン批判が起こった。これは、フルシチョフによるものとなっているが、実際には秘密会での報告をフルシチョフが行っただけであり、フルシチョフが意図的にスターリンを狙い撃ちにして批判を起こしたものではない。むしろ、戦後の大粛清の報告が上がってきて、その責任者をスターリンであったとすることで公表することができるように調整したのがフルシチョフであると考えるべきであり、実際のところスターリンがそこまで独裁権を持った人物であったかというのは大いに疑問が残る。実際スターリンは書記長の職を繰り返し廃止するよう主張し、最終的にはその役職をなくし、フルシチョフ以降には第一書記となっている。そして独裁権を持っていたのならば、それこそヤルタで自ら署名した協定に基づき、講和条約でも主導権を発揮したはずであるし、そして後継についても自らの息のかかった人物を独裁者として後に据え、スターリン批判のようなことが起きないように万全を期したであろう。朝鮮戦争のような動乱が起きれば、もっと積極的に介入して世界大戦を再発させることもできたであろうし、満州に関してももっと強く権利を主張し、混乱を長引かせてもおかしくはなかった。仮に独裁権があったとしても、少なくとも対外関係で見る限りにおいてはかなり抑制を効かせた、自制心に富んだ人物であったと見るべきであり、それが国内において大粛清をした、という報告が上がったというのをどう解釈すべきなのか、という問題は大きく横たわるのだろう。大粛清自体は、個人的には、KGBの前身である国家保安機能を司っていた、エジョフ、ベリヤ、ブルガーニン、そして国家保安機能自体には関わらないがスターリン批判にフルシチョフとともに積極的に関わったミコヤンらが主導したのではないかと感じているが、詳しくは今は手に余るので触れない。

日ソ共同宣言

いずれにしても、そのスターリン批判が出た56年に、それに呼応するかのように、当時の第三次鳩山一郎内閣はまずは農林大臣の河野一郎を訪ソさせ、そこで漁業交渉を行なった。ここで、漁業大臣イシコフの頭越しにブルガーニンと話をし、スターリン、フルシチョフの主流派の考えとは違うところで千島の話も行われたことだろう。その後、外務大臣の重光葵が四島返還のベースで交渉を行い、交渉は決裂したという。この際にアメリカ国務長官ダレスからの恫喝があったともされる。実際には、公式ルートでは全島が日本領であるという話になっていたので、噛み合わなかったのではないかと思われる。それに続いて鳩山、河野、そして松本俊一がモスクワへゆき、日ソ共同宣言に署名することとなった。

列席者、署名者の謎

これは様々な点で異例な共同宣言であった。まず、日ソ両方で、外交の責任者であるはずの外務大臣が出席、署名をしていない、ということがある。外務大臣よりも格上となる総理、そして閣僚会議議長が出席していれば問題ないだろう、という見方もできるが、やはり引っかかる。サンフランシスコ講和条約も同じように総理である吉田茂が単独で署名しているが、その際に同行していた池田勇人蔵相に、条約の評判が悪いので名に傷つけることのないよう単独で署名すると伝えたとされる。それは一つの見識であるといえよう。一方で、鳩山の場合は、農林大臣の河野一郎と、全権ではあるが単なる衆議院議員の松本俊一とともに署名しており、ヒラの議員に責任転嫁をしつつ外務大臣を外すという、何とも説明のつきづらいことをしている。これは上にも述べたとおり、重光外相との方針の違いというのは大きいのだろう。しかし、外交を司る外務省の支持のない共同宣言というのはあまりに異様である。一方のロシアの方も不思議なことになっており、正確には外務大臣のシェピーロフは署名はしている。しかしながら、なぜか交渉出席者の中には名を連ねておらず、共同宣言の中にはシェピーロフが外務大臣であると示す言葉は一切出てこない。つまり、ソヴィエト社会主義共和国連邦最高会議幹部会の委任による個人として署名したのであって、それがどういう立場であるのかは明示されていないのだ。そしてそのソヴィエト社会主義共和国連邦最高会議幹部会員として唯一名が記されているのがフルシチョフであり、要するにフルシチョフの委任で署名したのだとしているのだ。これは非常にアクロバティックなやり方であり、日本で見られる多くの情報では、この日ソ共同宣言がフルシチョフとの間で合意されたのだ、となっているのだが、実際はそうではないのだ。そして、NHKの報道によれば、調印式に出席したのは、ソ連側からは、共同宣言に名を連ねているのはブルガーニンだけで、後のシェピーロフとマレンコフは共同宣言に名前がないのになぜか調印式には出席しているという、どうもブルガーニンの私的な調印式の色合いが濃い、あるいは正式に言えば交渉の方が外交的には格の落ちる者を並べている、ということになるのかもしれないが、とにかく非常に問題の多い調印式となっているのだ。

騙されたフルシチョフ

さらに共同宣言に名を連ねているフルシチョフは、実際には会議後に河野と会談しただけのようで、おそらく鳩山とは会ってもいない。そこで歯舞、色丹の名を出して領土問題の交渉継続を合意しようとしたが、フルシチョフは領土問題を含む、という文言を削除させたという。ソ連側とすれば、千島列島がソ連領か否か、ということが問題であり、歯舞、色丹については、あえて言えばどうでも良い、ということはあるのだと考えられる。だから、国後、択捉を別にする、ということになると、ソ連としては非常に説明が難しくなるわけで、全島一括でソ連領なのか、日本領なのか、という選択肢しかなく、歯舞・色丹を書けば、それで領土交渉は終わり、というのはそういうことだったのだろう。フルシチョフ自身は全島返還派であっただろうから、歯舞、色丹を書いてしまえば、国内に対して条件闘争ができなくなるから書きたくなかったのだろう。これには前段があり、スターリン批判の後、3月21日にソ連の閣僚会議からいわゆるブルガーニンラインというものが提示され、オホーツク、ベーリング海の千島列島周辺での漁業に制限が加えられ、創業にソ連の許可が必要となり、拿捕の危険も出てきた。それに対して5月に河野一郎が漁業交渉に出向いて、ブルガーニンとの間で合意をしたという流れになるのだ。ここで、フルシチョフは党の第一書記であり、閣僚ではない。つまり、フルシチョフの預かり知らぬところでこのブルガーニンラインは決められたことになるのだ。その後フルシチョフはブルガーニンとともに英国に行ったりしているので、外交権があるようにも見えるが、基本的に言えば党の役職にしかついていないということで、例えば自民党の幹事長に外交権があるのか、という質問と法制上で言えば同じことになるのだろう。その上での歯舞・色丹についての河野一郎との話になるわけであり、外交権のない党の第一書記と外交担当ではない農林大臣がいったい何の話をしたのか、ということを考えれば、フルシチョフは漁業交渉の件で歯舞・色丹での漁業権の話をしていたら、いつの間にか領土の話に切り替えられてしまったという可能性もある。

欠陥だらけの共同宣言

いずれにしても、この共同宣言は法律的に非常に大きな瑕疵があるのだと言える。それを知ってか知らずか、領土問題の継続を公開した河野一郎という人物は、少なくとも外交を行うには値しない人物であろう。それは、ソ連国内においても、モトロフ派とスターリン派の解釈の違いがあるわけで、そこに国後・択捉だけ別にすると言っても纏まるものではないからだ。これに関しては、鳩山政権が意図的に日ソ間に火種を撒くような交渉をしたと言っても過言ではないと言える。実際、ソ連側でこの共同宣言を主導したと見られるブルゴーニンは、翌年には反党グループに属したとされて失脚しており、一方の鳩山も、この共同宣言を花道として総辞職している。そのような共同宣言が果たして有効なものなのか、というのは大いに疑問が残るのだ。


フルシチョフの本音

さて、一番最初に戻って、フルシチョフのこの共同宣言、あるいは北方領土についての見解をWikipediaから引くと、

「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。フルシチョフは「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリン個人のプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘している。

とされる。これは、フルシチョフの回顧録に出ている話のようで、そしてそれはKGBの目から逃れるためにかなり無理をしてアメリカのタイム誌から出したもので、その意味でソ連色は薄く、むしろアメリカサイドに有利なように書かれていると考えるべきものである。その視点で見てみると、一つ目の内容は、まさに講和条約に調印しなかったことの反省を述べている物であると言えるが、二つ目については、文字通りの譲歩ではなく、逆に、最初から講和条約の内容で千島列島を日本が放棄したのだ、という前提に立って関係改善に努めるべきであったと言っているのだと考えるべきではないか。譲歩に関しては、国後・択捉で分けること、ということになろうが、確かにその後の展開を見れば、ブルガーニンの失脚により、そこで分けて平和条約という線もあり得たかもしれないが、それを公式文書で書いて同じ展開になったかはまた別問題であり、まさに結果論であると言える。そして、それを千島列島はソ連のものではない、と考えていたのがスターリンのプライドであり、歯舞、色丹まで含む、と考えていたのがモトロフの頑迷さであったと考えればスッキリする。全体としてアメリカサイドの視点で読めば、ソ連がサンフランシスコ講和条約で全千島を手に入れていればよかった、と読めるようになっているが、流れを総合的に見てみれば、そのような結論にはならないことは明らかだろう。

さらに残る謎

なお、これだけ読んでも、なぜ鳩山や河野がそのようなあからさまな外交的に不利な交渉をしてきたのか、というのは全く理解できないと思うが、そこにはかなり深い闇が横たわっている。それも少しずつ明らかにできて行ければ、と考えている。

参考
United Nations Treaty Series
北方領土問題の経緯
NHK放送史 日ソ国交回復 共同宣言調印
NHK政治マガジン 河野家三代 領土への挑戦

*なお、本稿は、特にソ連関係の部分について文献資料にはほとんど当たっておらず、Wikipediaのような一般情報にほぼ依拠しております。今語られている歴史があまりに自分にとって歪んで見えるときには、一般情報からどこが歪んでいるのかを特定するのが一番やりやすいと考えているからです。今後必要に駆られたりしたら文献にあたることもあるかもしれませんが、今のところはこれくらいのゆるい根拠で公開してしまいます。気になるところがあればぜひお知らせください。

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