文脈で動く世界

世界は一体どのように動いているのだろうか。

個別認識と現象

現象は個別認識によって観察されて初めてその存在が認められることになる。個別認識というのは読んで字の如く個別に行われる認識であり、それは十者十様、それぞれによって異なったものであっても全く不思議ではない。そうすると、同じ現象を見たとしても、その観察の結果としての現象が異なったものとして見えるということも十分にありうることであるといえる。すなわち、客観的には同じ現象が発生していたとしても、主観的には異なった様相で認識されうるのだといえる。

社会現象解釈

現象の認識のされ方というのは、主観的な文脈に基づいてなされるものであり、つまり、一人ひとりがどのような話の上で動いているか、ということによってその見え方が変わってくるのだといえる。自然現象に関しては、ほぼ客観的に発生するといっていいのだろうが、社会現象に関しては、人物評価によって見える風景は大きく変わってくるので、一人ひとりの文脈によって社会現象の解釈は大きく変わるということがあるのだといえる。
人と人との相互作用でその関係性が定義される時、社会現象とは、個々人の主観的人物評価の変化によって発生する連続的現象であるともいえる。つまり、社会現象は、個々人間の相互評価の連続で移ろうものであると言え、その点で、個々人がどの様な価値観に基づき、どの様な文脈で動いているのか、ということが反映されて動くのだといえる。
そうしてみると、社会現象を動画的に連続的に見ている人同士、その文脈解釈が一致するかどうかということを議論するのは、相互の価値観を確かめる非常に重要な機会であるといえる。そのような認識交換が繰り返されることで、相互の文脈の調整が行われ、それによってそれぞれのひとの文脈に合わせた社会現象がそれぞれの人によって認識される様になるのだと考えられる。

現実適用の難しさ

単純に模式化すればこの様になるが、現実はそんなに簡単なものではない。

組織の問題

まず、個別認識の元となる個別の文脈について、組織が大きな存在感を持つ現代社会で、自分の文脈を貫いて生きるというのはそんなに簡単なことではない。むしろ、組織の価値観に合わせて自分の文脈を組み立ててゆく、という方が一般的ではないか、とも考えられる。その場合、社会現象は組織のフィルターを通して認識されることになり、その意味で社会現象に対する組織の存在感が大きくなってしまうことを意味しそうだ。これは、組織がゴーイングコンサーンであると考えると、組織文脈がアプリオリに存在し、その中に自分の文脈を合わせてゆかないといけないということになり、組織への参加は自動的に組織文脈の受諾を意味することになるのかもしれない。本来的には、個の文脈が集まって集団とならなければならないところ、そうではなく組織文脈ありきで個の文脈がそれに付随するという形になるのは、例えば就職活動で会社研究というのが重要になることでもよくわかりそう。

文脈体現圧力

ついで、動きの激しい現代社会では、動画的社会現象の中で、その流れについてゆくために、常にその中に自分の文脈を織り込まなければならないという圧力がかかり続けることになり、社会の中で自分の文脈を体現し、それに支配される様な形で生きてゆかなければならなくなるということがありそう。この場合、文脈が動き始めると、それは他者の解釈に依存することになるので、自分の文脈が解釈によって変化してゆく中、それを自分の文脈であるということを体現し続けないといけなくなることにもなりかねない。本来的には、最初に書いた通り、個別の相互作用によって相互の文脈を調整してゆくことでそれぞれの認識を重視しながら具体的関係性を元にして社会が動いてゆくものが、社会の解釈に合わせて自分がそれを体現してゆかなければならないという、本末転倒ともいえる状況が起きているとも言えそう。
こうなると、自分の認識に従って社会を観察するどころではなくなり、社会現象に合わせてその中に自分の認識を埋め込み、そしてそれを体現し続けることで現象自体と一体化する必要が出てくるのだと言えそうだ。本来的には、現象に個別の人間が大きく干渉するということはあまり望ましいことだとは思えないが、社会において権力というのは現象を動かす力を持っており、そして現象を動かすというのはクセになる様な魔力を持っているといえるので、一旦それを感じてしまうとそれに取り込まれ、社会観察というよりも、主体として社会を動かすことの方が重要度を増し、結果として社会総権力闘争の様な具合になってゆく。

競争圧力

これは、社会現象解釈の序列の一番上に立つことでその現象風景を眺めようとする強い競争圧力となって作用する。本来的には多様な社会現象解釈があって、それによってそれぞれ納得のいく解釈を模索してゆくということでより多くの人の納得ゆく社会像が推移してゆくということになるべきなのが、一つの絶対的ともいえる現象解釈をめぐって競争を繰り広げ、そして権力を握ることでその解釈を思うがままにしようとすることに強い動機づけをあたえることになっているといえるのだ、

非対話的相互作用による認識の乱れ

この競争的権力闘争は、駆け引きによって相手の解釈を捻じ曲げようとしたり、鞘取りによって解釈像を自分のものとすり替えようとしたりするといったことを引き起こし、それ自体社会現象に大きな歪みをもたらす。認識の乱れが実際の社会現象に反映されることになるからだ。こういうことになると、例えば政治状況が荒れることから天気が荒れそうだ、というマクロ的な認識形成がなされ、それが実際の天気に反映されて荒れ模様となるという、自然への影響すらも引き起こすことが考えられる。それは、古代の雨乞いの現代版ともいえる様なものであり、雨乞いを非科学的であると切って捨てるのには反証となりうる現象なのかもしれない。典型的に言えば、気候変動の大きな要因として、グローバルレベルにまで拡張された統合的解釈獲得競争による認識の激しい変化ということが考えられるのではないだろうか。気候変動という大きな文脈に従い、海面上昇が激しい、というニュースが多く出て、世界中の認識がそうに違いないと思い込むことによって、実際に海面上昇につながるということも十分にありうることであり、その様な逆立ちした因果を引き起こす様な認識誘導すら可能となりうるグローバル認識争奪戦というもののリスクは十分に意識する必要がありそう。

地域密着社会現象形成の必要

この様に、世界を動かすベースとなっているのが文脈、そしてその文脈を基底で支える価値観であるといえ、それを世界で一つのものに集約してゆくと、地球規模での動きを大きくしてそれぞれの生活に密着した地域を地球規模の文脈に従属させることになり、それによって競争や権力闘争に否応なく巻き込まれてしまう。価値観も生活レベルに合わせて分権化、多様化する様にし、社会現象を地域密着のものとしてゆくことで、グローバルレベルでの動きに対して耐久力を保つ様にする必要があるのではないだろうか。


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