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【Lonely Wikipedia】七万言上書

ちょっとこれはあまりに痛ましくてきちんと整理できるか自信がないのだが、

1961年9月,十世班禅前往北京参加国庆活动。随后半年,十世班禅曾到西藏、四川、青海、云南诸省藏区访问考查,在发现人民公社的问题及执行民族、宗教、统战政策的问题后,质问中国共产党四川干部“共产党的宗旨是全心全意为人民服务,你们为什么不为老百姓说话?为什么不向中央反映真实情况?为什么在人民的苦难面前闭上眼睛?”十世班禅在四川甘孜藏族自治州视察时,州负责人向他汇报甘孜、阿坝两个自治州在平叛、改革后广大劳动人民获得了翻身解放,生产发展了,生活改善了。他随即打断其谈话说:“甘孜、阿坝是开展平叛、改革最早的地区,平叛五六年还平息不下去,你们这里平叛扩大化现象非常严重,匪民不分,把大批劳动人民、基本群众打成‘叛匪’。在改革时,大批寺院被毁坏,喇嘛被强迫还俗……许多老百姓吃不饱肚子,甚至有饿死人的现象。”“有人批评我,老讲民族、宗教问题。我是活佛,是藏族,谈民族问题、宗教问题是很自然的呀。你们在座的都是共产党员吧?你们为什么不为老百姓说话?为什么不向中央反映真实情况?”

61年9月、パンチェン・ラマは国慶節で北京に行った後、半年間で西藏、四川、青海、雲南のチベット人地区を回り、各地区の共産党幹部の現状認識があまりに歪んでいることに衝撃を受けた。

恩久活佛对十世班禅说到:“达赖活佛已经走了,现在只剩下你一个,要是你有不祥,不只是你,也不只是我们扎什伦布和后藏的事,整个藏区的政教事务都会受到影响,几百万藏民会感到没有依靠。” 但十世班禅认为自己的目的是为了搞好西藏的工作且没有私心并回答到:“只要民族振兴,人民幸福、佛法宏扬,我个人暂受一点冤屈,也无需愧悔”。于是他力排众议在当年年底,由于汉语不够好,开始用藏文起草《七万言书》,耗时五个月。

相談役の反対も押し切り、チベット語で七万言上書を書き始め、5ヶ月を費やしたという。

1962年4月21日至5月29日在北京召开的民族工作会议上,时任中共中央统战部部长李维汉检讨了“平叛扩大化”时所犯的错误,并要求加紧“甄别纠正”,当时的气氛表面上有所解冻。藏传佛学高僧中国佛教协会会长喜饶嘉措在会上对中国共产党领导进行了尖锐的批判:“我今天要说句真心话,你们有些做法太失人心,蒋介石、马步芳没有做过的事,你们做了……你们老爱回避实质问题而搞数字游戏⋯⋯我也向您学习,用几个数字,讲讲你们这几年的毛病:一说假话,二不认错,三乱整人,四无佛心,不讲人道……”。对此进行翻译的人员一度不敢进行翻译工作。
5月初,十世班禅基本写完了藏文稿,后请人翻译成汉文,以《关于西藏总的情况和具体情况以及西藏为主的藏族各地区的甘苦和今后希望要求的报告》为题递交给国务院。 

62年4月21日から5月29日まで北京で開かれた民族工作会議で、前々回出てきた青海省のチベット人副省長だった喜饶嘉措(シェラブ・ギャムツォ)が、翻訳者が恐れるほどに強く共産党指導部を非難したという。
一方で、それとは別に5月の初めにパンチェン・ラマの文章が誰かが中国語に翻訳して国務院に提出されたという。
時期が重なっているということもあり、非常に気になる。これは、実際にはシェラブ・ギャムツォの発言内容の翻訳が国務院に届けられ、パンチェン・ラマがその作者である、とどこかの段階で改変されたのではないか。少なくとも翻訳者がわからない、という時点で、本当にパンチェン・ラマの書いたことを正確に伝えているかはわからない。そもそも、共産主義思想を漢文で猛勉強したはずのパンチェン・ラマが漢文で自ら文章を書けなかったというのも不思議だ。

そしてこの文書が出てきたのは、どうも96年10月にTibet Information Networkというイギリスに本拠を置くチベットに関する調査機関からのようで、国務院に提出してから30年以上、しかも当の本人のパンチェン・ラマが亡くなってから出てきている。

そして、その話は、5月18日に周恩来がチベット政府の首班になっているという話とともに出てきている。自治政府の首班に漢人である周恩来が就くとは思えないので、この話はあまりに信頼性に欠ける。さまざまな政治的意図が考えられるが、とにかくこの文書を素直にパンチェン・ラマが書いたものだとするには状況が怪しすぎる。そもそも61年9月から半年かけてチベット人地区を回り、そこから5ヶ月かけて仕上げたのに、62年5月の会議に提出されるというのは時期が全く合わない。

5月下旬,国务院总理周恩来前往东北前向中央有关领导及中央统战部、中央民委、西藏工委交待,嘱咐与十世班禅协商、谈心。《七万言书》发布后,十世班禅将其送达中央领导和相关部门,引发了高度重视。依照周恩来的指示,李维汉与张经武、张国华、王其梅、夏辅仁、阿沛·阿旺晋美、帕巴拉·格列朗杰及平杰三、刘春等人一同召开参加了会议,与十世班禅一同研究相关提问题,并商量解决办法。7月19日,会议形成了四个重要文件,分别为:《加强自治区筹委会工作,改进合作共事关系》;《关于继续贯彻执行宗教信仰自由政策的几项规定》;《继续贯彻执行处理反、叛分子规定的意见》;《培养和教育干部的具体办法》。
周恩来回到北京后再次详细研究了十世班禅的《七万言书》及四个文件。7月24日下午,周恩来与十世班禅再次会面,回答了《七万言书》中提出的问题,在《七万言书》中“问题摆出来了,就必须要解决。但并不等于说你提的问题都对,有对的,有不对的。因为有这两方面的情况,所以要慎重研究。对的就接受过来,不对的正面给你提出意见,提出批评。你有意见可以保留,也是许可的。”
8月初,十世班禅回到西藏。8月13日到9月2日,谭冠三主持召开了西藏工委第六次扩大会议并传达了周恩来与李维汉等对西藏工作的指示,十世班禅对此感到很高兴。但随后形势突变,北戴河会议上,毛泽东提出了“千万不要忘记阶级斗争”、“阶级斗争要年年讲、月月讲、天天讲”的号召,并批评了李维汉,认为李维汉“统战部不抓阶级斗争,搞投降主义。”在看到《七万言书》后,毛泽东将此定性为“无产阶级敌人的反攻倒算”

周恩来や首脳、関係者との間で対応が話し合われ、パンチェン・ラマも納得してチベットに帰ったのに、そこで毛沢東がひっくり返した、ということのようだ。

1962年9月召开的中共八届十中全会期间,国务院副总理习仲勋被打成“习仲勋反党集团”的首要分子。不久,李维汉被免去中共中央统战部部长职务。习李二人的免职直接影响了十世班禅。9月底,国家主席刘少奇办公厅主任张经武飞往拉萨,传达北戴河会议的内容。西藏相关领导认为,李维汉向班禅投降,对班禅“向党猖狂进攻”一味“迁就、妥协”,助长了班禅的“反动气焰”。十世班禅对此非常震惊,并在此之后与西藏工委主要负责人关系日趋紧张,分歧日益加深。工委不断对他“批评教育”,而他的西藏自治区筹委会的工作也被停止。会后,有人批判《七万言书》为“农奴主夺无产阶级专政的权”、“反党反社会主义的反动纲领”,并与彭德怀在庐山会议上提出的“八万言书”呼应,“一个在党内,一个在党外,共同向党进攻”。还有人认为十世班禅的意见与中印边界问题有关,“具有国际背景的阶级斗争”。对此,十世班禅表示无法忍受,并说:“我这个人看到‘左’的错误,看到不合理现象,看到老百姓吃苦受难,从心底感到气愤,根本坐不住。要我不讲话,或者讲好听的假话,或者闭上眼睛,我根本办不到,这大概叫‘江山易改,本性难移’吧!”。
1963年全年到1964年初,十世班禅被禁錮在一棟小楼内,十分消沉痛苦。他想見毛泽东、周恩来但未得到回应。此后,十世班禅开始求助神佛,请占卜师卜卦,向佛、菩薩祈求托梦,并希望神灵可以为其辨明是非。

この辺りもよくわからないが、とにかく中央でパンチェン・ラマに同情的だった人々が失脚し、それでチベットの指導部との関係が悪化したという。チベットの指導部というのが、元のガシャ政府の面々を意味するのであれば、ダライ・ラマが中央の政変に絡めてパンチェン・ラマの足を引っ張ったということになりそう。パンチェン・ラマは庶民側に立っていそうなので、あくまでも指導部との関係性なのだと思われる。

なお、62年の10月から11月にかけては中印国境紛争が起きており、その影響も考えられるが、それはまた別途考える。

1964年年初默朗木庆典(即传召法会)期间,十世班禅出人意料地在拉萨传召大法会上对有一万藏人参加的讲话中提出西藏有权独立并号召西藏独立,支持并赞扬了达赖喇嘛,称达赖喇嘛才是西藏人民真正的领袖。中共原逼迫班禪喇嘛批判達賴喇嘛,但班禪喇嘛卻公開說“西藏曾經是一個獨立的國家,達賴喇嘛是我們的國王,今後西藏還有獨立的權利、還會成為一個獨立的國家,最後祝願達賴喇嘛長壽”,等於向西藏人民發出復國的號召,十世班禅当场遭到拘禁,并在受到了连续七天的秘密审讯后消失,長期失去自由。

どういう政治的メカニズムがあったのかはわからないが、64年年初にパンチェン・ラマがダライ・ラマを持ち上げてチベット独立を公言したという。毛沢東や周恩来に連絡を取ろうとしても繋がらず、追い込まれた末のことか。

1964年9月18日至11月4日,在西藏自治区筹备委员会第七次扩大会议期间,十世班禅受到严厉批判,被指控“反人民、反社会主义、蓄谋叛乱”。

64年秋の西藏自治区筹備委員会の大会で、パンチェン・ラマは徹底的に吊し上げられる。パンチェン派は一掃された。これはソ連におけるフルシチョフの失脚と軌を一にしており、その影響もあったのではないかと考えられる。
そして、中央でも65年9月に人民日報がパンチェン・ラマ批判を行なった。これは、人民解放軍のアクサイチン侵攻に影響された第二次印パ戦争の最中であり、外交情勢のスケープゴートとしてパンチェン・ラマが使われた可能性は否定できない。そしてその翌年からは文化大革命が始まるという激動の時期であり、世間に揉まれていなかったパンチェン・ラマはじめとしてチベット庶民にとってはなかなか大変な時期だったのではないかと想像される。

文化大革命中のパンチェン・ラマの扱いについては、書かれていることがどこまで信用できるのかもよくわからない。周恩来の支持があったことは多分事実ではないかと思うが、文革の最中は周恩来自身も常に身の危険に晒されていただろうから、どこまでパンチェン・ラマを守れたのかはわからない。一時期には亡くなったという噂も出たという。
そして釈放されたのは周恩来が亡くなった後であり、その後結婚もしているということで大きな心境の変化があったようだ。

七万言上書の内容については

(1)對許多人進行激烈的鬥爭、逮捕、關押等。
(2)錯誤沒收農奴主的土地資產,幹部或積極份子對一些人毫無原因的隨意捏造叛亂份子和反革命份子的罪名,造成許多人被冤屈逮捕關獄,財物被沒收。
(3)劃分階級時追求轟轟烈烈和恐怖尖銳,不看打擊是否準確,反倒把規模和數量作為主要目標。
(4)在民主改革中颳起兩股狂風:毫無根據捏造罪行、冤枉許多好人,還進行毒打的面對面鬥爭,致使被鬥者當場喪命、逃亡、甚至自殺。
(5)幹部於工作中的作風與錯誤造成史無前例的餓死人。
(6)對上層的統戰工作違背承諾進行面對面鬥爭。
(7)實行專政的關押犯人數占比過多、達到了總人數的百分之幾,造成前所未見的大量非正常死亡。
(8)原西藏政府官吏无一例外地被籠統算作叛亂份子而關押。
(9)寺廟改革未分清壞人和善僧,「三反三算」運動主要成了反對宗教。
(10)「三反三算」變成殺無罪的羊比殺有罪的狼更威風,在所謂「破除迷信」下消滅佛像、佛經和佛塔、迫使僧尼還俗。
(11)強迫喇嘛與尼姑俗女互選成親,恣意破壞、盜走神塔飾品與寶物,將《大藏經》用於施肥原料、佛像畫和經書用於製鞋原料。
(12)毀棄寺廟數達九成七、僧尼人數減少九成三。
(13)號召並強迫僧尼恣意違背教律、動員參加姘嫖酗酒等失戒造孽壞事、公然在寺內結戀婦女等極為不軌行為,將「政治學習」列為寺廟一切事務之首。
(14)藏传佛教遭到巨大衰敗而瀕臨滅亡,正常的宗教活動沒有了,有宗教學問的人將逐漸死去,學問失傳。为了保命,g要把房頂的經旗拔掉;身上不佩戴護身符和「金剛結」;家裡供奉的佛像、佛經、佛塔都要藏起來;不敢公開唸經積善;不敢燒柏香敬菩薩;不敢對聖地有名的佛像、佛塔等的朝拜供養,不敢轉經和供養「善僧」,布施窮人等都不便或無法進行,形成病不唸經,亡不超渡等。
(15)沒有信教的自由,所有藏人各階層人民中百分之九十以上都非常詫異、失神。
(16)惡意歧視仇恨藏族,侵犯民族特點,稱「藏族是一個被宗教信仰和民族自尊心陶醉的頑固民族」。
(17)漢民族主義思想者嘲笑藏族服飾裝扮,使藏裝無法繼續穿戴和留下去;藏族幹部如果不穿漢裝,就難入人之列,只要是看不順眼的,都予嘲弄歧視。西藏境内的一切公文只用漢文不用藏文,藏文逐漸成了民間的文字。有的幹部自以為有多了不起,忽視藏族特點,侵犯藏族權利,甚至給提到藏族權利和利益的人強行扣上地方民族主義者的帽子。
(18)各地人口減少,民族特色消失,民族也因此而消失:較嚴重的地區居民,只要一看就能清楚理解到只剩下許多婦女和老幼,青壯年和知事通理之人減少了。以藏文新詞匯不夠為借口,就理所当然歪曲地說藏文低級,傳意表達能力差,對藏文的榮譽進行侮辱。
(19)青海、甘肅、四川、與雲南藏族之悲慘比西藏的時間更長、更嚴重、更左傾。每個地區關押犯人的數字都達到萬把人或萬人以上,看管有意把人弄到水土不服的地方,千萬人遭到非正常死亡,造成犯人的屍體埋葬不完。公共食堂建立後,口糧食物分配極少,有些地方有不少人因斷糧而直接悲慘地餓死,群眾的體質日益衰弱,所以在一些地方,就连像感冒等小傳染病就達到百分之數的人輕易成批死亡,也有些全家人死光的現象。這些在藏族歷史上都是絕無僅有的。寺廟和喇嘛數目減少了百分之九十八到九十九。

Tibet News Digestでも触れられているように、通常寺院の破壊は文化大革命期に起こったと考えられているが、それより4年も前のこの文書でそのことが既に書かれている。そのほかの内容も、文化大革命の時と思われるようなことが多く含まれており、私は、どちらかと言えば、それ自体この文書が偽文書であることの証明ではないかと考える。

チベット問題はまだまだ続くが、ニクソンショックに関わるのはこの辺りくらいまでだろうから、とりあえずはここまでとする。

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