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広島から臨む未来、広島から振り返る歴史(2)

広島後の世界 ー 経済的側面から

さて、昨日資本主義が経済学の枠組みを乗り越えてさらに大きく成長しつつあるのでは、というようなことを書いたが、主義ismは明らかに主観であり、主観の集合体が客観的思考フレームワークとも言える経済学を乗り越えた時、一体何が起きるのだろうか。

合成の誤謬の常態化

基本的にはそれは合成の誤謬であり、経済学において完全情報であったとしてもミクロの総計がマクロになるわけではなく、その意味で現状はミクロのismがマクロを凌駕している状態であり、合成の誤謬は起こるべくして起きているのだとも言えそうだ。人間の客観性には限界がある以上、たとえマクロの思考フレームワークが優越していても、おそらく合成の誤謬は避けられないのだろうが、それにもましてミクロが優越すれば結果は自ずからあきらかなのだろう。
わたしは、マクロのフレームワークたる経済学が資本主義を包括する形での次の時代への移行をずっと想定していたのだが、この合成の誤謬の常態化によって、どうもそれは違うことになるのかもしれない、ということを頭の片隅におきながら、それでは資本主義の次には一体どんな時代が来るのか、ということを考えなければならなくなったという、これもまたちょっとした時代の変わり目が広島であったのかもしれない。

社会発展、経済発展、自己利益追求

経済学が優越する形であれば、社会の発展とはいったい何なのか、という問いに対して、その答えが経済発展である、という答えが一応準備されていたことになる。それにしても、その考えは、貨幣の増大によって社会の発展度が定まるという定義がなされた、ということがいえる。その上に、ミクロの自己利益追求を正当化した資本主義が優越することになると、個別の自己利益追求によって社会の発展が実現されるのか、という問いに対して、答えは経済発展である、と定義することになり、その定義に従って資本主義が利益追求を最優先テーマにして利益を拡大させることで社会も発展させる、という定義からの論理のゴリ押しとなる。それはその時点でミクロの資本主義がマクロの経済学を従属させていることは明らかで、それにより、合成の誤謬はその誤謬の度合いをひどくし、自らの正当性を自己強化するような論理のループによってその誤謬を周囲に振り撒きながら、自己利益の実現が社会を良くするのだ、と強弁して突き進んでいることになるのだと言えそうだ。
これは結局、定量化によって何とかマクロ的共通利益の実現を可能にしようという経済学の良心的な側面を、資本主義という自己利益至上主義が食い潰して、経済学自体を完全に骨抜きにしてしまっており、資本主義が何のブレーキもなくただ皆の欲望を正当化して突っ走り続けているというプロセスに突入していると考えるべきなのかもしれない。

資本主義の経済学に対する優越の行き着く先

わたしは、経済学という学問のロジックに従って、もちろんそのおかしなところを正してゆくことによって、資本主義を飼い慣らしながら、人々が自由ということについて考え、対話をしてゆくことで社会がよりマシな方向へ進んでゆくのでは、という大雑把な考えを持っていたが、ここで資本主義の経済学に対する優越が明らかになると、万人の万人に対する闘争の構図の中で何ら将来に対する確定的な方向性があるわけでもなくただひたすら競争し続けてどこかへ向かってみんなで突っ走るという、地獄への競争さながらの何とも言えない退廃的な感じを受けてしまう。一体我々はどこへ向かってそんなに競争に駆り立てられ、人に勝つことを満足の源泉にして心をすり減らして生きてゆくのだろうか。

情報時代 ー 資本主義の先の世界?

さて、資本主義の次に何がくるのか、ということはずっと考えていたのだが、この変わり目を前にして、ここまでの考えをまとめた上で、ではどうするのか、ということを考える必要が出てきた、ということになる。言い古されているのだろうが、わたしは当面のところ情報を中心とした情報時代というものを中心として想定するのが良いのでは、と考えている。それは、資本主義というものを、資本の源としての貨幣を蓄積し、それを投資することによって利益を駆動力にして社会が動くという考え方だと想定し、その上で貨幣と情報との違いを考えた時に、利益を稼ぐためのツールとなってしまった貨幣の不自由性を除去するものとして情報というものが想定できるのではないか、と考えるからだ。

コミュニケーションメディアとしての情報

貨幣も情報もどちらもコミュニケーションを媒介する、いわばメディアであると言える。貨幣は具体的計量単位であるが故に、会計を見ればわかるように受け渡しに貸借のようなものが不可避的に発生する。貸借というのは何であれ依存関係であるといえ、つまり、貨幣とは依存関係を定量化したコミュニケーションメディアであると言えそうだ。一方で情報は双方向性であり、発信に対しては必ず何らかの形でフィードバックが戻ってくる。つまり、依存というよりも、コールアンドレスポンスの相互影響的メディアであると言えそうで、要するに情報発信が増せば増すほど、基本的には相互に影響が発生し、双方が善意に基づいていれば互恵的、悪意が入り込むと応酬的なものになるということが言えそうだ。

コミュニケーション阻害メディアとなりつつある貨幣

原理的には、上に書いた通り貨幣もコミュニケーションメディアでありそれによって人と人とを繋ぐ役割を果たすはずなのだが、資本主義的競争社会においては、まずコミュニケーションメディアである貨幣を排他的に独占して溜め込むことで利益を確保するという行動が正当化されるために、貨幣のコミュニケーションメディアとしての役割が大きく損なわれる。その上で、資本主義における人と人との関係性をモデル化したとも言えるゲーム理論によって、貨幣はコミュニケーションメディアだというよりも、駆け引きの道具となり、ここでもまたコミュニケーションを阻害する方向に作用していることになる。

このように、資本主義が経済学に対して優越することで、貨幣をコミュニケーションメディアとして考えるという選択肢がどんどん狭くなり、人と人との交流がどんどん阻害されてゆくという方向に社会が進んでゆく、という可能性が高くなっているのではないか、という印象を受ける。これが広島後の世界の経済方面から見た光景だと言えるのかもしれない。

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