認識変化と政治性

認識変化は、本来的には、直接対話などの直接の情報摂取によって起きるのだが、そういった主体的認識変化とは別に、受動的認識変化というものがありそう。無意識のうちに認識が変化している状態だ。これは、テクニックとしては非常に興味深いのだが、果たして現実的有効性を持つものなのだろうか。

忙しい現代社会、誰もが全てのことに納得して考えを整理しているのではなく、瞬間的に入ってきた情報に反応して知らず知らずに認識を形成している。そして、身振り手振りなどを用いて、直接ではない形でさまざまなことを伝えようともする。そこに、忖度やら功利主義的判断やらが働いて、言葉によるものではなく、”自発的意思”に基づいた管理手法が発生する余地が現れる。それは、組織を動かすには大きな力となり、組織による効率性の多くの部分はこのコミュニケーションコストの削減によるところではないかとも考えられる。

一方で、マスメディアの時代は、全体文脈によって言外に意図を伝えようとすることが多く行われた。「行間を読む」という言葉のもとで、記事そのものではなく、記事の構成であったり、段組、あるいは誌面全体の文脈といったものによって本当に伝えたいことを表現するという、サブリミナル的な手法であるといえる。

さらには、よく知られた物語や歴史的文脈、そして一般的道徳観念のようなものは、意識せずとも常に行動のどこかに織り込まれる。

これらの三層の潜在的情報伝達によって起こる受動的認識変化によって、運命的なものが演出されることになる。自分の記憶に既視感が起こり、過去の体験に重なるようなデジャビュ的状態、新聞や本を読んでいる時に、その中に没頭して、いかにも自分がその中の一部であるかのように感じてしまう状態。そして、人の言外の意図に敏感に反応することで物事が非常にスムーズに運ぶ、「自分の時」状態。

これらのことが起こっているときは、どこかで誰かが潜在的認識管理をしている可能性があり、少し落ち着いて考えたほうが良い状態なのだといえる。理由なく物事が都合良く運ぶはずもなく、都合良く動くということは、誰かが何か言葉にしたくはないことを飲ませようとしている可能性が高いからだ。特に、功利主義的世界観の中では、それは釣りである可能性が非常に高く、どこかで梯子を外され、ツケを払うことになる。かつては素朴に信じられたかもしれない運命が、功利主義によって単なる取引、しかも悪魔の取引に変わりつつあるのだろう。

これは、情報ネットワークにおいて上位につければ、情報の信頼性が高く、引き際もわかるが、下位になると”自発的”判断は常に搾取の対象となり、”自発的”に働かされ、”自発的”故に報酬は出ない、ということになり、結果として言われたことしかやらなくなるということにもなってゆくことにつながる。その意味で、自分で考えてやれ、というのは、情報ネットワークの上位者による搾取の手法であるといえる。

かつては、その手法はマスメディアを通じて行うのが主流であり、メディアの文脈での情報解釈連鎖というのが非常に大きな力を持っていた。メディアの社会を動かしたいという欲求は、政治的に実現するのが一番わかりやすく、だからメディアは多かれ少なかれ政治的情報発信を行う。政治的に”運命”を演出することで、自分のメディアの読者、視聴者を信者的存在にしてゆくことができるからだ。

それに対応して、票を求める政治家がメディア戦略を強化し、メディアを通じての世論コントロールに目をつけたところで、それはさらに政治的な色彩を強めていった。特に、小選挙区制の導入によって選択肢がほぼ二つに一つと限られるようになると、情報ネットワークの経路が固定的になり、そして勝ち馬に乗る方が当然有利だ、ということになって、いかに情報ネットワーク上において有利なポジションにつけるか、ということが非常に大きな関心事となり、情報拡散自体の政治色が非常に強くなったのだといえる。

そうなると、組織の集票力というものがものを言うようになり、組織内でのポジション争いすらもある種の政治性を帯びるようになる一方で、サプライチェーンの強化によって大企業を中心としたバリューチェーン自体の情報ネットワーク化も進み、組織同士の関係も政治的になっていったのだといえる。それは、マルクス的な階級闘争の構造化であると言え、それによって生産を効率化させるためのはずの資本主義がひどく政治的な道具となり、一般的組織の政治団体化が急速に進むようになったといえる。市場の相対的ポジションは、生産力や生産品質で決まるよりも、政治力、政治ネットワーク上での位置付けによって決まることになり、競争原理はそのまま政治的闘争に変質していった。特に、財政規模が拡大し、経済における公的部門の関与が強まると、資源配分自体が政治によって定まるようになり、必然的に政治闘争は激しくならざるを得なくなった。

一方で、それは、何をいっているのか、よりも、誰がいっているのか、ということが重視されるようになることでもあった。それは、インフルエンサー的な存在の登場にもつながるが、そのインフルエンサーになること自体、強力な情報ネットワークにおいて有利なポジションにつく、と言うことであり、個人の意見や表現力の賜物というよりも、いかに政治闘争に勝ち抜くか、ということが重要になるのだといえる。そして、万人の万人に対する美人投票の世界では、自分の思う情報発信というよりも、万人に対してウケの良い情報発信をする傾向が強まり、それがインフルエンサーとそこからの連鎖情報によって急速な認識変化を引き起こすようになっているといえる。

マスメディアの時代には受動的認識変化が中心だったのに対し、インフルエンサーが中心となることで、情報発信の多様化と共にインフルエンサーの座をめぐる争いを引き起こすということにつながっている。それは、情報発信自体をウケの良いものにしたり、あるいはインフルエンサーが自分を支持する集団の広告塔のような存在になったりして、情報の質自体の低下をもたらす可能性が高くなる。あるいはインフルエンサー自身が潜在的文脈管理をしている可能性もある。

それは、いわゆるフェイクニュースを作り出しやすい環境も作り出したといえる。そもそも、言外に意図を伝えようとすること自体、本音とは違うことを書いているという点で、すでにフェイクニュースであると言って良いのだ。メディアでさえも特ダネ争いによる飛ばし記事が起こりうるのに、ましてや万人の万人に対する美人投票に晒されるインフルエンサー争いをや。そんな社会のもたらす歪みというのは誰が考えても明らかであろう。

マスメディアには強固な購買層があり、”メディアリテラシー”の高いその層は、意識するにせよせざるにせよ、習慣的に政治的情報処理を行うようになっている。結局メディアリテラシーとは、メディアからいかに利益を引き出すか、ということに尽きるからだ。だから、マスメディアが政治的利益を分配しようとすれば必然的に政治的行動となるわけで、そのためにメディアはあいも変わらず既存の政治シナリオに乗せた文脈によって紙面や番組を構成し、それによって政治的な受動的認識変化というのが政治的な風向きを作り続けている。SNSはもっと短期的にそれに反応しやすいので、受動的認識変化の増幅装置のように作用しているのだといえる。しかしながら、インフルエンサーがマスコミの思う通りに反応するわけでもないので、その認識変化のあり方はかつてほどマスコミの思い通りではなくなっているのだといえる。

さらには、SNSにはフェイクニュースの問題もあり、アメリカはともかく、日本においてはSNSでの情報の広がりと政治的行動が連動しているか、と言えばそれほどでもないように感じる。つまり、急速な認識変化があったとしても、それが投票行動に結びつくかどうかは定かではないし、仮に結びついたところでさらにそれが政策に反映されるか、ということについてはさらに不確定である。特に小選挙区においては、争点と投票行動の一致の可能性はかなり低くなっており、導入当時に目指していた政権交代可能な二大政党制も、決められる政治も、かえって実現しにくくなるという皮肉なことになっている。中選挙区においては、与党内の派閥力学によって有権者側に政策選択の主導権があったので、それによって意思決定の正当性を確保する手続きが踏めたが、小選挙区では、党の決めた公約一本で投票が行われ、そしてほとんどの場合政策に完全賛成の上で投票するのではなく、与党だから投票する、勝ちそうだから投票する、ということになり、結果として勝った側が政策実行しようとしても、各議員が地元の支持をまとめ切ることができず、結局投票行動が政策推進力に結びつかない、という状況になっているのだと言えそう。そして、メディアリテラシー的な観点からは、政策実現自体よりも、いかにそこからのおこぼれを確保するのか、というほうが、”正しい”メディアの読み方となり、だから政策は実現しなければしないほど望ましい、ということになってゆくのだ。

技術の発達に伴い、認識変化のテクニックは急速に進化しているようでもあるが、しかしながら、それは間接民主制においてはほとんど政策実現にはつながらなさそう。もっと目先で直接的な利益確保のようなことには有効なのだろうが、それは万人の万人に対する美人投票をしながら万人の万人に対する闘争を行うような状態であり、精神的治安は極度に悪化するのであろうと考えられる。私は個人的には速さ勝負の、言語外での認識変化を伴うような受動的認識変化のやり方は大きな曲がり角を迎えているのだろうと感じる。一方で、インフルエンサーを核にした万人の万人に対する美人投票スタイルの直接的情報拡散というのは情報の質を確保しにくいし、何よりも文脈が乱れて情報が細切れになるので、長期的な認識固定にはほとんど役立たないのだろうと感じている。

SNSの良いところは相互性であり、情報拡散ではなく、対話のメディアとして確立されればもう少し落ち着いた形での主体的認識変化を促進することになるのではないだろうか。そうすることで、政治的文脈とは独立した認識形成の場が出来上がり、万人の万人に対する共感、というアダム・スミス的市場への道が開けるのではないか、と期待している。認識が権力に従属して形成されるのではなく、それぞれの納得に基づき形成され、それが対話によって相互承認されるという仕組ができるのが望ましいのではないだろうか。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。