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他人との境界線がうすい人

久しぶりのリアルな夢を見た。もう亡くなった方なのだけれど、私がむかし所属していた新興宗教でお世話になった(?)方が現れて、「何か悩んでいるのではないの?」とぐいぐい迫ってきた夢だった。

これまでにも度々あったのだけれど、そういう夢を私が見させられる原因は明らかだ。そこの宗教でやっている施餓鬼や星供養・護摩と言ったものを、私の個人の名前にあてて施された時に、私は夢でそれをキャッチする。

今回も朝起きてはっとして日付を確認したら、そこの宗教での寒修行が満願して節分を迎えた日だったので、私の思い過ごしではないと思っている。

これまで長い間それをしていた(くれていた?)私のきょうだいに、気持ちはありがたいがもう絶対にしないでほしいと頼んでからは止まっていた。なので今回の夢の元はそこからではなくて、多分私をその宗教に誘って連れて行った幼馴染だなとふと思った。

朝夫にその話をしてから(彼は面白がってちゃかすだけなのだけれど)、なんとなく色々と思いを巡らせていた。「そもそも何故私はその宗教に入ったのだっただろう?」と当時を思い出してみた。

そうだ!私の人生で一番さびしくて悲しい気持ちを抱えていた二十歳過ぎの頃、どこからか私が帰郷したことを聞きつけたその幼馴染が、私を「救う」ためにやってきたのが始まりだった。

私は彼女の気持ちがとても嬉しくて(純粋に私の事を思ってくれているのが伝わってきたので)、全くその宗教に興味はなかったけれども、彼女の気持ちに応えるためにそこへ行ったのだ。

今にして思うと、自分と他人とのエネルギー的な境界線が薄いことで、私はすぐに誰かに影響を受けるし、相手の気持ちが自分の気持ちと同じようにわかってしまうので、相手を傷つけることなど辛くてできず、「まず自分」ということが苦手だった。

まだ自分自身もその宗教をよくわかってはいなかったはずの当時の幼馴染は、それでも「私を救いたい!」という純粋な気持ちで、私を自分の親のところへ連れて行き、その宗教に私を入信させたのだった。

実は夢に現れたのは彼女の両親で、当時とまったく同じように私に寄り添い、でもぐいぐいと彼らは私の心の中に入ってこようとした。夢から目覚めてから思ったのは、「あ~私はこうやってこの宗教にどっぷりとハマっていったのだな」ということだ。

エネルギー的な境界線が薄い人は、パワフルに自分の信念に従って押し付けをしてくる人に本当に脆弱だということが改めてわかる。境界線が薄いゆえに相手の気持ちがわかる繊細さは、人と愛を分かち合うという美しい行動に使われるよりも、こうして自分が望まないものを受け入れ、NOと言えない状況に陥ることが多いのだなと、今さらながらに分かった気がした。

「誰かを助ける」という一見美しい大義名分も、実は「自分のエゴで自己満足するための行為」なのだと思う。たとえそれが自己満足だとわかっていたとしても「ヒーリングは相手から依頼されてから行う」・「アドバイスは相手から求められたときにする」という原則を忘れてはいけないのではと思うのだ。

アドバイス云々に関しては、恥ずかしながらこれまでの私はついやってしまっていた。しかし、そういう時にはその裏に潜んでいる自分のエゴに光をあてて反省する(苦笑)「人から必要とされたい」がそこには潜んでいなかったか?「自分が正しい」はなかったか?私は一体だれに認められたいのか?・・・結構辛辣に自分を顧みるので、正直時々苦しかった。(今は自省して、そういう機会はあまりないかな。でもそういう傾向を持っている自分に気をつけています)

今回の夢でぐいぐい来られて、夢の中でうっかりとまたその宗教に近寄りそうになって、改めて「善意」という名の「信念の押し付け」について考えさせられた。そして、私は「薄いベール」と呼んでいるのだけれど、自分と他人との間の境界線のような見えないそのベールが薄い人は、なぜそうなのかを知っておく必要があると思うのだ。

HSPやエンパスと呼ばれる人達はまさにそれで、その敏感さ繊細さは、往々にして自分が傷つけられることへと向かってしまう。でもその薄いベールは、他ならぬ自分が選んできたものなのだ。傷つきコントロールされるためにそれがあるのではなくて、他の人に深く共感し愛を分かち合うために携えてきたものなのだ。

他人のことを我がことのように感じるその敏感さがある人は、他人を傷つけたりすることは基本無理だ。他人の感覚を自分のことのように感じる人にとっては、他人を傷つけることは自分を傷つけることになるからだ。

奇しくも少し前からYouTube界で炎上していた、プロバレエダンサーのヤマカイさんと、彼を誹謗中傷した動画をあげた同じくプロバレエダンサーのHさんとの出来事は、ベールの薄いヤマカイさんと、そうでないHさんとの違いも原因になっていると私は感じた。

背景には様々な要素が入り組んで存在しているのは間違いないのだけれど、愛深く繊細なヤマカイさんが、明らかな誹謗中傷動画に対してさえ、最初は矛先を自分に向けて相手を不快にさせたことがあるなら謝罪するなどとアンサー動画を出していた。「Hさんには愛のあるコメントをお願いします」と彼を庇い、それでも集中砲火を浴びた彼に対して「彼へのコメントは個人の自由ですが、 誹謗中傷などは辞めていただけますと幸いです。」とまで頼んでいた。

似たような体験を過去に何度かしたことのある私には、彼の気持ちは痛いほどわかった(私は彼ほど心は広く美しくはないけれど笑)。まだ完全には収束していない炎上だけれど、この先の彼にとって、辛いけれど貴重な体験になっているのではと思うのは私だけではないだろう。

ベールの薄いことは、自分を痛めつけるために使ってはならない。本来の目的である、相手と愛を分かち合うこと、深い共感力を生かすこと、に使ってほしいと心から思う。

今朝の夢にしても、ヤマカイさんの一件にしても、自分が備えてきた特性の真の意味を知り、毅然として自分に必要のないことにはNOと言えることで自分自身を生かす道を外れないでいたいと改めて思ったのだった。

親子問題にしても然り、宗教の問題にしても然り、果ては芸術の世界であっても、一人一人が自分の真実を生きるために、人の数だけある真実をお互いが尊重することを大切にできたらいいなとしみじみしている私なのです。