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子供たちから信頼される大人になるために ♯自分にとって大切なこと

子供は大人の本質や正体を見抜く

これは、以前、私が中学校の教師をしていた時に感じたことだ。

私は12年間、教職についていたのだけど、思春期の子供たちを相手にして、「子供たちは大人のことをズバリ見抜いてるなぁ」といつも感じていた。でも、これは中学生だけの話ではなく、子供はもっと幼い頃から、周囲の大人たちの様子をじっと観察し、大人の心の奥底まで見透かし見抜いているのだろうと思う。

人は大人になると、いつまでも純真なままではいられない。生き抜くために、嘘を覚え、保身に走り、どんどん面構えが厚くなっていく。

そんな大人たちの、欺瞞や嘘や保身で塗り固められた分厚い面(つら)に隠された本当の表情を、子供たちはその澄んだ瞳でスッと見透かしていく。厚い面の奥に隠してきた大人たちの本性(心の弱さや未熟さ、エゴ、プライド…等)を隅々まで察知して、すべてをきれいに見抜いている。それも本能で…。

だから、大人たちと向き合うより、生徒たちと向き合う方が私は緊張した。

嘘やごまかしが一切通用しない。

保身に走れば、以降、冷めた目で見られて軽蔑される。

傲慢さを隠して良い人の仮面をかぶっても、直感的に違和感を感じて、「あの人、キモイ。」とすぐに見破る。

つまり、子供たちの前では、どんなに良いカッコしても、全てバレてしまうのだ。身ぐるみ剥がされて「素の自分」を見抜かれてしまう。社会的にはどれほど評価されている大人であっても、自分をごまかして弱さを隠していたり、保身の為なら卑怯なことも平気でやってのけたり、欲深くて心根が腐っていたり…等、人として尊敬できる部分が1ミリもないような人間だと、子供たちは感覚的に「この人は信用できない」と嗅ぎ取り、心を固く閉じてしまう。

こうした子供たちの「人を見抜く能力」は、安全無事に生きて大人になるための、自然に備わった本能なんだと思う。

一方で、子供たちは、自分たちと共に成長していく大人たちを心から信頼してくれる。

大人であってもクリアで素直な心を持ち、自分の未熟さを素直に自覚して受容し、それぞれの持ち場で日々成長できるよう頑張っている大人たちのことは、子供はちゃんと信頼して心を開いてくれる。

しかし、そうではなく、大人であることを特権にして子供を支配しようとしたり、子供の気持ちを無視して自分の価値観を押し付けたり、自分の未熟さや弱さを隠したまま「自分は大人だ」と威張っていたり、平気で約束を破ったり、子供の気持ちを平気で踏みにじったり、充分な指導もしないまま子供に恥をかかせたり…等、大人と言うより一人の人間として「これはあかんやろ」という人を、子供たちは心底嫌っていた。

でも、圧倒的なパワーバランスから、黙って大人の横暴さに耐えている子供もいる。そういう姿を見ると、私は胸が痛くなる。今は子供であっても、数年経てばみんな大人になるのだ。だからこそ、小さな子供であっても誠実に向き合うべきだと私は思うのだ。

ちなみに、私が教師をしていた時は、生徒たちは割と素直な反応をしてくれて、いろんな形で意思表示してくれた。

下手くそな授業をすれば、生徒はそっぽを向く。

下手な指導でごまかせば、生徒はもう二度と信頼してくれない。

だから、常に心と心の晒し合い。本音のぶつかり合い。真剣勝負。

良い授業ができれば、生徒たちは真剣に集中して取り組み、次の授業を楽しみにしてくれる。

良い指導ができれば、生徒は何かを悟ったような表情になり、パッと顔が明るくなる。

相手(子供たち)は、大人の足元も本心も全て見抜いているのだから、教師である私は、生徒たちを前に、腹をくくって自分をオープンにさらけ出すしかない。下手なら下手さを素直に認めて、ひたすら努力するしかないのだ。

意地もプライドもないクリアな心の状態で、「これが私という人間なんだよ」と全部をさらけ出して、素直になり、生徒たちとは同じ人間同士なんだ…というスタンスで接する。嘘はつかない。正直である。人としての温かみや優しさを持つ。相手を一人の人間としてリスペクトする。誠実である。相手の弱みや未熟さを許す心の広さを持つ。大きな心で生徒たちを受け入れる。時には馬鹿話をして大笑いする。生徒たちと一緒に笑う。たまには自分も童心に戻って、生徒たちと遊ぶ。楽しさを共有する。

でも、その一方で、人としてダメなことは毅然とした態度で生徒たちに教えていかなくてはいけない。決して忖度はせず、保身に走らず、すべての責任は私が背負うという覚悟で、生徒たちと真摯に向き合う。厳しさが必要なときは、愛をもって厳格さを発揮する。すべてにおいて「筋を通す」ことを心掛け、自分の勝手な主観ではなく、この子の将来を常に考える。客観的に物事を俯瞰し、決して感情論に走らない。相手の気持ちを思いやる。今必要なことはキチンと教えていく。そして、たまに自分の人生哲学を生徒に語る。自分のこれまでの人生も正直に語る。

ずっとこの繰り返しだった。

毎日コツコツ自分と向き合う日々。生徒を変えるのではなく、自分を変えるという気持ちが強かった。自分が人として成長すれば、生徒たちも私と共に成長するだろう…というスタンス。成長しなければ、私が未熟だということだ。

いつも自分を丸裸にして、素の自分を生徒たちに晒しても、全然OKな自分になる…。これが当時の私の目標だった。孔子様が仰っていた「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)…私が目指していたのはこれだった。この境地じゃないと、生徒たちと対等に向き合えないと思っていた。何を言っても何をしても、その様子を見た生徒たちが「安心できる人だ」と信じるような、そんなピュアで芯のある人になりたかった。徳を積んで信頼される人間になりたかった。未熟故、自分の心の純度を高めようと日々努力したのだ。

子供たちの聡明さを知らない大人たちは、子供のことを「未熟な存在」だという。

でも、私はそんなことは一切思わなかった。

むしろ、子供たちの方が人に対して誠実で真っすぐで、愛を見抜く力が非常に長けている。

だから、子供と向き合う時、私はいつも「自分は人として大丈夫だろうか?」「信頼してもらえる大人だろうか?」…と心の中で問い続けてきた。

今振り返ると、私は教師という仕事をしながら、自分の人間性を磨く努力をしてきたんだなぁ…と思う。お給料をいただきながら、自分のエゴやプラドを削り捨て、心を磨き、徳を積む日々を送ったのだ。

純真で真っすぐな心を持つ生徒たちのお陰で、私はあの子たちに見合う人間になろうと思ったし、彼らに心から信頼される大人になりたいと思った。だから、自分の未熟さを全て受け止めて、教師としての力量を高めるだけでなく、愛を学び、真のやさしさを学び、人間を学び、それを一生懸命に実践していったのだ。

そう思うと、仕事とは、お金をいただきながら自分を成長させていくこと…なのだと思う。

◇◇

こんな12年間を過ごしたので、私は今も、誰に対しても誠実に心を開き、オープンであることを自然とやっている。

仕事も、今は有償じゃなく無償の仕事(地域のボランティア的な役割)をしているけど、いただくお金の金額なんて全く関係なく、どんな仕事も誠実に取り組み、どんな場でも臆せず自分をクリアにオープンに出していくことを心掛けている。また、誰に対しても裏表なく明るく接することも意識している。要はどこを切っても「同じ私」が出てくる…という状態、これを目指している。

エゴやプライド、良い人に見せたい…という欲は全部捨てて、サッパリした気持ちでその場にいると、自分も楽だし、周りの人も気持ちよく過ごせるんじゃないかな。

最初は、生徒たちに信頼されるために心がけて取り組んできた「自分磨き」だけど、教職を離れアラフィフになった今も、私の大切な心の軸となっている。

きっとこれからも、私はこのままの自分で生きていくのだろう。


#自分にとって大切なこと

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