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多摩川の群像

人混みをかき分けて、僕は君にたどり着いたのだろうか。

君と出会ったのは、よく晴れた日の学校の廊下で、あれはたしか高校2年生の春くらいの出来事だろうか。僕も君も初対面は別になんともない、ただの友達の友達という認識のみであったのだろう。

東京都の人口1400万人全員が同じ瞬間に瞬きをすることはあるのか

眠るときに見ている夢の種類の分布は如何なものか

1700人が乗っている月曜朝の7:40発渋谷行の1車両100人のうちの中の

私という1人がレールの上で加速していくうちに、様々なビルの右脇左脇

をすり抜けるとき、そのビルの7階で既に仕事に取り掛かっているあなたと

20メートルの高低差ですれ違っている

僕、君、私、あなた。

私のこの22の歩みに、母や祖母や街行く女の残像が付着しているように感じることがある。抱いた抱かれたどちらでも構わぬ、今しがた事を終えた男が私に向ける背中にやけに憎悪を覚えるのは、私自身の感情とは少しかけ離れていると感じるのは、きっとそのせいではないだろうか。

川沿いに住む君の家から、対岸を眺める。海の近くで生まれた僕には、この多摩川という川は横に移動する水たまりに見えるんだ。君は僕のことを愛してなんかいないということに、僕は最初から気づいていたけれど、毎日そんなの忘れた振りができるのは、この川に全部流してしまうからなんだって知ってたかい。

その女は彼に何も求めちゃいない

その男は彼女に何も求めちゃいない

その人をいくら見つめても分からないことが
その人の見ているものをみることで分かることがある

変化は常に我々の中に内包されており
変化の為に取っておいた空間にもう何も残ってはいないのではないかと大人になってからだんだんと気づき始める過程は、我々を苦しめる

ゆっくりと死に近づく
この河は我々の悲哀を養分として藻を生やしながら流れてゆき

やがてそれは海へ至る

ゆっくりと死にながら、剥がれてゆく殻

それはやがて誰かの生命の源になるのだから

無意味なことはひとつもないと

君は僕に教えてくれた

君と僕について、依存しているのか依存されているのかを考えてみたが、もう会わないと決めたとて、僕の生活は続き君の生活も等しく続く
続くという概念には希望も絶望も加味されない
・河の底まで見てしまう
・濁り淀みを許せない
私のそういうところが嫌いだと

嫌いだ嫌いだと言いながら

私は誰よりも自分を可愛がっていて

傷口と口づけをする様は

なんと滑稽か

土と汗で汚れた君のユニフォームを綺麗な水で清めて洗い、この304号室の
出窓に干す。どうかあなたがこれからもその笑顔で友と走り回り、汚れをつけてくれたなら、私は蛇口から捻り出した、流れる水の冷たさを、指先で感じ取ることができるのだ。

僕はたぶん2秒前の君をいつも追っていて、鼓動は5拍ズレていて、君と見つめあえたと思って喜びを噛み締めるとき、君はただのひとつの催事としてこれを締め括ろうとしている。

そんな虚しい気持ちは、川辺にある紫陽花の蕾がぷっくり膨れてきていることに気づけた喜びと、大きさだけは等価だ。

だから私は私の存在を、度数の合わない眼鏡をかけて、景色を人ごとのように眺めている有機的な媒体なんだと思うことにした。

夕焼け空が水面に映るのなら

川から光を照らしたら

空に川が流れるだろうか

空に私たちの生活を映してみたら

思いの殻は地上に残り

届くことを忘れる

場所に留まった思いは

私たちがいなければ

記憶にさえならない

じゃあそれはなんだろう

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流れの音を聞きながら、誰を待っていたのかを
私はたぶん忘れてしまった。



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