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目的を見失って

今月のふみサロは小説「だまし絵の牙」が取り上げられた、面白い小説
珍しく2度読みした。
 

 そして、エッセイに繋がったのは「人間関係」そして
『主体性?』だった

 沖縄から子ども二人をつれて東京へ出てきたとき、環境を変えたい、人間関係を変えたいと強く心に決めていた。
 ママ友は作らないということを自分に言い聞かせ、その後もあたりさわりのない人との関係を作ってきた。世間話が不得意で、マンションの人との付き合いも避けてきた。
 主体的に行動しているつもりだった。
主婦の話は噂話が多いし、訳アリの自分の事を探られるのを避けたいというのが本音で、主体的な行動とは程遠い、単なる保身でしかなかったのだが。
 
 職場の人間関係は受け身の姿勢で、軋轢を避けていた。
家族や小さなコミュニティの中で、自分の意志、自分の考え、価値観などなく、ただ無難に、穏便に過ごすことを繰り返すうち、社会的な立場に必要な責任感とは程遠い、波風立てない無難にあいまいに過ごしてきたと思う。

 主体的でありたい自分の価値観をしっかり持ちキリっと颯爽と生きていると勘違いだったのかもと気がつく出来事がおこった。。
カウンセリングを学び、ボランティア活動のグループの代表を引き受けることになったとき、何と大きな混乱に見舞われることになったのだ。
 信頼していた仲間の一人が経理を誤魔化し大きな損害をグループに与えるという事件が起こった。
 その人は、私にいつも寄り添い、プライベートまで細かに私を支えてくれた、何の不信も抱かず信頼して全て任せっきりにしていた。金銭管理の甘さ、チェック機能が働かなくなっていたのだ。
 
 そのことが発覚した時、私は被害者だと思っていた。自分のことで他の仲間の心情に思い至る余裕がなかった。
 自分の傲慢さに気がついたのはそのずっと後のこと。
代表の立場であるにもかかわらず、グループ全体をみる視点が欠けていたことを思い知らされ恥ずかしくなった。

 主体的に生きるということは、どういうことだろうか?
自分軸? 同調圧力に屈しない? 冷静さ?
自己中心?
言葉だけがぐるぐる回っている。自分の価値観や好悪の感情に支配されるのは避けられないとも思っている。
 安っぽい善意だけでは信頼を失うことを学んだ、失敗から学ぶことは大きいということも。

終わり




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