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ふわっとギャル考察

ギャルいいっすよ

こういうメッセージがギャル側から発せられている。それについて、少しふわっと考えていきたい。きっと支離滅裂だろうが、ギャルの皆さんはこんなものを読んでいないはずなので、構わないだろう。

ギャルがいい点は、同質的なコミュニティに所属しているその感覚である。自分を貫けるとか、楽観的になれる、自己肯定感が高まるのは、コミュニティへの所属感覚による派生的な効果ではないかと思う。

ギャルピースが流行することで、ギャルは喜ぶか

ギャルピが流行ることで、ギャルは喜ぶか、答えはNOだ。ギャルピはギャル文化であり、自分たちのピースを一般的なピースと区別することで、ギャルとその他を区別し、コミュニティ内での結束を高めているからだ。

ギャルからすれば異質な人間がギャルになるわけでもないのに、自分たちのピースを行う。それはつまりコミュニティへの侵害であり、結束に綻びを作ろうとする行為だ。だから、ギャルピが流行ってもギャルは喜ばない。

参加難易度とコミュニティへの帰属意識の強さの関係

入会儀礼の実験と調べれば出てくるが、コミュニティに参加する難易度が高いと、そのコミュニティへの帰属意識が高くなることが分かっている。

ギャルにはギャル文化があり、まず見た目が特徴的でそれに合わせる必要がある。上下関係も厳しいとみちょぱやゆきぽよが言っていたのをなんとなく覚えている。つまりは出たり入ったりが容易には出来なさそうということだ。それによって、帰属意識が高くなっており、コミュニティへの所属感覚が強いのだろう。

「帰属意識 幸福度」でググり、適当に出てきた論文をちらっと見ただけだが、やはり帰属意識が高い方が主観的な幸福度は上がるようだ。

ギャルという同質性が高く、上下関係も厳しいコミュニティは反乱分子も異端者も少ないコミュニティであるのではないかと思う。それがより一層幸福度を上げているのだろう。ギャル万歳。

みんな異なった形でギャルとなればいい

国家という単位で人間は団結できなくなっている、みたいな話はまあまあ聞く。実際に僕もそうだと思う。ならば、国家をコミュニティとしてではなく、生活インフラを整える事業者のように捉え、コミュニティはギャルのように小集団となれば良いのではないだろうか。

多様性というキャッチフレーズで皆をインクルードするのではなく、多様な人間がそれぞれ隔絶したコミュニティにまとまり、コミュニティ同士は写真撮影の時にするポーズを模倣するくらいにしか干渉しない社会を目指そう。そのためにはSNSを辞めて、WEB3でコミュニティづくりをしよう。ああ、何を言っているんだろう。

幻想を再生産しよう

「ギャルいいっすよ」の中身を考えたが、ここで「ギャルいいっすよ」そのものについても考えたい。

「ギャルいいっすよ」は言霊のようなものだ。ギャルがいいかどうかは関係がない。ギャルがいいと自らの口で言うことで、それを再び脳に染み込ませる。それが目的だ。

謝罪

ギャルの皆さん、申し訳ありません。かなりネガティブな解釈でギャルを偏見の元に判断し、戯言を書き連ねてきました。本当に申し訳ありません。ギャルは純粋に最高だと思います。みちょぱもゆきぽよもゆうちゃみも最高です。

買いたい本を買うために使います!!