わたしのこと。【サラリーマン時代 ver.商社 後編というかお金の話 概要編】
こんにちは〜エリーです。
ただいま、自分史振り返りの途中です。
わたしの人生の暗黒期、サラリーマン時代のつづきをどうぞ。
なんだかんだで今のわたしのベースを作ってくれた商社時代、後編になります・・といいつつ、もはやお金の話。
・サラリーマン時代 ver.商社 後編
激務に耐えられず早々に根を上げた2016年5月以降は、担当アイテム変更に加えて調達業務自体に慣れたおかげもあり、毎日定時退社を守ることができ、サラリーマンながらもそれなりに余暇を楽しんでいたように思う。なぜかわたし以外はみな毎日のように残業をしていて、定時上がりの人はほぼいなかったのだが、とても風通しの良い職場で上司や先輩たちも人としてできていたので、文句を言われたり後ろ指を刺されるといったことは皆無だった。担当アイテムこそ違え、もちろんクロップや契約時期、炎上するような問題を抱えているかどうかで多少の誤差はあるが、わたしは就業時間内(だって毎日七時間半もあるじゃん!?長すぎ!!)に基本的に全てのTODOを終えていたのに、なぜ周りがみな残業しているのか、まるで理解できなかった。むしろ時期によってはその就業時間でさえ持て余し、ヒマで困ってしまったので、同じチームの先輩の溜まっている事務作業を手伝うなどして恩を売ったりしていた。今思い返してもなぜわたし以外があんなに残業をしていたのかよくわからないのだが、まぁ残業代を稼ぎたいといった思惑もあったのかもしれない。
唐突に金の話をするが、百貨店新入社員の初任給は額面20万4000円くらいだったと記憶している。大手商社なんかはもっと高いだろうが、当時の新卒としてはまあ標準的だったと思う。投資なんてものを知りもせず必要とも思っていなかった当時、会社の財形貯蓄に毎月5万ほど入れていたので手元に振り込まれるのは12万ほどだったが、百貨店時代を通じて実家暮らしだったため(家には一円も入れていなかったテヘペロ)、大好きなファッション業界に携わりながら毎月のようにプロパーで大量の服を買い、年イチの海外旅行に毎月の小旅行という暮らしをしていても、お金に困ることは一切なかった。地方出身者で都内に一人暮らししている同期たちが「お金がないない」と会うたびに嘆いているのを見るにつけ、「この人たちは、どうしてそんなにお金がないんだろう」「貧乏くさくていやだな」と内心思っていた。彼らがどれほどお金がなくて貧乏くさかったか、わたしは商社時代に痛いほど思い知ることになる。
さて、転職が決まると同時に会社の近くに家を借りた。親と暮らすことに限界を感じていたし、実家からは距離があり満員電車に絶対に耐えられないと思ったのもある。パリ以来、二度目の一人暮らしだった。会社は下町にあったので、押上駅徒歩五分、スカイツリーがバルコニーから足元まで見える、最高の部屋だった。築三十年手前のオンボロアパートではあったけれど、旧いものが大好きなわたしはその部屋をとても気に入っていた。今では考えられないし、当時でもほかに類を見ない破格だったが、毎月の賃料は六万円だった。その部屋を速攻で引き当てて即決したわたしは、本当にラッキーガールだったと思う。
商社に採用された時、初任給は19万4000円だった。毎月の手取りにしたら15万円ほど、ボーナスをONしたってせいぜい月20万だ。親会社から来ていた当時のクソオヤジ社長に完全に安く買い叩かれたのだが、あの時は死んでも今すぐ百貨店をやめたかったし、価格交渉するスキルも度胸もない、無知でバカな小娘だったのだから仕方がない。
既述の毎日十時まで残業していた半年間は全く気づかなかったのだが、定時上がりをするようになった途端「あれ?なんかお金がないぞ?」という状況に直面することになる。家賃に光熱費に通信費、食費を入れたって軽く十万は超えるのだから、当たり前である。毎月の収支は当然赤字、それをボーナスでなんとか補填するという極貧時代が、なんとまぁ退職するまでの四年超も続いた。我ながらよくやり遂げたなと笑える。
もう記憶があまりないのだが、大好きな服は百貨手時代の遺産でなんとかやりくりして最小限の支出に抑えたが、海外も含む年に数度の旅行は絶対に削らなかったし、推し活も始めたので(たゆーに月給注ぎ込んだときはさすがにきつかった・・)、とにかく本当に「毎月お金がない」状態だった。中産階級の商人の家にひとりっ子として生まれ、何不自由なく暮らしてきたわたしにとって、この二十代後半の極貧生活は新鮮かつ強烈な体験だった。結果として、あの経験はとても良かったと思っている。貧乏人であることの困難、社会の底辺であることの屈辱、結局お金がないとなにもできないこと、自分でなんとかしなければどうにもならないこと・・などなど「この世界で生きていくとは」の真髄を垣間見たと思う。絶対に親におんぶに抱っこの実家暮らしでは見られなかった世界だった。人間、一度は貧乏を体験しておくべきだと思っている。
こんな状態だったから、マズローの最底辺の欲求さえ満たされるはずもなく、完全に独り立ちした入社後一年半を超える頃には、わたしは完全に会社に不満を持つようになっていた。もちろん退職までの四年間に、社員ランクが低すぎることを抗議もしたし、最終的にアシスタントマネージャーの位まで上げてもらい、年収はいわゆる日本の平均年収に近い430万程度にまでなったが、わたしの不満と怒りは収まらなかった。
わたしは会社で最も責任が重くハードワークな調達部で、もちろんトラブル発生時には上司の力を借りはするが、自分の担当アイテムの業務を滞りなくこなし、残業をしている他の誰よりも効率よく仕事をしているのにも関わらず、それらのアドバンテージを会社や上司からまるで評価されていないのを感じていた。むしろ毎日定時上がりしているが故に、どちらかというともう「やる気のない社員」「期待できない社員」としてみなされていた。それ以前に、親会社の持株百%という、どう考えても親が搾取をすることしか考えられていない構造下のこの小さな子会社では、これが限界という感じだった。実際周りの給料も安かったし、調達部でも上司はもちろんわたしよりはもらっていたが、会社が公表している社員ランクの一覧を見る限り、その額もたかが知れていた。ここでさらにお金を得るには、もっと実務レベルを上げチームリーダー格に昇格して面倒なトラブルの責任を全て負う立場になるしかなかったが、それだけは絶対に御免だった。
とっくにお気付きだと思うが、こんな社員を大事にしない会社に優秀な人材が定着するはずもなく、前編で紹介したわたしが唯一尊敬に値すると思っていた外大卒のスーパーウーマンが、2018年の頭に退職してしまった。転職先は超大手のメーカーだった。非常に優秀な方だったので当然の結果だし、なぜこんな会社に何年もいたのかわからないほどで、いつか辞めてしまうんだろうなとは思っていたが、それでも存外に早く訪れた別れにわたしは大きなショックを受けた。それと同時に「やっぱり大手の親会社に入らないとダメだ」という、新卒の時から抱き続けていた想いが再燃した。彼女が辞めてしまった今、わたしがここに居続ける理由はないという気持ちが明確になった。
その頃からだったと記憶しているが、わたしが入社した2015年前後に複数名採用した若手〜中堅の優秀な社員たちが、目に見えて続々と退職し出した。そして退職するだけならまだよかったのに、精神を病んで休職してしまう人やそれにより退職せざるを得ない人が、調達部に限らず会社全体で現れ出した。社員を搾取することしか考えていない親会社と上層部が居座っていることによる歪みが、いよいよ顕在化してきたなと思った。
社員数百人超の小さな会社だったが、辞めていく人々の穴を埋めるために次々と採用活動をしていて、優秀な若手社員が次々と補填されていた。中には超大手企業を退職してうちに来てしまった東大くんもいて(どんな逸れものかと思ったが、普通に優秀)、どうしてこんな優秀な若者たちがこんな愚かな会社に騙されて、ホイホイ入ってきてしまうのだろう(わたしもか)、不思議でしょうがなかった。
ぴよぴよだったはずのわたしもいつの間にか、全社的にも調達部においても中堅のプレーヤーになっていた。スーパーウーマンだったチームリーダーを失った調達部も当然ながらマンパワー不足に陥り、相変わらず定時に帰っていたわたしにも追加で業務を受け持ってほしいという部長(この頃には、親会社からの出向には変わりないが、若手の部長に代わっていた)の依頼があった。わたしは何度も訴え続けた待遇改善を聞き入れてもらえなかった恨みつらみがあったので、「この給料ではこれ以上の仕事はしません」と丁重にお断りした。その業務が増えたところで今あるスキルが上がるような内容でもなかったので、ただ自分の負担増の未来しかなかったのである。人材の流出が止まらないなか、それなりのアイテム数を回していたわたしにまで辞められては困ると考えたのだろう、それ以上の強要はなかった。
さすがにそろそろ動くかと、コンフォートゾーンを脱する決意をし、転職活動をし始めたのは2019年に入ってからだったと思う。この転職は背水の陣ではなかったので、絶対に好条件かつ最高値で買ってくれる大手に行こうと心に決めていた。前回の外大卒という肩書きしか持っていなかった脆弱かつ超買い手優勢の転職と違って、この転職においてビジネス英語ができること、調達のノウハウを一通り把握していること、これらを得られた四年のバイヤー経験は非常に有利だった。最終的に、超大手の外資系メーカーから内定をもらうことができた。三社めで漸く、自分が心から「やっと大手に入れた」と納得できる大手だった(ここまでくると、異常な大手への執着・・)。提示された年収も600万円ほど、当時の年収からは大きな飛躍だったが「本来ならこれくらいもらえて当然」という気持ちの方が強かった。今になって思うことは、あの四年間は給料をもらいながらとはいえ、年間200万ほど授業料として会社に支払いながら、調達のノウハウを教わっていたのだと思う。それなりに高い買い物だったが、これが今のビジネスにも大きく生きているし、ひいてはわたしの未来永劫役に立つことは間違いなしなので、まあ当時の自分の選択に間違いはなかったのだろうと思っている。
この最後の大手メーカーというのが、わたしのサラリーマン人生で最大のブラックボックスだった。最悪という言葉では到底表現しきれない、最低最悪の会社で(もちろん良い人はたくさんいたが)、五ヶ月で「これは無理だ」と生命の危機を感じ、今のビジネスを副業で始めて翌年には休職、実質稼働は一年強、在職期間二年半で退職した。
サラリーマンという「当たり前の働き方」がいかに自分に合っていないか、潜在意識ではとっくに気づいていながら、それに蓋をし続けて九年間もサラリーマンを続けてしまったわたしに「おまえにそっちは無理だ!いい加減、こっちで生きる覚悟を決めろ!」と神様が多少手荒ながら導いてくれたのだと思うが、そこまでの状況に陥らなければ決断できなかった自分の自分に対する責任と罪は大きい。
最後の最後で強烈な会社を引き当ててしまったが、人生の大きな分岐点だったことに間違いはない。わたしの人生の第二幕(過去拙作ご参照)は、思ったよりも早く、唐突に終わりを迎えた。最後の会社はほとんど働いていなかったので書くこともないというか、章立てて細かく振り返ることはしないが、今のビジネスについて書くにあたり必然的に触れることになるだろうから、その時までとっておく。