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【インタビュー】絵はんこ作家 あまのさくやさん 「発信して、次の機会をつくる」就活時代から紫波町移住までの道のり

「自分が抱いた感覚が、すべて言語化されている!」

大げさではなく、心からそう感じた文章に出会ったのは、1年前のことでした。

私の祖母の住む町ということで、よく訪れていた岩手県紫波町図書館。
その”魅力” を的確に言い表していた、こちらのnoteに共感がとまらなかったのを、今でもよくおぼえています。

絵はんこ作家・紫波町の地域おこし協力隊・エッセイストなど、
多方面にわたって活動をされている、あまのさくやさん。

今回のインタビューでは、「しくじり先生」と語る就職活動のお話から、「出来なかったことをやってみる機会には恵まれている」と地域おこし協力隊3年目現在の心境まで、たっぷりとお話をうかがいました。

【あまのさくやさんのプロフィール】
絵はんこ作家・エッセイスト・チェコ親善アンバサダーなど、多種多様な活動に尽力している。2021年に、岩手県紫波町に移住。
地域おこし協力隊として、自身の生活や活動について発信することで、紫波町でどんな人たちのそばで、どんなふうに暮らしているかを伝える地域情報編集発信担当を務める。

note: https://note.com/sukimajikan
ウェブサイト: http://www.amanosakuya.com/
twitter:
 https://twitter.com/sakuhanjyo
instagram
 https://www.instagram.com/sakuhanjyo/

岩手県庁ホームページ 令和3年度地域おこし協力隊活動紹介より、一部抜粋 (URL:https://www.pref.iwate.jp/kurashikankyou/chiiki/chiikizukuri/1045630/1045642/1049950.html
)





絵はんこ作家になる人生は、「合ってない」から生まれた

―― 現在、絵はんこ作家や地域おこし協力隊をはじめとする、さまざまな活動をされている、あまのさん。就職活動は、どのように進めていましたか?

あまのさん(以下:あまの):就活はもう、しくじり先生でしかないですけどね(笑)
そもそも、大学3年生から10か月くらい、アメリカのインディアナ州に留学していて。

帰ってきたのが、4年生の5月とか。就職状況がよかった時期で、みんなもう就職が決まっていました。私だけ、「あれ?スーツって、どこで買えばいいの」とか言っていました。

就活って、みんなが一律で向かっていかなきゃいけないじゃないですか。その流れに乗るのが、元々すごく苦手なんですね。だから早く就職活動をやめたくて必死でした(笑)


―― そういった心境のなか、どんな業界を受けていましたか?

あまの:伝えるということに、すごく興味があって。大学2年のとき、「広告学校」で1年ぐらい、コピーライティングの勉強をした時期もあったんです。

大学の専攻も、幅広かったんですよね。だから、専門性で特化するというよりは、ざっくりコミュニケーションや広告に興味があるということで、広告代理店や編集プロダクションなどを受けました。

主にその2つで迷ったときに、代理店の方を選んだんです。会社の規模が大きいので、案件で結構繋がりができて。そういった繋がりはすごくよかったなと思うんですけど。

代理店は、インターネット広告の文言を考え、予算管理をして運用する仕事でした。当たり前ですが会社は利益を追求するので、広告って、対象への好みに関わらず、いかに興味を持ってもらえるか、売れるかを考える仕事じゃないですか。

ただ、そういうのがあんまり合っていなくて。自分としては、すごく好きなものとか、推しのものとかを熱弁することはできるけど、思い入れがないものを推すことがすごく下手だったんですね。


―― そもそも、広告代理店を選んだ決め手は、何でしたか?

あまの:そうですねえ。なんだったんでしょうね。オフィスが華やかだったからなのかもしれない(笑)

編集プロダクションは、いわゆる雑居ビルの一室のオフィスで本当少数精鋭って感じで。今考えたら、絶対そっちの方が性に合ってると思っているんですけど。

あと「小さい会社から大きな会社にいくのは大変だよ」という誰かのアドバイスも変に聞いてしまった気がします。編集プロダクションに行って、それがものすごく合っていたら、今もそこに勤め続けているかもしれないし。

でも結局、代理店は合ってなくて。辞めて、絵はんこ作家になっているっていう謎の人生は、そのときから生まれたような気がしますね。


「この人に何か頼めるかも」を生み出す発信

―― 絵はんこを始めたのも、広告代理店に勤めていた頃からと伺っています。

あまの:広告代理店に勤めて2年ぐらいのときに、なんかちょっと余計なことがしたくなって、軽い気持ちで始めたんですけど。

はんこは、写真をなぞって彫るところから始めたので、1から描かなくてもいいというスタートがあったから、気楽にできました。


―― 絵はんこを作る時間は、あまのさんにとってどんな時間でしたか?

あまの:やっぱり息抜きというか。作品を作るという経験って、自分はそんな習慣はなかったので。

身近な人を彫ると喜ばれるというのもあって、そういう感じで作ったり。あと、好きなアーティストの顔を彫ったりしていて。

友人にプライベートで「じゃあ、はんこワークショップやってよ」みたいに頼まれたり、休みの日にイベントに出展したりも、会社員時代から少しだけやっていました。

それは、単純にすごく楽しかったですね。会社だけだと、もう息が詰まるっていう感じだったので。やっぱり、新鮮な挑戦として面白かったですね。


―― 絵はんこ作家として活動されることは、大学生の頃は想像していなかったですか?

あまの:「シブヤ大学」というチームのボランティアを大学生のときにやっていたんですけど。周りは社会人も多くて、自由な働き方をしている人が多かったんですよね。

だから、そういう人になりたいと思っていたわけではないんですけど、そういう生き方もあるというのは、見ていたかもしれないですね。


―― やっぱり、新たな場への参加や、そういった関わりは、今の活動に繋がっていますか?

あまの:そうですね。はんこを彫り始めた頃って、SNSが生まれ始めたときだったので。日記、ブログで発信し始めたんですよね、これちょっと作ってみましたとか。そういうのを通じて、周りに認識してもらえたんですよね。

今の活動も、何かやってるということを発信して、あっじゃあこの人に何か頼めるかもって、仕事が来る。多分ずっと変わらないかもしれないですね。


―― 何かを発信して、それを見てくれた誰かからの依頼に繋がっていったんですね。

あまの:そうですね。会社員をやめて、はんこ作家として活動するときも、はんこ作家になりますって名乗るの、やっぱり気恥ずかしくて。

でも、イベントに出るときに、屋号を決めなきゃいけないんですよね。あまのさくやっていう風に出る発想は最初なくて。さくやがはんこを彫るところ、あと作るをかけて、「さくはんじょ」という屋号で始めました。

いろいろ出れるうちは出ようと思って。最初の1年はすごく出てて、その場で彫りますみたいなことをやっていたんですね。今はできないです、怖くて、そんなこと(笑)

やっていくうちに繋がりはいっぱいできましたね。継続的に会うお客さんが、そのときにできて。そのうち知り合いから「個展やってみない?」と声をかけていただいたりとか。だから、SNSの発信に加えて、実際に出て決まった話はありますね。


―― 発信して、繋がりができて、次の機会ができて。


あまの:そうですね。そういうパターンがずっとですかね。

ほんと最初は、地べたに座って、キャンプ椅子を二つ並べて、板を敷いて、そこで彫ってました。真冬でもやってましたね。よくできたなー。今はできない(笑)


個人的な思いが反映されたまちづくり

―― 岩手県紫波町に移住されたのも、ご友人のお誘いだったと伺っています。どういう方に誘われて、移住を決断されたんですか?

あまの:新卒時代の同期が、紫波町がすごく気に入っちゃって、家を買って定住したんです。

その人のつながりで、『いろんな生き方をしている先輩』としての講演と、絵はんこのワークショップを頼まれて。仕事で呼ばれて初めて行きました。

コロナ禍が始まって、半年目の冬で、窮屈さを感じる時期でした。紫波町に行ったら、すごく楽しそうだったんですよね。みんながやりたいことをやろうとしている感じで、自分のプロジェクトをやっている人の話をいろいろ聞いたりして。

紫波町は、オガールという複合商業施設があるんですけど。

オガールは、岡崎さんという方がぐいっと引っ張って事業にしていて、公民連携モデルとして全国的に注目されているんですけど。

中でもバレーボールでのまちづくりを推進していて、(オガールに)バレーボール専用のコートがあったり。それって、岡崎さんがバレーボールをずっとやっていたからなんですよね。

個人的な思いがまちづくりに反映されているところ、私はあんまり知らなかったので。それってすごいなって思ったんですよね。町を変えよう!と息巻くまでは思わないけど、人にちょっと影響を与えることができるなという感覚は、やっぱり今でもあって。


―― あまのさんも、個人的な思いを持って移住を決断されたんですか?それとも、とりあえず行ってみようという感じでしたか?

あまの:移住のテンションは、行ってみようという感じかもしれない。なんか気楽な気持ちでというか。

役場の方は、(地域おこし協力隊は) 移住定住を目指す仕組みではあるから、そこはもちろんしてほしいけど、それよりも3年後にどうしたいかを聞いてくれて。もし、住まなかったらそれはご縁という感じで言ってくれていたので。一旦やってみるかみたいな感じではありましたね。


好きなことをやるのが、人生としては合っているけど

―― 紫波町に移住されてみて、いかがですか?

あまの:すごく住みやすくて、よいところだなと思っていて。だから、できるだけこちらでも仕事を作っていきたいと思っているんですけど。

実際、任期終了後に暮らしを成立させ続けられるのかというのは、まだ明言はできないんですよね。自分の事業としてもやりつつ、どこか別のところでも働きながらやるのか、自分で何かを立ち上げるのかなどは、まだ未定です。

元の仕事のつながりや友人関係、家族のことも考えると東京と行き来できるような生活をしていきたいので。そこが、どこまで担保できるかを考え中です。


―― 何かを決断される場面で、あまのさんはどのように考えを進めますか?

あまの:難しいですねー。基本的には、そのときの気持ちで選ぶしかないんですが。もう、自分に合わないのは選ばない方がいいなって、年々すごく思っているので。わざわざ苦手なものを選ぶ必要はないですよね。

今やっている仕事の中にも、向いているものと向いていないものもあるし。自分の性格上、これは好き、これは嫌いみたいに、分類しがちだったので。苦手カテゴリーの中でも、できることはもうちょっとあるんじゃないかと今、棚卸している状態かもしれません。

年齢を重ねていくと、どんどん恥ずかしくなってくるんですけどね、苦手なことに挑戦するの。車の運転のペーパードライバーだったんですが、こちらに来てから挑戦するようになりましたし。そういう意味では、出来なかったことをやってみる機会には恵まれているなと。

基本的には、「好きなことをやる」というのが、人生としては合っていると思ってはいるけど。これはやってみてもいいんじゃないかというところは、その都度考えて判断するしかないですよね。

いくつになっても決断は難しいし、「しくじり先生」をしたり、たまに成果が実を結んだりと、その繰り返しなのかもしれません(笑)



あとがき

8月9日まで、静岡県南伊豆町のゲストハウス ローカル×ローカル(以下:L2)でインターンをしていました。
今回のインタビューは、L2のオーナーであるイッテツさんのご厚意によって、あまのさんに繋いでいただき、実現したものになります。

感謝しても、しきれません。本当に、ありがとうございます。
(イッテツさんのnoteはこちらから読むことができます!)

L2に置かれていた、あまのさんの本を見て、
「実は、あまのさんが好きで…」と、イッテツさんに伝えていなかったら、今回のご縁はきっと生まれていませんでした。

そのようなご縁が繋がって、いただいたインタビューの機会。
お話を聞くなかで、とくに印象的だったのも、

「今の活動も、何かやってるということを発信して、あっじゃあこの人に何か頼めるかもって、仕事が来る。」
というお言葉でした。

縁があれば、機会も訪れるのかと思いきや、
その縁を機会につなげていくのは、なかなか簡単なことではありません。

縁も機会も、そもそも他者がいなければ存在しないものです。

「他者を大切にしているからこそ、縁も機会をめぐってくる」のだと思います。

その考えは、あまのさんが紡ぐ言葉のひとつひとつに、現れているように思います。
あまのさんの素敵なお人柄が伝わる、読むと心が軽やかになるような文章。
今回のインタビューでは、お聞きできなかったことがたくさんあると思います。あまのさんのnoteも合わせてご覧いただければ、とても嬉しいです。

この度はインタビューさせていただき、本当にありがとうございました!


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