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戦前にも存在した厨二病な人々

いつの時代も似たような奴おんねんなぁ、と感じることはないだろうか。

人間のサガは変わらないというか、結局人間は人間で同じことを古今東西問わず考えているというか・・・


それで自分が昔の人々に思いを馳せて、親近感を抱かざるを得ないのが「厨二病」的な人々だ。ここ最近自分は読書にふけり、様々な時代の生活を調べているのだがとりわけ興味を惹かれたのが戦前の雑誌文化だ。

日本の雑誌文化は70年代~80年代にかけて黄金期に入っていくという戦後サブカルチャー史もあるのだが、ここは更に時計の針を戻して戦前へとさかのぼる。


戦前といえばいわゆる大正モダンの時代が華やかだったとイメージする人も多いだろう。1920年代の銀座のオサレなモダン書店でモダンガールやモダンボーイと好みの書籍を探すなんて想像をすればワクワクするだろう。

『人間失格』で有名な太宰治が、戦前の西洋レトロなアングラ的な雰囲気のカフェで文学仲間と討論していた光景など、実際にあったかはわからないがそういうモダンな時代だった。戦争の危機感が現実にありながらも日本は大きな夢を見て新しい時代に突き進んでいく時代であり、不安と昂揚感が入り混じっていた。


その後大正時代が終わり、時代は昭和初期へと進んでいくのだが、このころにはやり始めたのが「エログロナンセンス」というジャンルだ。

雑誌も発売され、当局から取り締まられながらも、危ない橋を渡り過激な表現に取り組んでいた。そもそも戦前の人々もガチガチな時代と思いきや、わりと自由に考え行動しており今では考えられないほどカオスな人がいた。科学技術などでも実はこのころの何もない時代の人々の方が創意工夫を凝らしており、個人の人間性能のようなものでは今よりも高かった時代だ。


だからこそぶっ飛んだ変人やトガッった狂人も多く、「梅原北明」(うめはらほくめい)という人物はその中でも「戦前の厨二病」の代表格だ。

彼は規制されるからこそ規制に逆らい、何度も取り締まられながらアブナイ雑誌を出版し続け、それは一部マニアの間では有名な『グロテスク』として今も高値で取引されているようだ。

この雑誌、何が書いているかというと自分もまだ現物を読んだことが無いので詳しくは知らないが、戦前の生活を特集した本によるとだいぶド変態なことが書かれておりまさに「エログロナンセンス」そのものだ。


戦前にもこういった華やかというかアングラな文化があったというのは面白く、何が言いたいかというと「昔の雑誌ってもっと個人の趣味で自由に好き勝手やっていたよなぁ」ということだ。


前述の70年代80年代の雑誌にしても、単なる読者投稿だけで何ページもさかれており、井戸端会議、あるいは今でいうSNSのような雰囲気があった。

出版のあるべき姿というのはこういうことであって、言論という高尚な言い方から、もっとゆるやかなもの、そしてエログロナンセンスのようにとんがった挑戦的なことまで幅広い。とにかく文章や写真、絵画などで自由に好き勝手やり情報をやりとりして、そこに文壇のような空間が存在していたのがかつての雑誌文化だった。そしてそれがインターネットと呼ばれるものになり、黎明期のネットにはそういった雰囲気があった。

そういったアンダーグラウンド的な雰囲気に自分は憧憬心を抱いており、思いを馳せている。だからこそ梅原北明のグロテスクを知って感銘を受け、まさにこれこそが雑誌文化だなと再確認した。


刊行者の趣味や哲学全開で作っている雑誌の方がやはり面白いというのは現在でも共通している。

例えば出版不況に伴い女性向けファッション雑誌も以前に比べて勝ちは下がって居る。

「女性向けファッション雑誌を買わなければ時代についていけない」と考える女性層も今では少なくなっており、むしろSNS上で活躍するインフルエンサーからファッションのインスピレーションを得る時代だ。

それがなぜかと言えば、ネットの方が情報のスピードが速く、雑誌はタイムラグがあるからという理由だ。


それが前提として、そんな時代にも売れている雑誌があり、それは敏腕編集者、しかもそこそこ若い女性社長が自分の好みで作っているという雑誌でテレビ番組で取り上げられていたことを曖昧ながら覚えている。

その人が言っていたのが「今の時代雑誌は読み捨てられる。読み捨てられず、長期的に保存しておきたいような濃い内容を特集することが大事」ということであり、読者が保存しておきたくなるような独特の観点をもった雑誌が今求められている。


つまりこれは戦前の時代にあえてエログロナンセンスで厳しい規制に立ち向かっていた戦前の厨二病の人々と本質的な部分では一致する。

「付加価値」や「希少性」ということが現代では問われているが、その人にしかできない出版や執筆、特集というものが現代ではより一層問われている。なんたってこうやってnoteで誰もが発信できる時代だからだ。もはや雑誌という物は出版社に勤務して作るものではなく、こうして自分のように個人がブログやnoteで発信する時代だ。


そういう時代に何を提供できるか、そしてどういった空間を作れるかということを考えなければならないし、自分自身考えなければならない。

戦前に趣味全開でヤバイ内容を書いて、アングラでひそかな人気があったグロ雑誌のようなものでそういうダークで怪しい厨二病文化みたいなものに自分は憧れがある。

女性向けファッション雑誌で付加価値を作るというようなことは自分のジャンルではないが、改めてそういった厨二病的な物を極めたいという思いと、そして実は戦前にもそういった先駆者がいたということは自分にとって刺激にもなった。

個人が自由な雰囲気で出版している時代のむちゃくちゃな雑誌文化、それがかつては出版の世界にあった。自分自身そうやって好きに自分好みの雑誌を創刊することに憧れがあったし、『グロテスク』が今でもアングラ史で語られるように、ここもそんなものしていければいいなみたいな野心もある。

きっとそう思い立っていろんな人が文壇や画壇の世界でいろいろやっていたのが芸術の華やかかりし頃のありし日の郷愁なのだろう。

結局、いつの時代も厨二病っぽい奴はいるんだなぁと。それはきっとこれからも変わらないだろう。


面白いとおもたら銭投げてけや