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世界の終わり #6-10 メメント モリ


〈 スタッフ専用休憩室 / 破 〉



 銃声が鳴り、その場で膝を折ってしまう。
 情けない話、腰を抜かしてしまっていた。
 通路から複数の怒声と銃声が押し寄せ、扉の前に黒いジャージを着た恰幅のいい中年男性が姿を現す。
「ちくしょうッ! どうなってんだ!」
 男はぼくのほうへ歩み寄る。ぼくは銃を構える。しかし震えている指を引き金にもって行くことができなくて、気づけば眼前に男の拳が迫っていて、
「ガキがッ!」
 脳が揺れ、頬が痺れて熱を帯びた。殴られた。気づいたときには、床の上に横向きになって倒れていた。
「ここにいたのかッ、クソ! てめぇらふたりだけじゃなかったのかッ!」
 別の男が室内に入ってくる。
 姿を現したのは、がたいのいい男で、右手には銃が握られている。通路を歩いていたグールを撃ち殺したのは、この男らしい。
「おい、クソガキッ! 何人だ、お前ら何人でここにきたんだ。廊下には何人いる?」とジャージの男。
「市民団体じゃなかったのかよ! なんで銃をもってんだッ!」
「うるせぇえッ!」
「廊下のやつら誰なんだよ!」
「うるせえっていってんだろうが! だからいま、ガキに訊いてんじゃねぇか」
「あぁア?」
「馬鹿野郎、廊下を見張ってろ!」
 男たちがいい争っている。
 その間もぼくは身体を震わせ、背後では板野が嗚咽をもらしている。
 なんとかしなきゃ。助けなきゃ。ぼくが、板野を。
 今度こそ、ぼくが守ってあげなきゃ。
 銃——
 銃はどこだ?
 どこにいった?
「聞いてねぇぞこんな話ッ!」
「黙って廊下を見てろ」
「ちくしょうッ、なんなんだよ、どうなってんだよ!」
「黙れっていってんだろ! あぁあッ、くそッ、おい、ガキ、お前ら何人いるんだ? 廊下にいるやつは——おい、動くんじゃねえ!」
 男から距離を置こうとしたら再び殴られた。いや、蹴られた。蹴り飛ばされた。
 腰に走る強烈な痛みで息ができなくて、それは蹴られた箇所ではなく右の腰辺り——床の上に転がっていたなにかしらの異物が腰に食いこんだらしい。運悪く着地した場所に——いや、違う。床に転がっていたんじゃない。
 そうか。
 そうだ、そうだった。
 銃はどこかへ失くしてしまったけども、ぼくは丸腰なんかじゃない。
 腰に手を伸ばす。
 硬い物質が指に触れる。
 筒を——ベルトに括りつけていた筒を取り外す。
 男に気づかれないよう身体を捻りながらキャップを回す。
 日並沢さんから貰った野犬対策用の特殊粉末だ。そいつを男の顔めがけて、
「——!」
 筒をもった腕ごと蹴りあげられてぼくは突っ伏す。粉末が手にかかる。顔にも。少しだけ口に入った。筒は手を離れ、銃と同様にまたどこかへと。
「なにやってんだ、このクソガキッ!」男が怒鳴り、
「ど、どうした」廊下の様子を窺っていた男が振り返り、不安げな声をあげる。
「お前は廊下を見てろっていってんだろうがッ」
「み、見てるだろうが、怒鳴り声をあげるから」
「うるせえよ! いいから廊下を見てろ! あぁあッ、くそッ! おい、ガキッ! ふざけたまねするんじゃねえぞ! 起きろ! おれを見ろ!」
 腕をつかまれて引き起こされて、起こされるなり頰をはられる。薄暗い室内に星が煌めいた。腕が放される。肩口を殴られる。続けて左耳あたり。堪らず腰を曲げて頭を守る。態勢を低くすると今度は足で。腰に強烈な一撃を食らった。息がとまり、自然と身体が崩れて、丸まって、丸まった背中がデタラメに蹴られる。逃げなきゃいけないのに、男から離れなきゃいけないのに身体は動かない。動いてくれない。
「くそッ、めんどくせえな。おい、銃を貸せ」
「はあァ?」
「いいから貸せ!」
 蹴っていた男が離れて行くけれども、ぼくの願っていた展開じゃない。
 廊下を見張っていた男の手から銃が渡される。
 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。動け、動かなきゃいけない、動け、動いてくれ、銃——銃は? ぼくがもっていた銃はどこにいった? どこかにある。近くに転がっているはずなのに見つからない。あぁああ、男が、男が戻ってくる。近づいてくる。動け! 動かなきゃ! 動かなきゃ殺されてしまうのに足が、身体が、全身が硬直してしまっていて、まただ、またぼくは肝心なときになにもできない。男との距離がさらに縮まる。動け。動け、動け動け、動け! お願いだから、動いてくれ。どうして動かない? 自分の身体なのに、自分の手足なのに、どうして。どうしてぼくは、こんなにも——

「——!」

 突然、
 閃光とともに爆音が視界を激しく揺らし、
 肩を強張らせたぼくの目の前で、銃を手にもっていた男は勢いよく後方へふっ飛んだ。

「——?」

 大の字になって、男は床に崩れ落ちる。
 左眼と後頭部から大量の血が流れはじめる。
 なにが起こったのか理解できず室内を見回す。左後方からしゃっくりするような声が聞こえて、慌てて振り返る。
 板野がいる。
 銃を握り締めて。
 ぼくが見失っていた銃を握り締めて。
 呆然とした表情で。
「き、貴様ッ」
 廊下を見張っていた男が唾を飛ばして板野へと近づく。
 板野は短い悲鳴をあげて、銃を放りだしてしまう。
 あぁあ、なんてことを。板野を守らなきゃいけない。ぼくが、ぼくしかいないのに。今度こそ、ぼくが、ぼくが動いて板野を守るんだ。助けるんだ!
 動け。
 動ける。身体を起こせ。急げ。急いで立ちあがれ。息をとめる。奥歯を嚙みあわせる。肘をつく。床に肘をついた。腕に力を入れて身体を起こす。板野が悲鳴を。男が咆哮を。あぁあッ、くそッ! バランスを崩してしまう。床に伏してしまう。指になにかが触れた。触れたなにかが、床の上を転がる。
 筒だ。
 指に触れた筒が転がる。
 日並沢さんから貰った筒がすぐ目の前に。腕を伸ばして筒をつかむ。中身はまだ充分残っている。身体を捻る。身体を起こす。男——男は? 男は板野の襟首をつかみ、強引に立たせようとしている。放せ。手を放せ。板野から離れろ。
 筒をしっかりと握った。
 振りかぶると粉が周囲を舞ったが、構わず男へ向けて投げつけた。
 大量に粉が舞う。散った白い粉末で室内を照らす光のラインが目で見えるようになる。
「く、くそッ! な、な……くそッ」
 男は目の辺りを押さえて、もう片方の手で粉を払いながら大きく蹌踉けた。当たった。狙いどおりに男の顔面に。足腰に力を入れて立ちあがる。やれ! やるんだ。ぼくはやれる。身体のあちこちからあがってくる悲鳴を無視して、足を踏みだして、それでもやっぱり痛みには勝てなくてふらついて——ちくしょうッ!
 直立の姿勢を保てない。
 仕様がなく男に向かって身体を投げだす。
 腰の辺りにしがみつく。
 ふたり揃ってバランスを崩してみっともない姿勢で床に倒れこむ。
 倒れこむなり、肩口を殴られた。左頬も。ぼくはただ男にしがみついて、しがみつく以外なにもできなくて、だけど放すわけにはいかないし、左耳辺りに強烈な衝撃が走るけど堪えるしかない。
「ふざけんなよ、ガキがァ!」
 駄目だ。放してしまった。床に頬がつく。床はひんやりしていて、身体は馬鹿みたいに熱くて、目の前には銃——銃? 銃が。男たちの手を離れた銃が目の前に!
 手を伸ばせ。銃を手に取れ。ここで終わらせる。いい加減もう終わらせてやる! つかめ——つかんだ! グリップを握る。引き金に触れたつもりはなかったのに暴発させてしまって凄まじい音が室内に鳴り響く。
 男へ目を向ける。身体を捻って銃口も向ける。
 男は大きく両目を見開いて、硬直していた。そりゃそうだ。そうでないと困る。
「ま、待て。待てよ、おい、ま、ま、待てよ、なあ」
 再び轟音。
 撃つつもりなんてなかったんだけど、またもや暴発させてしまった。
 火薬臭い。
 腕が痛い。
 耳も痛くて男がなにかいっているのに、なにをいっているのか聞き取れない。
「…………」
 男はかぶりを振る。両手のひらを見せて激しく横に振る。
 なにやら必死にいっているのだが、ぜんぜんわからない。聞き取れない。ぼくは口を大きく開けて、咆吼して、足を動かす。終わり。終わりだ。終わらせるんだ。

 ここで終わらせてやる!

 男は這うように後退し、出入り口の扉へ向けて駆けだした。
「…………!」多分、罵声を吐いている。表情をみればわかる。睨みつけて唾を飛ばしている。逃がすものか。絶対に逃してなるものか。男は廊下へでた。でた直後にバランスを崩し——
「え?」
 男は倒れた。見えないハンマーで殴られたかのように、突然横向きに倒れて、床の上でバウンドした。
 腹部を手で押さえ、押さえた指の間から暗い色の血が滲みだす。
「…………?」
 撃たれた?
 撃たれたのか?
 そうだ、撃たれた——撃たれたんだ。直後にオレンジ色した通路の壁で影が揺らめき、大声とわかる誰かの声が耳鳴り越しに聞こえてきて、影は大きくなり、大きく揺れ、誰かが通路を駆けてきているとわかり、すぐそばまで近づいているとわかり、
「…………?」
 ぼくは名を呼ばれた。白石、と。呼びかけの声を聞き取れた。
 板野の名前も呼ばれている。床へ投げだしてしまっていた銃を拾おうと両手を伸ばして、伸ばした手が馬鹿みたいに震えているのを目にして情けなくなってしまって、それでも早く、早く銃を——と銃に触れ、触れたところで通路からもれる光が遮られたので出入り口に誰かが立ったのだと悟り、おずおずと顔をあげる。
 目があった。
 見覚えのある顔の男性と、目が——
「ふたりとも無事か? 怪我はしてないか?」
「あ……あ、あの」
 すぐには思いだせなかったけど、車が故障したときに出会った捜査官だった。
 ややあってもうひとり、銃を手にした体格のいい捜査官と思われる人が室内に入ってきて、膝を抱えて震えている板野の元へと駆け寄り、肩に手を触れた。
 遅れて三人目の人物が扉の向こう側から姿を現す。荒木だ。荒木だった。荒木は左腕をだらりとさげて、ぼくをまっすぐ見つめ、なぜか笑っていた。顔を顰めて笑っていた。
 捜査官の差しだした手を握り締めて、ぼくは立ちあがる。
 助かった。助かったんだ。最悪の危機からぼくらは脱することができたんだ。
「もう大丈夫。歩けるか?」
 聞き取りづらかったけど、捜査官からの問いに頷いて返した。膝が馬鹿みたいに笑っていて、歩けるような状況ではないように思えたけど、右と左の足を交互に前へだした。
 うしろから板野の咽せている声が聞こえる。
 板野——板野に、ぼくはまたもや助けられた。彼女が銃を手に取り、銃でジャージ姿の男を撃ってくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
 本来ならぼくが彼女を救うべき立場にあったというのに、まただ、また助けられた。
 助けられてばっかりだ。
「歩けるか?」
 再度問われ、ぼくは頷く。
 歩ける。歩けている。歩いているけど、自分の足じゃないみたいで妙な感じだ。
 扉を通りすぎると、オレンジ色に染まった通路には嫌な臭いが充満していた。
 床の上には目をそむけたくなるような遺体が幾つも横たわっていて、嘔吐しそうになる。早く。一秒でも早くこの場から立ち去りたい思いで、喉元までせりあがってきていた吐き気をなんとか押しとどめて歩を進める。
「気をつけろ、白石」
 うしろをついてきている荒木に声をかけられた。
 足元に気をつけろといってくれているんだろうけど、返答する余裕なんてない。
 だけど言葉を返すべきだろう——って思うものの、やっぱり喉を震わせることができない。
 ありがとう。
 助けにきてくれて本当にありがとう。
 頭の中では何度も何度も反復。

 あとで、いおう。
 あとでいえばいいんだ。
 何度だっていえる。
 何度もいえるじゃないか。ありがとう——と、荒木に何度でも。

「白石、大丈夫か?」
 通路を進み、ただひたすらに進み、鼻腔に満ちていた鉄の臭いが薄まってきたように感じたころ、ぼくは突然、宙に浮く。

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