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ねないこだれだ (5)


【 8 】

 受け答えで気をつけなければならない点が、いくつかある。
 遼の死を知らされる前に、遼に関する事柄を過去形で話してはいけない。犯人視点で物語が進行する刑事ドラマで度々目にするこのミスを犯してしまったら致命的だ。
 死んだと聞かされてすぐに殺人と結びつけるのもよくない。事故死や病死、災害関連死と、死に至る要因には様々なケースがあるので、まずはなにがあったかを尋ねるのが正解だろう。犯人しか知り得ぬ情報を口にしないよう熟慮して話すのは当然だが、嘘に嘘を重ねて泥沼にはまってしまうのを避けるべく、真実を話してしまうのもひとつの手ではある。ただし、どこまで包み隠さず話すかの判断は難しい。
 その点、わたしは警察からの電話に上手く対応できたと思っている。
 動揺する哀れな被害者家族として受けとめられたはずだ。
 もうすぐ久慈という警察官がわたしを迎えにくる。久慈と電話で話した際、遼の遺体確認をお願いしたいので安置所まで同乗してほしいと言われたのだ。安置所の場所を教えてくれれば出向いたのに、どうしてわざわざ迎えにくるのだろう。わたしに気を使ってのことだろうか。そう思ったけれども、「お願いします」と答えて到着を待っている。
 八時少し前にインターフォンが鳴った。「すぐに行きます」上着の襟を整えながらわたしは答えたが、訊きたいことがあるのでオートロックの扉を開けてくれと頼まれた。嫌な予感がした。しかし断る理由がない。わたしは了承して扉のロックを解除した。
 モニターに映った中年男性は微笑んで返した。男性のうしろにはもうひとり、ストライプのネクタイをしめた若い男性が立っていた。

「久慈と申します。朝の早い時間から申しわけありません」
 身分証を見せて口角をあげた久慈は、ヨレたグレーのレインコートを着ていた。警察官らしからぬ格好は俳優のピーター・フォークを連想させたが、顔は見紛うことなき日本人である。歳はおそらく四〇前後。左目のしたに小さなほくろがあって、顎鬚が疎らに伸びていた。
「お好きなんですか」
「はい?」
「奥さんが集めていらっしゃるのでは?」
「わたしが?」
 なにを尋ねられているのかわからなかったが、久慈が靴箱のうえを指差して、ようやく理解することができた。
「わたしではなく、子どもです。息子のトウマが集めているんです」
「本来、お風呂に浮かべて遊ぶ玩具ですよね? 普通はもう少し大きいサイズではありませんか? こういった玩具は、小さい子どもが誤飲してしまうおそれがありますし」
「え、えぇ……」胸騒ぎがした。妙だ。なぜだろう。なぜいまこのタイミングで、玄関に並べて飾っているラバーダックのことを尋ねる?「そう……でしょうけど、うちの子は春から六年生ですので」
「あぁあ。でしたら、誤飲の心配はありませんね」久慈は顎に親指をあてて、短い鬚を指の腹で撫でた。「いつから集めているのです?」
「いつって……さぁ。集めはじめたのは最近ですが」
「ご主人がでていかれたあとからでしょうか」
「はい?」
「別居されているそうですね。こちらを訪ねる前に、ご主人の実家を訪ねまして、となりに住んでいる夫婦から聞いたんです。ご主人は半年ほど前から実家に戻られたと……えぇっと、隣人の名前、なんていったかな」
 久慈はポケットの中から縦開きの手帳を取りだした。遼の実家を訪ねたということは、遼の所持品に、実家の住所が記されたものがあったのだろう。たとえば、公共料金の領収書とか。遼の実家はこのマンションから車で一〇分ほどの距離にある。一戸建てではあるが、祖父の代に建てた家なので傷みが激しく、遼の両親が亡くなってからはずっと空き家だった。遼が戻るまでは。
「あぁ、あった。東堂さんですね。東堂夫妻。一昨年まで小学校の教員をされてたそうですよ。えぇっと、どこかに書きとめていたんですけど。あった。会崎小学校か。会崎小はとなりの校区でしたっけ。ところで、お子さん――トウマくんでした? トウマくんはいま、お部屋に?」
「はい。あの、まだ寝ていますけど」
 久慈の視線が玄関に並んだ靴へ向いた。わたしのものが二足。トウマのものが一足。昨夜、わたしが履いて帰ったクロックスはここにはなく、入浴時に洗ってバスルームに置いている。無意識にバスルームの扉へと目を向けていたので、慌てて久慈の表情を窺った。久慈は廊下に立っている若い警察官の男性へ顔を向けて、なにやら目で合図を送っていた。手のひらに汗が滲む。不安で仕様がなくなってきた。
「すみません。訊きたいことってなんですか。インターフォンで話したときに、訊きたいことがあるっておっしゃっていましたよね?」
「えぇ。ありましたが……お尋ねする必要はなくなったみたいです」
「なくなった?」
「実はですね。あぁあ、そうだ。その前に。ひとつお訊きしたいのですが、ご主人はこちらのマンションによく来られるのですか」
「い、いえ」なぜそのような質問をするのだろう。関係者への事情聴取と言うよりも取り調べのようだ。妙だ。やはりおかしい。わたしを訪ねてきた理由は遺体の確認であったはずなのに、失念してしまっているとしか思えない。「監護権やいろいろな取り決めが纏まるまでは、出入りしない約束でしたので」
 実際のところ、遼は一昨日の夜に訪ねてきた。駐輪場の柵をこえて敷地内に侵入し、いま久慈が立っている玄関までやってきた。
「では、最近はまったく訪れてないと?」
「最近は……」待て。考えろ。よく考えて答えるべきだ。もしかすると、久慈は知っているのかもしれない。遼が訪ねてきたことを知っているのに、知らないふりをしているのかもしれない。ここに来ることを遼は誰かに話していた? まさか。目的は金の無心だったのだから、誰かに話していたとは考え難い。マンションへの出入りも正面の扉を使っていないので、エントランスに設置された防犯カメラには映って――「あ、あの。一昨日。実は一昨日の夜に、訪ねてきました」
「一昨日ですか」
 偽らずに真実を話した。遼がマンションの防犯カメラに映っていた可能性が高いことに気がついたからだ。遼は駐輪場の柵をこえて侵入したと言っていたが、帰りはエントランスを通って正面の扉からでたに違いない。内側から扉は難なく開くことができるのだから。
 危ないところだった。わたしはいらぬ嘘をつき、窮地に陥るところだった。
 遼が訪ねてきた時間とその理由を正直に話すと、久慈は手帳を睨みつけてボールペンを走らせた。遼に渡した金額は五千円だが、五万円と言っておいた。所持金が多いほうがアミューズメント施設で強盗にあったという話の信憑性が増すだろうと思って。
「どうも。参考になりました。念のためにカメラの映像で確認しておきます。それでは、準備がよろしければご一緒に――」
「ま、待ってください」部屋をあとにする素振りをみせた久慈に、たまらず声をかけた。なにを訊きたくて部屋まできたというのだ。真意の掴めぬいくつかの問いの中で、久慈はなにか見つけだしたのだろうか。それとなく問い質してみると、久慈は不機嫌そうに眉をしかめて口を噤んだ。
「…………」不安になる。不安でどうしようもなくなる。
 再度問おうと口を開きかけたところで、久慈は顔をあげて、わたしを見た。ため息をつくように鼻から息を吐き、口を開く。
「申しあげにくいのですが、発見された遺体は、ご主人で間違いないと思われます。こちらにあるものとよく似たものが、現場で見つかっていますので」
「……同じ?」
 音を載せない声で問い返すと、久慈は靴箱のうえに並んだラバーダックを指差した。
遺体の口の中から見つかったんです。これとよく似たアヒルの玩具が」


【 9 】

 安置所で遺体を確認し、遼であることを久慈へと伝えた。久慈とはその場で別れたが、入れ替わりで声をかけてきた女性警察官の車に乗って場所を移動し、嫌になるくらい沢山の質問をされた。ただし、時間の経過とともに抱いていた不安は薄れていった。わたしへ疑惑の目が向いていないことがわかったからだ。
 女性警察官は、アミューズメント施設周辺で暴行・恐喝事件が頻発していると教えてくれた。被害者の中には、要求を断ることができずに、家から一〇万円もの大金を持ちだした少年もいたそうだ。胸が痛くなる話だが、それはわたしの選択が正しかったことを証明してくれる嬉しい話でもあった。殺害場所がアミューズメント施設の敷地内でなかったら、捜査の方針はまるで違っていただろう。
 そうなってくると問題はひとつだった。遼の口内で見つかったというラバーダックだ。
 遼が絶命したかどうかは念入りに確認したし、立ち去る前にポケットの中身をくまなく調べたので、なぜ口内に入っていたかは考えるまでもない。遼が自ら入れたのだ。息絶える寸前に。思い返してみれば、顔を覆い隠すような格好をしていた――最後に目にした遼は。
 おそらく、ダイイングメッセージのつもりだったのだろう。
 口の中からありえないものが発見されれば、当然警察は注目して徹底的に捜査するはずである。前日にマンションを訪れた際、遼がなにを思ってラバーダックをポケットの中に忍ばせたのかはわからないが、事件当夜も同じ上着を着ていたおかげで、わたしを指し示すメッセージとして使用することができたわけだ。だが、そのことに気づけたのはわたしだからだ。わたしが遼を殺したからだ。事件の真相を知らぬ第三者が、ラバーダックの意味を〝わたしが犯人であることを示すダイイングメッセージ〟と解釈する可能性は低いように思う。きっとそう。そう願う。万が一に備えて、わたしにとって都合のいいなにかしらの解釈を考えておくつもりではいるけれども。
「そんなに自分を責めずに――どうぞ、思いつめないでください」
 別れ際、女性警察官はそう言ってくれた。

 わたしが被害者の家族であることに偽りはないので、帰宅後は被害者の家族としてするべきことを粛々と進めた。職場とトウマの通う小学校に事情を説明し、葬儀屋へ連絡。死亡届の提出には死体検案書が必要と聞いたので警察からの連絡を待った。トウマは部屋に引きこもっているが、そのうちなにもなかったようにでてきて、これまでと変わらぬ笑顔を見せてくれるだろう。なにしろ遼の振るう暴力から永久に逃れることができたのだから。
 ひととおりするべきことが片付いてから、炊事・洗濯にとりかかった。犯行に及んだ日の夕方にスーパーへ寄って以降、まったく買い物をしていなかったが、ありあわせの食材で中華風の料理が作れた。洗濯機に入れていた衣服は犯行時に着ていたものだったので、無駄と思いつつも二度洗濯した。黒のスノボウェアとマフラーは、もったいないけれども処分する。運よく今日はゴミの回収日だ。
 陽が沈んでから、やりそこなっていた一万円札五枚の処理をしようと考えて外出した。五万円使い切る必要はなく、遼の指紋が残ったお札が手元から失せればいい。
 わたしはまず近所のコンビニに行って、明日の朝食用のパンをカゴに入れた。そこではたと気がついた。たかが指紋である。指紋など、布で拭いてしまえば消えてなくなるじゃないか、と。こんな単純な解決方法にどうしていままで気づかなかったのだろう――自分の間抜けさが可笑しくなって顔が綻んでしまう一方で、計画通り完璧にこなしたと思っていた自信が揺らぎだして、不安に苛まれた。財布の中から千円札を一枚抜いて、会計をすませて、急ぎ足で帰宅した。

 わたしはきっとなにかを見落としている。
 指紋を消去することすら思いつかない精神状態だったのだ。考えろ。よく考えてみろ。絶対になにか見落としている。自分にそう言い聞かせながら、リビングのテーブルに並べて置いた一万円札を一枚、一枚、丁寧にハンカチとウェットシートで拭いた。一緒に入れていた千円札に指紋がうつっていたりしないだろうか――そんな馬鹿なことがあるかと笑って誤摩化しつつも、所持するすべてのお札をテーブルのうえに並べて丁寧に拭いた。財布の内側も、念のために丁寧に。
 五枚の一万円札を眺めつつ考える。数枚の千円札を眺めつつ考える。なにか気になる。なにか引っかかっている。考えろ。考えろ考えろとしつこいくらい自分に言い聞かせてみたが、思いあたる事柄はなく、上手く処理してきた事項ばかりが思い浮かんではすぐに消えた。


〈つづく〉

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