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善き羊飼いの教会 #5-3 金曜日

〈樫緒科学捜査研究所〉


     * * *

 ロックを解除したつもりが、逆に施錠されてしまって、扉は開かなかった。再度鍵穴にキーを差し、スルガはおそるおそる樫緒科学捜査研究所の扉を開いた。
「……なんだ。誰がいるのかと思ったら、所長ですか。それに森村さんも」
 所内にいたふたりの顔を見遣ってスルガが安堵の声をもらすと、作業台のそばに立っていた樫緒由加利が首をすくめて、不機嫌そうな表情をみせた。
「なんだ、じゃないでしょ。予定と約束をキャンセルして帰ってきたのよ。聴取は終わったの? それともこれから?」
「終えたところです。すみません、ご心配をおかけしてしまって」
 頭を下げるスルガを横目で見て森村が鼻を鳴らす。作業台に寄せた椅子に腰掛けている森村の前にはケージが置かれており、ケージの中ではハムスターが忙しなくホイールを回していた。
「詳しい話は森村さんから聞いたわ。電話で金子さんからも。忠告したのに、イチイのために動き回っていたようね」
「イチイさんのため……は、最初だけです。途中からぼく自身の意思で。驕(おご)りで行動していました」スルガは後ろ手に扉を閉めて再び頭を下げた。先ほどよりも深く。時間は、倍以上長く。「本当にすみませんでした。森村さんにもご迷惑をおかけしました」
「なんのことだ?」
「廃屋に入って現場を汚染したことや、遺留品を勝手にもちだしたことなど。筒鳥署では、手酷く油を絞られてきました」
「……あァあ。そういえば鑑識の北川が吠えてたな。汚染の件に関してはおれも同罪だよ。藤崎里香を見つけた際に、室内を踏み荒らしちまったからな。にしても、イチイ、イチイって、みんなあいつのことを神格化しすぎだろ。署内にも傾倒してるやつが少なからずいるしよォ」
「イチイさんがどれだけの事件を解決へ導いたかを考えれば――いえ、すみません」反省の弁を述べた早々に、イチイのことを褒めようとしたスルガは慌てて口を噤み、樫緒由加利の表情を窺った。
「ま、たしかに、イチイは犯人逮捕に貢献してくれてはいるが、〝式〟なしで〝解答〟だけを提示するようなやりかたは危うくて仕様がねえよ。運よく毎回真相をいいあててはいるが、や、普通、あそこまであてるようなやつは、褒められるよりも恐れられて、避けられそうなものだけどな。それなのに傾倒している署内のやつらも、お前も、柊シュリ……だったか? 彼女も心酔しちまってるんだろ。ったく。悪魔に魂を売って能力を手に入れたって話は本当なんじゃねえのか」
「悪魔って、え、なんですかそれ」
「人を魅了する力があるっていうだろ、悪魔には」
「それって吸血鬼では?」
「あ? どっちも似たようなものじゃねぇか」
「ぜんぜん違いますよ」
「うるせえなあ。ったく、聞いたことあるだろ。イチイの能力は悪魔との契約で手に入れたって噂話をよォ」森村は眉根を寄せて、鼻から息を抜いた。「ま、ふざけた話ではあるが、どちらかというとそっち側だろ。イチイは神様よりも悪魔の側寄りじゃねえか」
「なんなの、それ」長く口を噤んでいた樫緒由加利が呆れた様子の声をもらし、「馬鹿げた噂話が飛び交ってるのね」手にもったマグカップを唇に近づけた。
「はじめて聞きますよ、そんな話。悪魔が人を救いますか? 救いませんよね? イチイさんは多くの事件関係者を救っているんですよ。ぼくだってイチイさんに救われたひとりなんですから。こうしてぼくが復帰できているのは――」
「違うんじゃない?」ここで、スルガの話を遮るように樫緒由加利が口を挟み、「イチイのおかげといいたいんだろうけど、それは違うんじゃないの?」優しい声で問いかけながらマグカップを作業台の上へ置く。「復帰できたのは、スルガくん自身の功績。スルガくんのとった行動と意思によるものよ。柊さんを見ればよくわかるでしょ。彼女もスルガくんと同じように長いこと思い悩んで塞いでいたようだしね。イチイはただ切っ掛けを与えただけ。そもそも、イチイは誰かを救えるような、できた人間じゃないからね?」
「そんなことは――」ない、と続けるつもりが、
「ははは。たしかにな」森村の笑い声で発言は遮られた。「イチイから探偵としての能力を取り去ったら、しょうもないものしか残らなさそうだもんなあ。あいつの好きな廃墟と同様、朽ちるか取り壊されるのを待つしかなさそうだ」
「一応、わたしの弟なんですけど」感情をのせずに樫緒由加利がいい、暴言がすぎたと気づいた森村が、バツが悪そうに視線をそらす。
 十秒ほどの間をあけたのちに、樫緒由加利は投げやりな口調で言葉を継いだ。「ところでスルガくん、どうして研究所に立ち寄ったの?」
「どうしてって……」ハムスターを研究所に放置していたことを思いだして慌てて駆けつけたというのが真相であったが、手落ちを責められることを避けたくて、スルガは意図的に話をそらす。「そういえば、筒鳥署は相当バタバタしていましたけど、いいんですか森村さん、ゆっくりお茶なんか飲んでいても」
「ったく、このタイミングでそういうことをいうかねえ」
「まさかとは思いますが、さぼる目的できているとか?」
「馬鹿いうな。そんなわけねぇだろ。仕事だよ、仕事」
「あれ。森村さん、柊さんへのお願いできたんだから、仕事できたわけではありませんよね?」
「ち、ちょっと」森村は焦った声をあげ、横から口を挟んだ樫緒由加利へかぶりを振りながら抗議した。「やめてくださいよ、樫緒さん」
「なんですか、なんの話です?」スルガが身を乗りだして問い、
「柊さんにお願いしてもらいたいことがあって、わたしを訪ねたのよ」
「樫緒さんッ!」樫緒由加利の回答に対して森村は声を荒げ、耳のうしろを掻きむしった。
「いいじゃないですか別に。アカリちゃんのライブ映像を収めたDVDを、柊さんがもっているらしくてね、それをわたし経由で借りられないものかって相談にきたのよ。ね? 森村さん」
「…………」
「ですよね、森村さん?」声のトーンを若干あげて、樫緒由加利は繰り返した。いましがた弟を蔑まれたことへの復讐であるかのように、樫緒由加利は腰掛けている森村を見下ろして意地悪く微笑む。
「あ、あの……」驚きと笑みの入り混じった表情を浮かべて、スルガはふたりの顔を交互に見遣った。「森村さんって、〈フレグランス〉のファンだったんです?」
「そうよ。知らなかった?」樫緒由加利が素っ気なく答え、
「ったく……」顔をしかめて頭頂部をくしゃくしゃに掻き、掻きに掻きに掻きまくって、森村は声を荒らげた。「ああァ、そうだよ! 悪いか。ファンだったら悪いのかよ。っていうか、なに暴露してくれてるんですか、樫緒さん」
「いいじゃないですか。別に悪いことじゃありませんよ」
「そうですよ。〈フレグランス〉のファンって、森村さんくらいの年齢のかたが多いって聞きますので……でも、あの」
「おい、スルガ。お前、笑ってんじゃねえか」
「わ、笑ってません」スルガは表情を引き締めて、慌ててかぶりを振った。「ぼくも好きですよ。〈フレグランス〉の曲はたまに聴きますし。DVDを借りたいのであれば、直接柊さんに頼めばいいじゃないですか。どうして柊さんにいわないんです? いえない理由があるんですか」
「恥ずかしいんですって」樫緒由加利は唇を広げた。「妹さんのファンであるとはいい辛いんですって。あら? 動揺しすぎですよ、森村さん。音楽の趣味は、人それぞれ――」
「う、うるせえよ、ちょっと待て。待ってくださいよ」
「いいじゃないですか。好きなら好きと正直にいえばいいんじゃありません? アカリちゃんのことを性的な目で見ているわけでもあるまいし。え? えぇえ、まさか」
「お、おおい、なに馬鹿なことを!」
 大声で否定した森村にスルガはたじろいだが、樫緒由加利は逆に喜んだ様子で、さらなる口撃をはじめた。傍目には冗談を交えてからかっているように見える口撃ではあったが、森村にとっては耐え難いものであったらしく、ややあって、顔を真っ赤にした森村が反撃にでた。
「や、樫緒さんだって褒められたものじゃないでしょうが。柊シュリを研究所で雇ったのは、彼女の妹が〈フレグランス〉のメンバーだったからでしょう? 最近あちこちでよく聞きますよ、非協力的だった大学教授や、専門分野の先生方が、このところ樫緒科学捜査研究所に自ら売りこみにくるくらい調査に対して協力的になってるって話を。それってあれじゃないんですか。この研究所が、柊を利用してるってことじゃないんですか? 連中は年代的にも〈フレグランス〉を支えている層と、うまいことかぶってますからねえ」
「も、森村さんッ」慌ててスルガは割って入った。
 それまで無下に断っていた専門家が快く調査協力しはじめていることにスルガも気がついてはいたが、スルガの知る限り、樫緒由加利がそういった者たちと柊シュリとの仲介に入った場面は一度も目にしていない。
「いいのよ、スルガくん」宥めるようにいって、樫緒由加利は眉尻を下げた。「恩恵を受けているのは事実なんだから。利用しているといわれれば、そのとおり」
 所長にしては珍しくしおらしい態度だ――スルガがそう思ったのも束の間、
「ただし、森村さんがそういうことをいうのなら、わたしもいわせてもらいますけど?」
 再び火がつき、口撃がはじまる。疚しい気持ちがあるから姉には内緒にして欲しいのではないかと樫緒由加利が問い、本当にそうだったら誰にもいわずひた隠しにするだろう、と森村が反論すると、オープンにすることで快楽を得る者だっていると樫緒由加利が余計なひとことをいったものだから、森村は顔を真っ赤にして唾を飛ばしつつ否定する。
 これはまずい。このままではまずいと考えて焦ったスルガが、とりなすべく間に入るやいなやなぜか矛先が変わり、
「そういえばスルガくん、どうして立ち寄ったのか答えてないよね?」
「お前、さっきからずっとおれのこと笑ってるよな」
「今日筒鳥署で聴取を受けていたのなら、調査費の請求書、どの課宛に送ればいいのか、ちゃんと訊いてきた?」
「イチイ以外の人間は無価値なんて思ってるんじゃねえのか」
「待って、なにその顔? なにか隠してるんじゃないの? わたしの知らないところで、ほかにもなにか進めている調査があるんじゃないでしょうね」
「さっきはイチイのおかげとか、自分の功績とかいっていたが、お前や柊シュリが復帰できたのは、ここの所長が雇ってくれたからだろ。結局は――」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってくださいよ!」堪らずスルガは大声をあげて距離をとった。
 冗談じゃない。どうしてこうなる? なぜ自分が責められなければならないのか納得がいかず不満を覚えて反論しようとするものの、続ける言葉を見つけだせなくて、この場から逃げたい、立ち去りたい、と考えたところへ救いの手が――出入り口の扉が開いた
「 !」
 スルガは素早く振り返って、訪問者を見た。
「……!」
「……あ、あの」
 扉を開けた訪問者がこうべをたれる。
 スルガも頭を下げた。なぜその人物がこの場に姿を現したのか頭を働かせながらゆっくりと歩み寄り、所員として感じよく対応するために口角をあげる。
「あ、あの、すみません。お仕事中のところ。あの、お願いがあってきたんですけど」
「どう……しました?」探るように問いつつ足を動かして距離を縮め、声を張らずとも言葉が充分に届くところまで移動したところで、訪問者は突然、堰を切ったように早口で話しはじめた。
「い、いないんです。いなくなったんです。急に連絡が取れなくなってしまたんです! メッセージは送れないし、SNSのアカウントは削除されているし、お店に電話してみたら、急に辞めることになったっていわれて、それで、あの、これっておかしいですよね? なにかあったとしか思えませんよね? 急に、急にですよ? 彼女の身になにかあったんじゃないかって心配で仕様がなくて――」
「おい、誰だよ。誰なんだ?」森村が問う。
 スルガは右手をあげて訪問者に断りを入れると、億劫そうに振り返って質問に答えた。
「金子さんの、甥御さんです」

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