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世界の終わり #6-8 メメント モリ


〈 フォレストホテル 通路 〉



「二宮さん」
 ——と、自身の名を呼ばれなければ間違いなく、二宮は背後から近づき、己の口を塞いだ男へ暴力で抗っていたであろう。
「動かないでください」
 再び男が耳元で囁く。
 二宮は浅く頷き、男に対して手を放せとジェスチャーで訴えた。
 イヤホンタイプのワイヤレスヘッドセットが耳から外れて床に落ちる。
 小さな音が鳴る。
 二呼吸ほど間を置いたのちに拘束は解かれて、両者はほぼ同時に半歩ほど距離を取りあった。
 慎重に振り返って、男の顔を確認した二宮は、相手が推測していた人物と同一であったことに、ひとまず安堵した。男の名までは知らなかったが、路上で出会ったときに終始険しい表情をしていた柏樹のアシスタントで間違いない。
「きみひとりだけか?」
 尋ねると、男は口の前で人差し指を立てた。
「——声を抑えて」
 直後に、第三者の鳴らす足音が耳へ届いた。
 足音は通路の奥からではなく、トイレと隣りあわせている避難階段のほうから聞こえた。
 誰かが階段をおりてきている。
 二階から、一階へ。
 二宮は腕を伸ばして、床へ落としたヘッドセットをつかもうとしたが、手に触れたのは、使い終えてふたつに折られたトイレットペーパーの芯だった。
 周囲を見回してみるけれども、ヘッドセットは見あたらない。探している時間はないと判断した二宮は、姿勢を低く保ったまま、トイレの奥のほうへ素早く移動した。
 アシスタントの男——荒木も同様に、物音を立てぬよう、ゆっくり移動する。移動している最中(さなか)に、

「おい、いたぞ!」

 周囲の空気を激しく振動させる大声が通路に響き渡った。

「グールだ。三体いる!」

 二宮は、荒木の腕を引いて背面へ隠れさせ、銃のグリップを強く握り締めて、通路を睨みつけた。
 避難階段から射しこんでいる外光が点滅し、間を置かずしてふたりの男の影が壁へと落ちる。影の腕部分は突きだすように前へ伸びており——どうやら男のひとりは、銃を構えているらしかった。
 足音がゆっくり近づく。
 何者かは慎重に前進している。
 二宮は沸きあがってくる焦りと苛立ちを我慢して飲みこむと、荒木へ耳を塞ぐよう指示して、自身も身体を折り、両耳を押さえた。
 直後に銃声が轟き、通路の床の上を薬莢が跳ねた。

「ちくしょうッ」

 発砲した男は大声で悔しがりながら早足で進み、二宮らが潜んでいる男子トイレ前へその姿を現した——と思いきや、いきなり足をとめて、うなじのあたりを苛立たしげに掻きはじめた。
 露となった筋肉質な男性の姿を、二宮は凝視する。
 男が僅かに首を動かして視線をさげれば、目があうのは必至である。
 息をとめて、汗ばんだ手を震わせ、二宮は銃を掲げて照準を定めた。
 存在に気がつかれたら、即座に撃つつもりでいた。つもりでいたのだが——

「なにやってんだ、馬鹿野郎ッ」

 別の声が近づいてきて、二宮の目の前に、ふたり目の人物が姿を現した。
 うなじのあたりを掻いていた男の右後方に、ジャージ姿の恰幅のいい中年男性が立つ。
 中年男性は男の背を小突くと、通路の奥を指差しながら声を張りあげた。

「よく狙って撃て! 撃ち殺せ」

 続けざま複数の銃声が建物内に響き渡った。
 閃光と薬莢と火薬の臭いを撒き散らしながら、男たちは通路の奥へと向かって、ゆっくりした足取りで進んで行く。
 通路奥を歩いていた三体の人影——グールに気を取られていたためか、二宮らの存在に気づいた様子はない。二宮は腰をあげて通路へ近寄ると、壁に背をつけて銃を構えた。

「よし、よし、よおぉおおおし! 頭を狙って撃てッ。あと一体だ!」
 男性らの声の反響の仕方が変わった。
 通路の奥へとさらに歩を進めて、両者間の距離がかなり開いたらしい。
「撃て! 撃ち殺せッ!」
 怒りに充ち満ちた声と銃声を嫌悪し、耳を押さえながら振り返った二宮は、数メートル離れた場所に屈んでいる荒木の表情を窺った。
 危機的状況ながらも荒木は冷静さを保ち、次にどう動くべきか思考しているように見受けられた。
 驚きと感心を覚えつつも、広域捜査官としての勤めを全うすべく、その場に留まっているよう、ジェスチャーで指示する。
「——やったか?」残響をかきわけるようにして耳に届いてくる、中年男性の声。狭い通路内での発砲で耳をやられてしまったのか、問いかける声のボリュームは怒鳴り声のように大きい。「気をつけろ、頭だ。念のためにもう一発、頭を撃っておけ!」
 二宮は、通路へ半分ほど顔をだして、男たちを覗き見た。
 射しこむ外光によってオレンジ色に照らしだされた通路の奥に、うしろ姿が浮かびあがっている。
「あまり近寄るな」
 男たちは床に横たわるグールへ神経を奪われている様子であり、振り返って後方を確認する気配はない。
「感染しちまうぞ」
 火薬の臭いに混じって腐臭のような嫌な臭いが鼻につくようになってきた。
 二宮は一旦顔を戻して、呼吸を整え、額に滲んだ汗を拭った。
 相手との距離は約一〇メートル。二宮は視線を落として思案する——敵は二名。銃を所持しているのはひとりだけのように思える。飛びだすタイミングを間違わなければ勝算は充分ある。状況的には有利な立場にあるともいえる。問題は、いつ行動に移すかだ。
 二宮は視線をさげて周囲を見回した。二手にわかれた谷沢捜査官と連絡を取りたいところではあるが、落としてしまったヘッドセットはどこにも見あたらない。
 そんな二宮の耳へと、通路の奥から思いがけない声が飛びこんできた。


「——!」


「な……」
 二宮よりも早く、荒木が反応して声を発した。
「——くそッ」
 遅れて二宮も声を発する。策を練っているどころではなくなった。「マズい。マズいな」
 通路の奥から聞こえてきたのは、女性の嗚咽だった。
 通路へ顔をだして様子を窺うと、ふたりの男たちは警戒を露にしていた。
 嗚咽をもらしているのは柏樹のアシスタントに違いなく、最悪なことに、彼女は銃を手にした男たちが立っている通路の奥に潜んでいるらしい。
「……寄りによって、っくしょうッ!」
 躊躇してはいられない。
 二宮は床を蹴り、意を決して通路へ躍りでる。
 躍りでた——まさにそのときだった。


 ぷるるるるるるるるん♪ ぷるるるるるるるるん♪


 小馬鹿にしたような着信音が通路内に響き渡り、二宮は一瞬の隙を作ってしまった。
 音の出所は二宮がポケットに入れていた携帯端末だった。〈TABLEのドライバーのGPS電波がつかめたら端末に連絡してください——本部とのやりとりの中で、己が口にした言葉を思いだす。着信に気づかないことがないよう音量をマックスに設定していたことも同時に思いだした——が、遅かった。最悪のタイミングでの着信だった。
 着信音を聞きつけた男たちは二宮の姿を視界に捉えて、銃口を向けてくる。
「二宮さんッ!」
 荒木が駆け寄って腕を伸ばし、二宮の袖をつかむ。
 二宮は引き金を絞った。
 通路に立つ男も、ほぼ同時に発砲した。
 耳を劈くほどの銃声とともに、弾丸に押し退けられた周囲の空気が悲鳴をあげて、続けざま血飛沫が宙を舞う。
 二宮は片腕を大きくバタつかせながら倒れこみ、近くに屈んでいた荒木から腕を引っ張られて、転がるように物陰へと身を隠す。
「くそッ。最悪だ。最悪じゃないか、ちくしょうッ! おい、危ないぞ、立て、立つんだ。立って、奥のほうへ戻っ——」
 荒木へ命じるようにいっていた途中で、二宮は気づいた。
 周囲に満ちはじめている血のにおいに。
 あたりに多数点在している飛沫血痕に。
「まさか。まさか——撃たれたのか?」
 問いかけに対し、荒木は伏せていた顔をゆっくりとあげて、悔しそうに顔を顰(しか)める。

 荒木は、被弾していた。

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