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善き羊飼いの教会 #2-12 火曜日

〈柊シュリ〉


     *

「おかえり」
 帰宅したわたしを、父の声が出迎える。
 だけれどもすぐにその言葉が、わたしに向けて発したものではなかったと知る。
「なんだ、シュリか」
 父はリビングの椅子に座ってネコさんを抱き、前足の爪を切ってあげていた。目があった。父ではなく、ネコさんと。普段は父を避けて逃げ回っているのに、抱えられるとあっさり観念し、微動だにせず大人しく爪を切られている。
「ただいま」
 点けているだけのテレビから発されたバラエティ番組の笑い声が中耳に触れるのみで、意味をもった言葉は返ってこない。
 パチリ。
 爪が切られた。
 切られた爪が床の上に落ちる。
 パチリ。
「アカリは?」父に問う。
 言葉が返ってくるまでにもう一枚、爪が切られた。
「急に予定が入ったらしくてね。テーブルの上に置き手紙があったよ。母さんが車で送って行ったようだ。別に母さんじゃなくてもいいのにな。送迎してくれる人はたくさんいるだろうに」
「心配なんでしょ」
 あんなことがあったから――との言葉は飲みこんで、洗面所へ向かった。
 まだセンシティブな話題であるとわかっている。まだまだ父も、母も、もちろんアカリも引きずっているだろう。事件から半年ほどが経過しているが――〝まだ〟半年だろうか。執拗にアカリにつきまとった憎きストーカーのせいで、我が家の空気は大きく変わってしまった。
「まったく……母さんは朝から晩までアカリ、アカリと、アカリのことばかりだからなあ。なぁ、ネコさんよお」
 ドアの向こうから父の声が聞こえた。父は口を開けば母に対する愚痴ばかり。
 父は母のことばかりで、母はアカリのことばかりで、アカリは光り輝く外の世界に目を向けていて、誰ひとりわたしへ目を向けていないのだと再確認。
 ――はあ。
 溜め息がこぼれてしまったけど、悲観の溜め息じゃない。ないと思う。ビールをのんだから。そのせいだ。
「シュリはどうなんだ」
「はい?」え、なに。
「仕事。もうだいぶ慣れただろ?」声が弾んでいる。弾んでいるように聞こえた。
 わたしはハンドタオルで手を拭きつつ、リビングへと戻った。
 パチリ。
 爪を切る音。
 ネコさんは先と同様、父に抱えられていた。
「樫緒さんのところでは、DNAの鑑定なんかもやってるんだろ。すごいよな、まさかシュリがそういった仕事に就くとはなあ」
「DNA鑑定はやってないよ」なんなの、急に。「だけど成分分析はやってるよ。GC/MSっていう機械を使って物質の成分を調べるの。ほかには指紋や筆跡の鑑定とか、画像解析とか」
「CG――」
「CGじゃなくて、GC。GC/MS」
 ネコさんが膝の上から飛び降りる。爪切りが終わったのではなく、うしろ足を触られるのを嫌がって逃げだしたようだ。
「よくわかんないが、うん、すごい技術なんだろうな。よかった。それに楽しそうだし、本当によかったな」
「……なに?」
「GC、えぇと、なんだったっけ。そのなんとかいう機械を使って分析するってのは誰にでもできることじゃないんだろうし、うん、いいよ。いいんじゃないか。シュリが毎日楽しそうでなによりだ」
「楽しいとか――」そんな顔をしていたのだろうか。わたしが。父の前で?
「そりゃあ、大変なときもあるだろうけど、まさかシュリが、いや、まさかっていいかたはよくないな」
「…………」
 気遣って話しかけているのだと気がつく。
 母とアカリがいないから。
 わたししか、いないから。
 無理して、わたしの仕事の話なんてしなくてもいいのに。それも不必要に褒めたりして――褒め慣れていないから同じ言葉を繰り返し口にして……聞いているこちらが恥ずかしくなる。少しこそばゆくて、頬が緩んでしまう。
「…………」
 なにかいわなきゃ。
 言葉を返さなきゃ。
 沈黙が気まずい。
 さっきまで足元にいたネコさんは姿を消し、どこかに行ってしまった。
 沈黙が続く。わたしは立ち尽くしたまま。リビングにとどまって父と会話を続けなきゃいけないわけではないが、断りを入れてわたしから去るのは違うように思えて、それはやはり父に対して負い目があるからかなってふと思って、長い、長い長い、本当に長い期間、部屋にこもって家族に迷惑をかけてしまったことを思いだすとさらに言葉がでてこなくなって、喉の奥、胸のあたりになにか嫌なものが生じてかたちを成しはじめていることに気がつき、咳払いして体外に追いだす。
「だけど、まあ、なんというか……嬉しいんだよ。忙しそうにしているシュリを見るのは、おれも、母さんもさ」
 え?
お母さんも?」声がでた。
「当然だろ。一番喜んでるのは母さんだぞ。シュリが樫緒さんのところで働くようになって、どんなに喜んでるか」
「嘘。そんな――」
「嘘ってなんだよ。ははは。嘘なわけないだろ」父はテーブルの上に爪切りを置いて、ソファの肘掛けに手を載せた。「そりゃあ口を開けば、アカリ、アカリと、アカリのことばかりだけど、母さんがアカリに甘いのはあんなことがあったからだし。ああぁ、そうだ、そういえば樫緒さんは、瀬戸内海のほうへ行ってるんだってな。獄門島で起こった事件の捜査に違いないって、アカリがいってたよ。なんだよ、獄門島って。獄門島ってなあ……はははは。アカリの本好きはいまにはじまったことじゃないが、樫緒さんにお世話になってからは推理小説にはまったらしくてさあ、おれにも薦めてくるから参ってるよ、ほんと。でも、ま、そんな風にアカリの趣味にまで影響を与えるのも尤(もっと)もなすごい人だし、我が家の恩人だし、シュリも仕事でお世話になってるんだから、近々お礼をいいに伺わなくちゃな」
「い、いいよ、行かなくても」
 胸元に手を近づける。
 服をつかむ。
 つかんだ指に力が入る。
 駄目だ。
 顔を向けられない。
 父の顔をまっすぐ見れない。
「よくはないだろ。とくにシュリは、樫緒さんの勧めがあったから研究所に就職できたわけだろ? 母さんもアカリも会いに行きたいといっていたし、とくに母さんはしょっちゅういってるよ。シュリが職場でどんな感じなのかも気になっているみたいだからな。あぁあ、悪い意味でじゃないぞ。迷惑をかけてるんじゃないかって心配してるわけでは……いや、それもあるかな。ははは。いや、ごめん。ただ……シュリも前の職場でいろいろとあったからな」
「あ。う、うん……」
 顎を引く。
 服をつかんだ指に、手に、腕に力が入る。
 好き勝手に自由奔放に振る舞って、自分の意見こそが絶対であって、場を仕切る力がわたしには備わっているものだと信じて疑わない愚かしい性格であったがゆえに、わたしは暮らし慣れた小さな井戸から飛びだした途端に、周囲から煙たがられて、ひどく嫌われて弾圧されて立ちあがれなくなった。そしてふさぎこみ、自責に応えるように身体が痛みはじめて、動けなくなって、誰とも顔をあわせず会話もせず、長く、長く、長いこと部屋にこもって、心を閉ざして、家族に多大なる迷惑をかけてしまった。
 そんなわたしなのに、
 そんなわたしだから、
 わかっていた。納得できていた。母がわたしにキツくあたるのは、それまでのわたしの行いが要因なのだと充分すぎるほどわかっているけれども、父は、どうしていま父はわたしにこんな話を――
「しかし、まあ、毎日忙しそうで。それでいて楽しそうでいいな。いいことだよ。手助けする仕事であるってのも、またいいよなあ。そういえばシュリは昔からよく人助けしてたよな。小学生のころとか、近所の年下の子供たちを連れてさあ。シュリが一番年上だったからリーダーシップをとって、公園前の養護ホームを訪ねて、お手伝いしたりとかさ」
「うん、まあ、そんなこともあったけど……」
 父がわたしの前で、わたしについて、こんなにもたくさん喋っているのが不思議に思えて仕様がなくて、現実っぽくなくて、受け入れ難くって――いや、そうじゃない。そんなことはないんだけど、くすぐったくて、それでいて苦しくて。馴れないことだから。嬉しくはあるもののそれ以上に申しわけない気持ちが皮膚から滲みでてくるような感じで毛穴を閉じるべく肩を窄(すぼ)めて服をつかんだ指に力を入れ――息苦しい。

 ――シュリ。
 シュリ?

 わたしはわたし自身に問う。

 父は、母しか見ていないものだと思っていた。
 母は、アカリしか見ていないものだと思っていた。
 だけれども見ていてくれたのだ。父も、母も、ちゃんとわたしのことを。

 じゃあ、わたしは?

 わたしは見ていただろうか。家族にきちんと目を向けていただろうか。
 目を向けようとしていただろうか。

「どうした、シュリ。目、充血してないか?」
「え? そ、そう? そうかな。たぶん――」
 アルコールをのんだせいだろう、と返答。
 父は、そうか、といって頷き、わずかに腰を浮かせてソファに浅く座り直した。
 言葉を継ぐ。わたしではなく、父が。
「いまどんなことやってるんだ? やっぱり、あれか。守秘義務ってやつがあるから、仕事内容は喋れないのか」
「それは……依頼の内容にもよるけど……いまは、あの、人探し」
 震えそうになった声を必死で抑えた。
 たぶん父は気づいていない。
 うまく抑えられたかと思うから。
 目頭を指で押す。ほんの少し酔っていて眠そうな演技をしながら。
「家出か?」
「ううん。違うと思う。詳しいことはまだわかんないんだけど、筒鳥大学の学生が行方不明になっててね」
「まさかあの事件のような話じゃないだろうな。ほら、九州で起こった――」
「未成年の拉致監禁事件でしょ」似たケースの事件である可能性がなくもない――とはいわずに表情を繕(つくろ)う。いらぬ推量を口にして、不安にさせる必要はない。わたしは背筋を伸ばして、半歩ほど父の座るソファへ近づく。「違うよ。似たような事件が日本のあちこちで立て続けに起こるとは考え難いでしょ?」
「あああ。そうだよな。あんな凄惨な事件は、そうそう起こるものじゃないよな」
「うん。ただし、いなくなっている学生さんがトラブルに巻きこまれていた節はあって、保身で姿をくらませたとも考えられるから、話を聞いてまわってるの。最近帰りが遅いのはそのせい」
「大丈夫なのか、トラブルって。シュリが聞いてまわってるのも危ないことなんじゃないのか? まさか、また〝あのとき〟みたいに、自分を顧みず――」
「平気よ。知人やバイト先の人から話を聞いているだけだから」
 ネコさんが右足にぶつかってきた。身体をこすりつけながらとおりすぎて行ったと思いきや、すぐに戻ってきてわたしの足を踏み、また去って行く。
「危なくないのなら、まあ、いいが……そうか、聞きこみか。聞きこみなら、まあ、ないだろうな。〝あのとき〟みたいなことは」
「ないよ」父のいう〝あのとき〟とは、アカリに危害を加えようとしたストーカー犯を逮捕したときのことだ。逮捕といっても、わたしが捕まえたわけではないけれども。「聞いてまわってるだけだから」
「聞いて、まわって……そうか。なんだか探偵みたいだな。探偵……探偵かあ」父の表情に感心している様子が見て取れるのは、頭の片隅にイチイさんが浮かんでいるからに違いない。ストーカー被害で苦しんでいたアカリを救いだした名探偵、樫緒イチイの姿が。
「大事なのよ、関係者に会いに行って、話を聞くのって」
「だよなあ。すごいよなあ」
「ま、まあ……うん」
「すごいことだよ」
「そ、そうかな」
 本当は心配しているのだろうが、イチイさんのことがあるから非難しないのだと思う。受け入れているのだと思う。感心した様子を見せているのだろうと思うけれども、どこかでちょっと本心から〝すごい〟といってくれているんじゃないかなって思ってしまって、わたしのことを認めてくれているんだなって考えもほんの少しだけど頭をよぎってしまって、話しているうちにだんだん口が滑らかになってきて、わたしはだんだん饒舌になる。父を相手に。父がわたしを見てくれているから。見てくれていたことを知ってしまったから。
 調査を進めていく上で重要なのは、関係者ひとりひとりの〝人となり〟をつかんでおくこと――との言葉を、さも自分の言葉であるかのように語って聞かせて得意満面になるわたし。いけない。調子に乗っちゃいけない。また昔みたいに、前の職場にいられなくなったときみたいに偉そうな口をきいてしまうけれども、駄目だ。とめられない。だけど、ちょっとなら、ちょっとくらいならいいんじゃないかって思えて、こんなにも楽しそうにわたしを見てくれているから、わたしの話を聞いてくれているから、父に向けていう言葉がとまらなくて。
 悪いことじゃない。
 そうだ。決して悪いことじゃない。
 わたしが話せば話すほど父の表情は綻んでいく。笑ってくれる。安心してくれている。わたしも幸せな気持ちになっていく。それなのにどうして抑制する必要がある?
 わたしは話した。
 得意げに話し続けた。

 それから――どのくらいだろう? ネコさんがぶつかってきた回数でいえば四回。それとも五回だったろうか。結構長い時間わたしは父の前で喋りに喋ってリビングをあとにした。父は終始笑顔だった。その場にいなかった母も、アカリも、リビングの壁に飾られた写真の中で満面に笑みをたたえていた。
 ――ああぁ。
 ベッドに腰掛け、開いた口からゆるく息を吐きだす。
 気分がよかった。
 いつになく。
 決してビールで酔っていたからじゃない。

 調査員としての活動、二日目。
 わたしの火曜日は、気分よく終わった。

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