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ありふれたことってなんだろう


記念日に、父から母にお花を送る。
車の免許取り立ての娘が、運転スピードを出しすぎないか、助手席で優しく見守る。
父から娘にネックレスを贈る。
もしくは成長してから何かしらのプレゼントを贈り合う。


上記は全て身近で聞こえてきた話である。
それぞれ異なる家庭のエピソードだ。

私は、全部フィクションだと思っていた。

映画や本の中でしか起こらないと思っていたことが、当然の事実として行われている。ついさっきまで嘘だと思っていた。勿論、世の中の全ての事象ではないにせよ、ありふれた風景なのかもしれない。

この「ありふれた」の中にどれだけの幸福感が袋詰めされているのか、自己肯定感の翼を伸ばしてくれるのか。私には計り知れない眩しい話でショックだった。素敵すぎるなと思いながらも、実体験が乏しいので共感が難しくなってくる。私の引き出しに鍵がかかっているのではなく、引き出し自体が無いのである。大豪邸で、おしゃれな引き出しのついたインテリアを目の当たりにした気分だ。

そのせいか、仮に、自分の身に「ありふれた」幸福の雨が降って来たとしても、なぜそういったことが起きているか、文脈の背景理解すら鈍感になっている気がしてならない。これは大変失礼かもしれないことである。せめて、奇遇にも起きた事象が喜ばしいことなら、私は感謝をストレートに伝えられるようになりたい。

ここまで抽象的だが、以前、友人の結婚式に参加した際に、ご両親の優しさに驚いていたり…。周りは明らかにそんなの気にしていないし、本来見るとこ違うし。

最近だと上述然り、事実を架空の話だと完璧に思い込んでいたり。送別会の機会も増える中、世の中と自分の感覚に絶妙なズレを感じることが多い。帰路に立ち、なんとなく孤独を持ち帰って、人の話から人生を追体験すると、優しさの表し方は無限にあるのだなと思う。楽しい話は場を和ませるには大切だけれど、寄り添うことの方が寧ろ懐の深さが表れて、ロマンがあるなあと感じる。

当事者にとってはありふれたことでも、聞き手にとっては全くありふれていなかったりする。

皆の話を色々聴いてみたいな。

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