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「通知簿の所見を書く」この地道な作業について年度末に思うこと

通知簿や指導要録の季節があっという間に過ぎ、学校現場はもう来年度へまっしぐらです。『ゴールライン』=『次年度のスタートライン』……思えば、そんな仕事を繰り返してきました。ラインとラインの間に、一秒の隙間さえありません。我ながら、本当にがんばっているなあ、と思います。

さて、今回は、通知簿の所見について、書いてみようと思います。

立場上、担任の書く通知簿の所見欄を点検し、誤字脱字を修正させたり、書きぶりについて助言したりすることがあります。それを管理職が再度点検。再度直しの作業が担任を襲います。ひどい時はそのやり取りが修了式前日まで続くことがあるほどです。本当に地道な作業。よく言えば丁寧ですが、やりようによっては職場にストレスをもたらしかねない仕事です。

通知簿は、簡単に言えば、保護者や本人への連絡ですが、わたしはそれだけだとは考えていません。所見を書く作業は、担任自身の自己評価とも言えると考えています。

言うまでもなく、所見欄には字数に制限があります。その何文字かの中に何を込めるのか。一人ひとりの子ども、そして子どもの保護者が知りたがっているであろうこと(願い)は何なのか。

多くの見取りの中から、成長の証となる行動、それに至る指導や支援、本人の努力の様子を選び出す作業は、児童理解、保護者理解そのものであるとも言えます。

そしてもっと言えば、そうした理解の上に適切な指導や支援を積み重ねてきたからこそ、子どもの成長があるはず。この一連の営みは、愛情そのものなのです。

担任自身が、それぞれの子どもについて、確信をもって『これを書こう』と決める作業こそ、担任自身が行なってきた指導や支援を評価される場であると言えるでしょう。

所見に、何を書けばいいか分からない、あの子は書くことがない、などという声を聞くことがあります。わたしもかつてはそうでした。その反省の念も込め、そして我々教師は、こんなに値打ちのあることを目指して日々奮闘しているということに誇りをもちたいと思い、ここに書きました。

さあ、今日もあの子たちの顔を思い浮かべて、がんばりましょう!

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