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哲學思想日記 2024-W02 悟りについて


步いていたとき、「私道󠄁って道󠄁幅狹いよな」と思った。しかし、私道󠄁という槪󠄁念は飽󠄁くまで「私有の道󠄁」という意味しか含んでいないから、「私道󠄁は(ほぼほぼ)道󠄁幅が狹い」というのは(ア・ポステリオリな)綜合判󠄁斷。

私は私が強過󠄁ぎる。他人の他人に過󠄁ぎぬのに。

昔臺灣に行ったとき、驛構󠄁內の動畫廣吿に佐々木希が映っていたり、日本人女性は(臺灣人と比べて)化粧が濃いからわかるという話を聞いたりと、「こんなに日本って見られているんだ」と感じる經驗が多かった。

夢を見た。アリストテレスが好きかと先輩が聞いてきたので何か話をしていると、別のイケメン(先輩か後輩らしい)がじゃれてきて(?)私のほっぺを引っ張ったり唇を觸ったりする夢。

これは個人的趣味に基づく見解だが、「哲學とは槪󠄁念の明晰化である」などと一言で片付けてよい問題では無いだろう。「槪󠄁念とは何か?」「明晰とは何か?」と問うて初めて哲學は始まるのだから。

インスタはアポッローン的だ。でもツイッターはディオニューソス的かな?

デカルト哲學が當時の神學にとってどう扱われていたのか調󠄁べたい。

動物が機械なら葦も人類󠄀も機械だが、私だけは考える機械なのだ。

『ニーコマコス倫理學』の中で、アリストテレースは德を魂の性向であると規定したが、現代人は「德とは神󠄀經の性向である」と言いたくなるかもしれない。しかし、「德は神󠄀經の性向である」という文は、「ニキビは肌の狀態である」という文とは文法が異なる。

ふと感じたのだが、言語學は「人文系」の學問の中では非常に「專門用語」が多い分野ではないだろうか? まず言語學の下位分類からして、「音韻論」とか「形態論」とか「統語論」とか「語用論」とか、いきなり聞き慣れない熟語だし。文學硏究や歷史學はもちろん、社會學や心理學などでも學界全󠄁體に渡った專門用語って言語學ほど多くないと思うのだが。言語を言語によって硏究する學問の性質が莫大な專門用語を生み出すのだろうか?

2023年6月19日に私は悟りを開いた。

2023 年 6 月 19 日, 「倫理学の謎はすべて解消した」との実感が突然到来した. 私が解消させたのではなく, Fiedrich Nietzsche と Ludwig Wittgenstein の和訳を読んだことにより, あたかも数学の教科書の例題をノートに写した中学生のように, 問題の終結を「理解」できた. 『哲学思想日記 2023-W25

『哲学思想日記 2023-W25』

なお、私は、「悟り」には程󠄁度の大小があると考える。たとえば、この世の一切の謎を解決できるほど大きな悟りもあれば、特定の分野についてだけ悟るような小さな悟りもあるはずである。私は、倫理學という小さなつまらない學問(學問ですらないかもしれないが)領域の中でのみ、悟った。

また、悟りとは何か事實の發見や命題の定式化ではなく、ある種の感覺の獲得のことなのだと思う。

あのとき、18時過󠄁ぎに日本語版Wittgenstein全󠄁集の、『探究』の、言語ゲームについてのページを開いていた。それが「原因」だったのか、偶然時刻が一致したからに過󠄁ぎないのかはわからないが、言語ゲームの文字を見たときに、突然私は悟った。

「道󠄁德的善は、存在しない」と。

その直後、安心感というのか、初めて感じるほど大きな平󠄁安の氣持ち、もはや何事にも動じないような、絕對的な平󠄁靜を覺えた。

私は中學生くらいのときから約10年間、ほぼ每日、自分の考える正しさが世に行われないことに苦しむか、あるいはそもそも何が正しいのかわからずに苦しんできた(『日本文明の滅亡—または絶版と車内放送について—』等を參照)。その苦しみが、悟った瞬間に、消えた。

元々倫理學硏究者になるつもりだったのだが、このとき倫理なんて無いということを、倫理學なんて無意味だということを悟ってしまったために、どうしようかと途󠄁方に暮れた(『なぜ私は哲学をやめるのか』『哲学における私の問題意識』も參照)。

その後、なぜか「硏究職に就けないなら修士で卒業するしかないが、民間企業の就活は學部時代に經驗してうんざりしているので公務員を志望しよう」という理屈に行きつき、夏休みに地方自治體のインターンにも行った。失敗だった。何も嫌󠄁なこと(ハラスメントとか)はなかったけれど、「勝󠄁ち組」になるという小學生以來の夢が潰えたことで、もう心がボロボロになった(『2023-W32 就活の話が主』『2023-W40/41 夏休みの思い出』を參照)。


覺え書き:1600年代前󠄁半󠄁の哲學的神󠄀學は密教、後半󠄁の理神󠄀論は顯敎。

覺え書きに「延長的思惟と思惟的實體」とも書いてあったのだが、2か月半󠄁も前󠄁のことなので、何のことだかすっかり忘󠄁れてしまった。

よく考えたらなんで偏󠄁差平󠄁方を求めて「偏󠄁差絕對値」を求めないんだろう?

倫理の實存は倫理の本質に先立つ。

Lachelierという新カント主義者󠄁が氣になる。

Ludwig Wittgenstein『Tagebücher 1914-1916』1916-08-13

人が自身の意志を實行できず、むしろこの世界のあらゆる苦しみを被らねばならないと假定したとき、何が彼を幸福󠄁にさせられるのか?
この世界の苦しみが避󠄁けられないというのに、その人は一體いかにして幸福󠄁になることができるのであろうか?
まさに認󠄁識の生によって。

Ludwig Wittgenstein『Tagebücher 1914-1916』1916-08-13

2024-02-27
Image by 298246O35 from Pixabay
今日の一曲:The Chemical Brothers『Swoon』

編集途󠄁中ですが全󠄁note投稿をまとめたPDF版もあります↓

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