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日本文明の滅亡—または絶版と車内放送について—


日本文明は滅亡するし、もう滅亡している。

文化的滅亡

たとえば、和訳版プラトン全集がもう絶版になっている。さいきん図書館で借りて読んだKarl Popperの『開かれた社会とその敵』の和訳も絶版。こんなことって、文明国の言語としてありうるのだろうか?

他言語の翻訳だけではなくて、日本語で書かれた著作も5年もすればだいたい絶版になってしまう。正確には「絶版」ではなく「在庫なし再販未定」らしいが。

もちろん言語と国家は別物ではあるけれど、日本語文化圏の最盛期はおそらく1990年代くらいを峠としてもうすでに終わってしまっている。

この国の文化における唯一の希望は『ニーチェ全集』で、なんと文庫で出ている。本当にすごいことだが、どうしてニーチェ以外の哲学者や文豪の全集も文庫で出さないのだろう。文庫でなくても、高価でもいいからオンデマンド出版などで文明の火を絶やさないようにしてほしい。

そもそも、「絶版」という概念がよく理解できない。印刷というのは複製芸術の時代の賜物であるのに、どうして複製ができなくなるのだろうか。版元に隕石が投下したりしない限り複製ができない事態ってありうるのだろうか。

さらに、顧客が「買いたい」と言っているのに「もうなくなっちゃったんで売りません」と店員がいうって、どんな殿様商売なのか。普通の会社はあれほど一生懸命に広告を流したり、接客に力を入れたりして、自社の製品を買ってもらおうと努力しているではないか。なのに出版社ときたら、客がお宅の品物を金払ってほしいと言っているのに、どうしてその商機を積極的に逸しようとしてしまうのか。こんな有様では「出版不況」になって当然だ。客が買わない以前に店が売らないのだから。

歴史上いくつの作品が散逸してきたことだろうか。プラトンなどは奇跡的に残っているが、史上最大の学者の1人に加えてもよいあのアリストテレスですら、exotericな著作はほとんど現存せず、現在『アリストテレス全集』と呼ばれているのは講義草稿か講義ノートの寄せ集めを紀元前1世紀にロドスのアンドロニコスが編集したものにすぎない。

文化の滅亡というものは、劇的な政治的混乱などを伴わなくとも、それを保存する努力が失われることで、あるとき気づいたら1つの文化がなくなっていた、誰も覚えていなかった、そのようにして起こる。きっと、これまで積み重ねられてきた日本語の文化遺産も、誰も見向きもしなくなり、絶版になり、そして永久に消滅するのだろう。

というより、もうすでに多くの書物絶版になり、そのことを憂いる声も寡聞にして耳にしない点で、すでに少なくとも部分的には日本文化は滅亡している。

道徳的滅亡

中島義道氏の本を知る前からずっと疑問に思い、また憤りを感じており、また書くことすら怒りの苦痛が喚起されてほんとうは嫌なのだが (『うるさい日本の私』は図書館で借りたが、少し読んだだけでこの国の理不尽な醜い現実の描写に圧倒され、これを直視できるだけの精神力を持っている自信がなかったので途中で返却してしまった) 、電車の中で無意味な車内放送が毎日流れている時点でこの社会の道徳は終わっている。

たとえば、「駆け込み乗車はおやめください。ご理解とご協力をお願いいたします」などと、毎日放送している。これってふつうに狂った事態ではなかろうか。

まず、「おやめください」と言っているのにもかかわらず、実際は文字通り毎日多くの人間が駆け込み乗車(など)をしている。しかし「注意」するだけで、それに対する負の制裁はない。それどころか、駆け込み乗車をしてない我々有徳な行為者もまた毎日のように説教を聞かされるのだから、駆け込み乗車をしても説教され、しなくても説教され、結局駆け込み乗車なんてしたってしなくたってどうでもいいことであることを示してしまっている。そうでないなら1人くらい見せしめに轢いてみたらいいじゃないかと、皮肉でもなく心からほんとうにそう思う。

同じことは高校時代の学年集会でも感じていた。学年の全員に向かって教師が「髪を染めるな」と注意するのである。髪を染めてはいけない校則の是非についてはこの際どうでもよい。問題なのは、なぜ髪を染めていない私まで髪を染めるなと説教されなくてはならないのかという点だ。というのも、パンツを履いている人に対して「パンツを履け」と注意する人がどこにいようか。私も毎日それこそあいさつ運動のように教員やすれ違う人全員に「パンツ履いてください。ほんとうに履いてるんですか? 今から確認していいですか?」と問うべきだったのであろうか。それを狂気と呼ぶならば、狂っているのは日本の道徳観である。

駅の放送の話に戻るが、録音の声でも十分イライラするが、ライブ音源で駅員が注意する場合には、駅員の声から乗客にイライラしているのが伝わってきて、こちらも釣られてイライラしてしまう。

また、不審物を見かけたら通報してください式の注意喚起も、何が不審物なのかわからないのだから意味がわからない。だって、誰かがポイ捨てしたペットボトルの中身が水なのかサリンなのかなんて、毒の専門家でもない私にわかるわけがない。他にも、「毎日がテロ特別対策」の理不尽さについてはかつて森達也も言っていた。

こんなことならば、それでも何か流さなければ気が済まないならば、何かそれこそ「社会で役に立つ実学」の知識、たとえば簿記とか法律とか語学とか、なんでもいいがそういうものを放送して普及させたらいいじゃないか。あるいは広告の方が—私はAdblockを小学生のころから使っているが、それでも—訓戒的説教よりはマシだと思う。あるいはどうしても広告でも実学でもなく倫理的な内容を説教したいという欲求に駆られているならば、「君の理性の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」とか、別にそれ以外に功利主義でもなんでもいいが、倫理学の理性的な学説でも垂れ流した方がはるかに民衆の道徳的陶冶が期待できるのは確実である。

次に、放送の原稿の中で「ご理解とご協力をお願いします」の必要性を感じることがまったくない。まるで「ともあれカルターゴーは滅びるべきである」のように、最後にほとんど必ずこの語句が出てくるが、たいてい「マスクの着用をお願いいたします」とか「マナーモードに設定するようお願いいたします」などの言葉につづけて出現するのだから、すでに「お願い」をしているのである。すでにお願いをしたあとで「ご理解とご協力をお願いします」と念押しする必要はどこにあるのか。

さんざん「知の欺瞞」だの「哲学からの無意味な命題の追放」だのをしている割に、まず駅と電車の中の放送という、発話行為・言語行為として見てもなんも意味も価値も見出せない世の不正には賢者の方々はダンマリなのだろうか。

かつて赴いた博物館では、コロナについての注意喚起が文字通り絶え間なく大音量で流れていたので、集中できず30秒で展示室を後にして帰宅した。注意喚起に注意を向けていては展示に注意を向けることができないのである! つまり、注意喚起とは無視されることを前提として設計されているのだ!


Image by S. Hermann / F. Richter from Pixabay

終末

なるほど、こんなことが気になる私はマイノリティなのかもしれない。いつの時代でもマイノリティは迫害されるものだ。そして、世の中は絶対に変えられない。環境も絶対に変えられないから、自分を変えるか死ぬしかない。

しかし、どうして世界はこんなにも生きづらいのだろう。価値ある文化も道徳もどうして滅亡してしまうのだろう。

私は弱いから生きづらい。しかし、それでもこの世に生まれてきた意味があるとするならば、神を信仰することでしか問題は解決できない。

今は苦しくても、来るべき世界ではきっと幸福に暮らせる。そう信じるほかない。天国には車内放送が存在せず、静かにときを過ごせたらいいと思う。天国では古今東西の書物が絶版にならずそろっていたら楽しいだろうと思う。

他にも、もし天国があるなら、ソクラテスやホッブズとか、過去の哲学者に会いたい。ホッブズは信仰を擁護したけれど唯物論者だからもし天国が地上とは異なる世界にあるなら不満だろうけれど。ソクラテスも徳を持って生きたのだから、たとえ天国にはいなくてもLimbo? かどこかにはいていつか会えたらいいと思う。天国ならば寿命は永遠なのだから、人気者の哲学者のもとにもいつか訪問することができると思う。

神はなんでもできるのだから、御心ならば、この世の苦しみに耐えますから、来るべき世ではささやかな幸せを、しかし道徳の規定根拠としては道徳法則に従い、そのうちで許されるだけのこの利己的な幸せをお許しいただけたらと思う。

来世に希望を持っているから、私は死ぬのが怖くない。もちろん自殺したら天国に行けないから自殺しないけれど。

考えてみたら、幼稚園くらいのときにも、教会付属の幼稚園だったからか、天国についてよく考えていた記憶がある。家族は仏教だったから、地上に日本と外国があるように、天国というところにはイエスさまの国と仏教の国があるのかな? といかにも子どもらしい素朴な考えを持っていたのも覚えている。

地獄というものについては、異教徒や罪人は地獄の炎の中に入れられてしまうのか、異教徒の友達とは死後に会えないのか、それがどこまで確実なことなのかは議論の余地があるかもしれないけれども、ただ神だけを信じることしか、今の私には道が残されていない。


2022-12-07 執筆
2023-04-11 誤記を訂正

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