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正義の暴走よりも語義の暴走を憂う

白熱教室: これから定義の話をしよう

Twitter などで「正義の暴走が危ない」などの言葉を聞くたびに、「正義って英語で justice だけども、just であることが justice なのだから、justice が暴走することってありうるの?」と思う。

賛成とか反対とかする以前に、まず問題の吟味から始めるのが賢者であり有徳な行為者であるから、まず「正義の暴走が危ない」という説そのものについてゆったり考えてみようではないか。

Justiceが暴走することは概念の水準で不可能では?

本稿の第1文ですでに言いたいことは言ってしまったのだが、jusitce というのは just であることなのだから、暴走してしまったらそれは「just ではなくなった」ということになり、∴ 「justice でもなくなった」ということになり、あたかも生きている人は死を体験 (少なくとも報告) できないのと同様に、justice は暴走した瞬間に justice でなくなるのだから、justice の暴走は不可能なのではなかろうか。

別に私は英語ネイティブでもなんでもないのでそんなに偉そうなことも言えないのだが、thesaurus で引くと justice の同義語は fairness とのことである。日本語で別訳した場合、「公正の暴走が危ない」とか「公平の暴走が危ない」という表現が自家撞着的であることはお分かりだろう。

ただし、同じ justice でも「司法」などの意味ならば、「司法の暴走」という言葉は普通に通用する。


Image by Andreas Lischka from Pixabay

道徳なら暴走可能

それでは日本語話者が「正義」という言葉で指示しているのはどのような概念なのだろうか。

強いて言えば英語の moral に近いのではないだろうか。まさしく Friedrich Nietsche は ressentiment が暴走すること、祖先への負い目が暴走すること、良心の呵責と禁欲主義が暴走することを『道徳の系譜』のテーマにしたのだから。

「暴走すべきでない」という道徳は暴走しうるか?

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