哲学的断片集6: 神学と宗教哲学
日本は実在しない
聖書には日本について何も書かれていないから, 聖書は無謬であると仮定したとき, 日本は実在しない. 厳密には無記が「偽」だとは限らないが, しかし偽ではありうる.
聖書と現実が食い違うとき, 現実の方が虚構なのではあるまいか? この世界も私の存在も全部ウソなのではあるまいか?
しかし未来は予知不可能である. 聖書に日本が書かれていないという過去は変えられないが, 日本にこれからキリストが再臨するという可能性は残り続ける. 終末論は終末のときまで常に真でありうる. キリストの再臨は近い.
世界に欺かれていないという保証
道徳には「世界に欺かれていないという前提」が必ず必要である. たとえば, 一般的に言って, ある人があることを望んでいるならば, それを手助けすることは道徳的に善であろう.
「カレーの辛口は嫌いで甘口が好きです」と言う人に辛口ではなく甘口を与えることは善いことである. しかし, もし世界にいる私以外の人類全体が嘘をついていたらどうするのか? あるいはその人がもし本心と反対のことを言わされる魔法をかけられていたとしたら?
本当は甘口が嫌いな人が偽って甘口を欲していると言うかもしれず, それに従って甘口を渡す行為は, 他者の苦痛を増大させているという意味で, 実は悪だったとしたら?
そう考えるとキリがない. 「最後の審判」のような法廷を想定したとき, このように世界全体が欺いていた場合には, それに騙されて他者を不幸にしてしまった人が咎められることはないとするしかないと思われる.
進化論を学校で教えるべきか
進化論を学校で教えることは倫理的に許されるか? 許されると考える.
科学とは語呂合わせのようなものに過ぎない. すなわち, ただ現象をわかりやすく簡潔な法則性においてまとめたものに過ぎない. 科学はすべて「真理」であるなんて Richard Dawkins くらいしか言わないであろう. 世界は5分前に化石ごと創造されたかもしれない. その可能性は常にありうる. たとえ科学的には無意味な仮定であるとしても.
科学では進化論を前提とする, それでいいではないか. 真理とは科学なんてつまらないものを超えたところにあるのであるから. 科学はただ科学に特有の方法論で現象を解釈するだけであって, 創造説とは別の次元にある.
科学とは単なる言語ゲームであり, 実用的な道具に過ぎない. 創造論は端的な真理を, やがてキリストが再臨するときに証明される真理を告げている. 創造論のキモは誰かが生命を創造したということではなく, 神が生命を創造したということである. それはただの事実ではなく, 絶対的価値としての奇跡であるから.
神の価値論的証明
「道徳は存在しない」と述べた人は「不道徳だ」として非難される. これとほとんどまったく同様の事態が, 「神は存在しない」と述べた人が火あぶりにされてきた歴史である.
なぜ道徳的反実在論者と無神論者は迫害されがちなのか? それは道徳はその概念自体に「この存在は善い」という価値判断が含まれており, 道徳の実在を否定する者は道徳実在論者の認める価値を毀損したとみなされるからである. 同様に, 神はその概念自体に存在の価値が含まれているため, 無神論者のただ単に事実問題について述べたに過ぎない言葉は価値判断へと転化してしまう.
「証明」という用語は厳密には不適切であるが, 「神の存在論的証明」と構造が似ているため, 便宜的に「神の価値論的証明」と名づける.
一切の禍が滅びたとき善は可能か?
倫理の典型例は「人助け」である. ならば, 「助けるべき人」がいなくなったとき, 人助けという「価値ある行い」ができなくなってしまう.
たとえば, 天国に苦しみはないはずである. というより, 天国の概念とは普通はそのようなものであろう. 人助けが他者の苦痛の除去を意味するなら, 天国において人助けを行うことは不可能である.
この問題をどう考えるべきか?
『マタイによる福音書』5:3 には「霊にあって貧しい者たちは幸いである; 天の王国は彼らのものであるから」とある (※1).
※1: Deutsche Bibel Gesellschaft のUBS GNT5 からの拙訳. ちなみに, よく指摘されるように, 「心の貧しい人」はやはり誤訳とみなさざるを得ないのではないか? 第1に, おそらくこの訳は「τῷ πνεύματι」を「限定の与格」と取った —すなわち「霊という点で貧しい」と取った— のであろうが, そもそも πνεῦμα が豊かであるとか貧しいとかの意味がよくわからない. πνεῦμα の量の大小 (単数形なので数ではない) を述べているのであろうか? しかし, 聖書中で, 聖霊が降臨したこと, つまり霊の有無が問われることはあるとしても, 霊の多い少ないが問題になる場面はどれほどあっただろうか? 第2に, 『マタイによる福音書』全体の文脈の中で「心の貧しい人」が幸いだとされるのは整合性に問題がなかろうか? よりにもよってあのマタイで「心の貧しい人」が天国を継ぐなんて唐突に過ぎる. 与格には場所を表す用法があるのだから, 「霊のもとにある」と訳してもよいはずである. 貧しくても霊のもとにある人々を天に送る方がマタイ福音書としてははるかに自然であろう. (2023-04-28 訂正. 場所の与格は詩でしか使わないそうなので関係の与格等にする. 同日追記: 「霊という点で貧しい」とはどういう意味なのか? 貧乏神じゃあるまいし. 2023-05-03: 文意を明確にするため, 限定の与格に従った直訳を「霊において貧しい」から「霊という点で貧しい」に変更. 2023-11-16 追記: 田川建三『イエスという男第2版』作品社、2004年、72頁によれば、「『貧しい者』という表現を経済的社会的な意味に用いず、神に対してへり下った者の意味に用いる例は、ユダヤ教敬虔主義者のもの言いによく見られる。たとえば前一世紀に『ソロモンの詩』とよばれる一群の詩をつくった敬虔主義者の集団は、自分たちをしばしば『貧しい者』と呼んでいる」とのこと).
貧しいものたちが幸いであるなら, 我々はたとえば公的な福祉政策において貧困対策をしなくてよいのであろうか? 貧者を減らすという道徳的善の道具として貧者は存在するのであろうか?
断じてそうではない. というのも, 幸いなのは「霊にあって貧しい者たち」であり, この者たちを「霊にあって豊かな者たち」にすることはむしろ推奨すべきであるから.
天国においては「霊にあって貧しい者たち」はもはや存在しない. そこでは「霊にあって豊かな者たち」になっているはずであるから. なぜなら, 天国に苦しみや欠乏があってはおかしいから.
ゆえに, 天国においては苦痛・禍を減らす過程としての倫理的実践はできないはずであるが, すでに幸福の実現した活動を義人たちがともに楽しむのである. ちなみにこれは Aristotelēs が『ニコマコス倫理学』第10巻第6章から第8章にかけて扱った「実践と観想について」の問題と重なる. Aristotelēs にとって神が幸福であること, 自足的な神は倫理的実践なんてまったく必要としないということは自明であった.
いやまあこんなこと Nietzsche が聞いたら「キリスト教の本質がわかっていない」と言って怒りそうですけどね.
なぜ私は神を信じるのか
なぜ私は神を信じるのか? 正直に言えば, 奇跡を経験したからである. しかし, その奇跡は語り得ない. 語ったら単なる妄想として扱われてしまうから.
たとえば何か珍しい出来事が起こり, それをきっかけとして神を信じるのだとする. しかしその珍事は科学的に見れば, 偶然あるいは必然として扱われる. 前者の場合は「それはただの偶然に過ぎない」として一蹴される. 後者の場合も「それは科学法則に従った必然的出来事に過ぎない」と言われるはずである. しかし信者はそれに対し「その偶然がこの私に起こったということが奇跡なのだ」とか「その必然的出来事に出会えたことが奇跡なのだ」とか述べて反論するであろう. けれども今度は科学の側から見ればそれはただの心理学的事実に還元される. もちろん「だからその心理学的事実が起こったことがまさに奇跡なのだ」と言いたくなるであろう. しかしそれは語り得ない. 語り得ないことについては沈黙しなければならない.
2023-04-21 執筆
2023-04-28 訂正と追記
2023-05-03: 表現修正
2023-11-16: 追記
BGM: Itto, Jinmenusagi, feat. 唾奇「だいじょうぶ」
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