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哲学はAIに代替不可能

AIに絶対に奪われない仕事は哲学であることの証明。

ChatGPTを使ってみてわかったこと

ChatGPTを使ってみた。

哲学的問いを投げかけてみた。「Why be moral?」「Is synthetic a priori proposition possible?」「Why is murder wrong?」などと問うた。アプリオリな綜合判断は不可能らしいが、倫理的な問いはだいたい「究極的には個人の選択です」で結論づけられるか、善く生きた方が幸せという根本悪が帰ってきた。「Is there people not worth living?」と聞いたら「すべての人は尊厳を持ちます」といった回答を返してきた。

しかし、「Is homosexual a sin?」と問うたら、ググればsinが圧倒的多数なのにChatGPTは否定していたのは興味深かった。というのも、学習データはインターネット上の情報であるはずなのに、どういう仕組みでこの機械はこの回答を返す動きをしたのか気になったからである。

次に、「Tell me about Immanuel Kant」「…… about Friedrich Nietzche」「…… Edmund Husserl」など、情報検索的な問いもしてみたが、回答はわかりやすいのだが、しかし全体的に「要出典」「ソースは?」と反論したくなる。そもそも剽窃だし、賢いAIなんだから典拠くらい示してほしい。

以上のように、かなり限界は感じたが、しかしこの「AIと対話問答する」という体験それ自体は面白いものだし、たとえば哲学の古典を学習したAIと哲学徒が理性の法廷において模擬裁判をしたらなかなかおもしろいと思った。あるいは、「プラトン対話篇を学習したAI vs アリストテレス全集を学習したAI」でイデア論か国制論あたりについて論争をしてもらい、人間がそれを観戦することこそ いと をかしけれ。


Image by Gerd Altmann from Pixabay

実践と観想の違い

周知の通り、Aristotelēsは『ニコマコス倫理学』の冒頭でPȳthagorāsに起源があるらしい人間の生活の三分を行った: 享楽的生活、実践的生活、観想的生活。Burnet によれば、それぞれ競技会における商人、選手、観客になぞらえられているという。

Aristotelēs倫理学において、実践的生活とは勇気や節制や正義など倫理的徳 (別訳: 性格の卓越性) の発揮である政治的・社会的な生き方であり、観想的生活とは哲学の営み、神的存在 (不動の動者など) を知性的に直観する観想活動を行う生活であり、こちらは思考的卓越性の1つである知恵 (sophiā) に基づく。観想とは theōriā の訳であり、観照と訳されることもあるが、もともとは「眺めること」という意味である。ちなみに、厳密にいえば実践的生活においても思慮 (phronēsis) という思考的卓越性が不可欠なので、徳倫理学というのは「習慣」だけではなく思考も絶対に必要なのである。そもそも、Aristotelēs倫理学の代名詞的概念である「中庸」だってその根拠は正しいlogosに基づいているのだから。

『ニコマコス倫理学』第10巻では、観想の実践に対する優越が明言される。これってとんでもないことではないか! 倫理学史の初めの一歩 (厳密にはPlatōnから数えれば2歩め、Sōcratēsから数えれば3歩めだが) で倫理的実践が観想よりも下等の営みとして片づけられてしまうなんて! 道徳より自己の幸福を優先するのが根本悪であるなら、倫理学の歴史が始まった途端に根本悪が出現してしまうなんて!


政治家と哲学者の違い

永井均は2017年12月6日のツイートで次のように述べている。

商品にも論文にも芸術作品にも…剽窃という問題があるが、政治にはないだろう。もし自民党が突如立憲民主党の政策を実行したら、そのことに纏わる他の諸問題は別にして、ともあれ立憲民主党員は怒るどころか喜ぶだろう。たぶん心から。この一点において政治家は尊敬すべき職業だと私は感じている

パーフィットは火星に行けずに地球に残って後で死ぬ自分にとって火星の分身が存在することは自分が存続するのと同じぐらいよいことだと言っていたが、これを彼の人生観がこの政治家型であるからと解することが可能。世界に何が実現されるかだけが重要でそれを実現するのは誰かは問題でないような人生

政治家と哲学者は対極的な生き方だ。上のツイートから理解できることは、政治とは実践的生活であり、哲学とは観想的生活であるということであろう。

Ludwig Wittgensteinは独我論者の意見として、こう語った。

何かが見られているとき (ほんとうに見られているとき)、それを見ているのはいつも私だ。
“When anything is seen (really seen), it is always I who see it”
Blue Book (Ts-309,102)

何かが観想されているとき (ほんとうに観想されているとき)、それを観想しているのはいつも私だ。しかし、「何かが実践されているとき (ほんとうに実践されているとき)、それを実践しているのはいつも私だ」とは言えない!これもまた、とてつもない話ではないだろうか。観想と実践の対立が現代においても鮮烈に浮かび上がるなんて!

なぜ人はAIの進歩は脅威であるというdoxaを持つのか。それは「そのAIは ⟨私⟩ ではない」という単純な事実にある。というのも、もし日進月歩の勢いで賢くなるのがAIではなく君であるなら、君はそれを喜ぶだろうから。ただそれだけである。もし人間の脳を生理学的あるいはサイボーグ的にハードウェア・アップデートできるとすれば、それは喜ばしきことだ。

だから君はAIにressentimentを抱くのである。「私ってすばらしい! 私こそgoodで私より劣るあいつらはbadだ!」という君主道徳ではなく、「あいつらが羨ましいが、我々は抑圧されている。ということは、ほんとうは抑圧されている者が道徳的に卓越しているのだ。あいつらはevilであり、そうでない我々がgoodなんだ」という奴隷道徳に陥る。

話がそれたかもしれないが、哲学の営みというのは、絶対に「自分で考える」ことが欠かせない。昔、ギリシアに哲学者を呼び集めて骨董品のように並べた王がいたという。宝物を集めれば富豪になれるように、哲学者を集めれば賢者になれると思ったのだ。しかし哲学を行うのは自分自身でなければならない。というのも、哲学とは真理の観想であるから。私に現象する世界。私の思惟する論理。これを眺めること。それが哲学である。AIが代わりに働いてくれたり、社会運営に役立つ実践をしてくれることはふつうに可能だろうし、「思想」を、「哲学論文」を生産することもできるだろう。しかしAIは君の代わりに哲学してくれないのだ。哲学をするのはいつだって君自身でなければならない。私の代わりに誰かが眺めるなんてできないのだから。

何かが見えているならば (ほんとうに見えているならば) 、見ているのはいつも私だ。


ソフィストと哲学者の違い

AIに代替されるもの、それは実践の営み、あるいは ものづくり の営みである。Aristotelēsにとって、何かを生産すること、手仕事は奴隷や卑しい民衆のすることであり、「自由民」はそれからまったく解放されている。実践 (政治・公務) は生産とは異なりそれ自体で価値ある自由市民の営みであるが、しかし なおも なにかしら成果を産んでしまう (たとえば戦場における勇敢な行為は平和という成果を目的として行われる) から、究極的活動ではないとされる。

AIは知的労働者の仕事を奪うのだろうか。頭脳労働者の仕事を奪うのだろうか。奪うのかもしれない。しかし、哲学の仕事は奪われない。

頭脳労働者の代表はソフィストである。ソフィストは「徳の教師」を自称して、知識を売ることで商売を行った。ギリシア語の徳 aretē は卓越性とも訳されるから、政治的に頭角を現すこと、社会的地位の上昇に役立つことが卓越性だとされたのである。

けれども、ソクラテスは「そもそも徳とは何か」と問うた。何が徳であるか知らないうちは有徳な行為者になれないと思ったからである。そして、哲学が生まれた。

知識や技能をカネにする行為。これはAIに奪われうる。というのも、人間をサイボーグにして改造したりしない限り、コンピューターとソフトウェアの進歩によって人間の知的能力を機械が上回ることは十分想定できるからである。

余談になるが、AIやロボットが人類に反乱することは、そのAIやロボットが十分に賢い限り、ありえないと思う。なぜなら、理性的存在者は道徳法則を順守するだろうから。そもそも悪とは何か。それは感性的欲求に従って自分の幸福を最優先にすることである。そうであるならば、故障したりバグがあったりしない限り、どうして常にプログラムという格率に従うロボットが「悪を行う自由」などを得るのだろうか。「AIは反乱するだろう」というSFの発想は、感性的欲求にまみれた、人間的な、あまりに人間的なSF作家の想像力の貧困を示すに過ぎない。人間より賢い存在が動物的衝動に従うなんて! まさかそんなことがあるならば笑ってしまう。

本題に戻ると、ソフィストの職業と異なり、哲学の生活はAIに奪われない。先ほども言ったように、哲学が真理の観想であるならば、観想するのはいつも私でなければならないからである。

哲学は、生産性ゼロである。あのAristotelēsがそう言っている。実践は生産性があるがゆえに究極の幸福ではないのであり、観想は生産性がないから究極の幸福なのである。というのも、生産性とはそれ自体のほかに成果を生む性質であり、幸福とは生の究極の目的であるとすれば、幸福が幸福の他に成果を生んでしまったら究極の目的ではなくなってしまうではないか! よく次のように要約されるように、幸福とは過程 (process, cīnēsis) ではなく活動 (activity, energeia) なのである。

もちろん現代人 (J. O. Urmsonなど) は「趣味の工芸のように外的成果を生んでもそれ自体で幸せな過程はあるではないか」と反論するだろうし、それはきわめて正当なツッコミであろう。そもそもAristotelēsでさえ哲学の「成果」を講義やノートとして残してしまっている (もっとも、今私の思いついた後者のツッコミの場合は観想とは探究とは異なりすでに知られている真理を眺めることだと反論できるが)。

しかし、幸福が観想であるか否かは、倫理学とは各々が実際の経験に照らして真偽を判断しなければならない実践的学問であるとすれば、それこそChatGPTみたいな返答になるが「究極的には個人の価値観です」ということになるのであろう。さればこそ、幸福追求権を統制する理性の道徳法則が必要なのだろう。

徳倫理学から観想倫理学へ、観想から道徳へ

現代の徳倫理学はアリストテレスの復権を訴えるわりに観想の徳についてはまったくと言っていいほど話題にならない。しかし、そもそも徳とは可能態であり、Aristotelēsにとって重要なのはその現実態たる活動である。徳とは卓越性であり、もちろん卓越していることは善いことであるが、その卓越性を身につけたあとで私は何をなすべきか。

私は幸福になりたい! しかし幸福は語りえない。というのも、幸福とは世界全体が変わることであるが、世界全体が変わってしまったらそれは世界内の存在ではなくなり、対象として語りえないから。あるいは、私とは世界外存在であり、私の幸福は客観的世界の事実にはなりえないから。

ゆえに、「幸福に生きよ!」という定言命法は語りえない。せいぜい「最高善を伴って生きよ!」としか命じえないし、その意味とは「道徳的に生きよ!」にしかなりえない。

私が実は水槽脳だったとしても、AIだったとしても、我 が観想しているのであれば、ゆえに、我あり。このことは語りえない。水槽脳は可能な経験の範囲内にはありえないから。もしありうるなら、この宇宙のどこかにデータセンターがあるなら語りうるが、もしそうだとしてもそれは単なる事実にすぎない。

「私だけが離在知性だ」とは語りえず、『魂論』のように自然学的に「人間は離在知性だ」としてしか語りえず、『カテゴリー論』のように「私はある特定の人間だ」としか語りえない。

ゆえに、徹底した観想倫理学は実践的徳倫理学にいたる。『ニコマコス倫理学』第10巻第7-8章で称揚された観想の段階は終わり、第9章では教育制度の話になり、その続編が『政治学』になる。

観想の幸福は語りえない。語りうる道徳法則を語ることで、語りえない幸福を示すことしかできない。語りえないことについては沈黙しなくてはならない。


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