哲学は何の役に立つのか
いきなりwhataboutism
哲学は何の役に立つのか。あるいは人文系学問は何の役に立つのか。
いきなりwhataboutismから始まって恐縮であるが、「役に立つ」の意味を確定するために哲学以外の諸々の活動・仕事に関してそれが何の役に立つのかから検討したい。
スポーツは何の役に立つのか。サッカーは球を蹴って何の役に立つのか。バスケは球を叩いて何の役に立つのか。おそらく何の役にも立たないと思うし、オリンピックも何の役にも立たないので廃止していいだろう。
アイドルは何の役に立つのか。お花屋さんは何の役に立つのか。パティシエは何の役に立つのか。ディズニーランドは何の役に立つのか。アニメは何の役に立つのか。これらの職業についても、なんら「実益」はないように思われる。
天皇は何の役に立つのか。天皇制ファシズムのもとでなら国家権力の機関として役に立つ場面はあっただろうが、象徴天皇制のもとで天皇は何の役に立つのだろうか。実際、どうでもよいくだらない週刊誌的欲望ばかり臣民に対して喚起して、国益よりも悪影響の方が大きいではないか。「お気持ち表明」が何の役に立つのか。
私の存在は何の役に立つのか。君の命は何の役に立つのか。人生は何の役に立つのか。
「それは何の役に立つのか」という問いは何の役に立つのか。
以上のように、たとえ哲学が役に立たないとしても、世の中には役に立たない仕事や活動ばかりあることがわかる。
「役に立つ」とは何か
Aristotelēsによれば、あらゆる行為や探究は何らか善を求めている。たとえば馬具制作は乗馬の役に立ち、乗馬は統帥の役に立つというように。
それでは究極の目的、すなわち最高善とは何か。我々が究極の目的を幸福と呼ぶのであれば、何かが役に立つかどうかは幸福にとって役に立つか否かが基準となる。
たとえば農業は生存の役に立つが、善く生きるためには生きる必要があるから、幸福の役に立つ。
幸福とは何か
問題は、幸福とは何かということである。
Aristotelēsの (Pȳthagorāsの?) 3分法に従うと、享楽的生が幸福であるならば、たとえば、味覚という感性的欲求に従うのが幸福であるならば、料理人の仕事は役に立つことになる。あるいは、政治的生が幸福であるならば国家で重要な地位を占めることのに役立つ資源や「実学」が端的に役に立つものになる。観想的生が幸福であるならば、哲学が役に立つことになる。
ところで、「これこれが幸福である」と語るためにはどうすればよいのだろうか。幸福は語りうるのだろうか。
幸福は特定の生を指すことに議論の余地はないだろう。というのも、たとえば、「幸福とはリンゴのことだ」と言われると意味がわからないが、「幸福とは道徳的に生きることだ」と言われると意味がわかるから。
幸福と快楽はいかなる関係を持つのか。一面では「快楽を感じているがこれは幸福ではない」という発言は理解可能であるように思われる。しかし、たとえば、「飲酒と酩酊で快楽を感じることは幸福とは言えない」といった場合、それを「飲酒と酩酊で快楽を感じることは、健康に対する悪影響という苦痛を伴うし、そもそも酩酊よりも高次の快楽がある」として説明するならば、これはある種の「功利計算」であり、結局幸福とは快楽の最大量の言い換えに過ぎないのかという疑念が浮かぶ。
あまり関係ないかもしれないが少し関係するかもしれない余談をするならば、「(道徳的に)善い」というのは様相に過ぎないのではないかという疑惑がある。Kantがいう「実在する100ターレル」と「実在しない100ターレル」のように、「善い100ターレル」も「悪い100ターレル」も、どちらも寸分違わず100ターレルなのではなかろうか。ならば、価値とは何なのだろうか。
話を元に戻すと、快楽とは正負・大小を持つ量であるが、幸福とは究極の目的として方向性を持つ。けれども、快楽といえども、数直線のように1つの軸しかないのではなく、相互に独立的な価値 (楽しさ) があり、dilemmaに陥りうるのではないか。
結局のところ、「快楽に従わないという快楽」のような表現もできてしまうのだから、快楽を「特定の身体的感覚」などのように限定しない限り、恒真的な表現になってしまう。
「役に立つ」ことと倫理
道徳の場合、諸個人が並立的に存在するからこそ、道徳を語るためにはKantの「君の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」というような法則しか客観的・普遍的に定立できない。誰にとっても一致して善と言えるものでなければ客観的な善、普遍的な善と呼べないから。そして客観的でも普遍的でもないものについては語りえないから。
それでは、「私の役に立つ」ことと「君の役に立つ」ことは一致するのであろうか。自己の幸福を優先して他者の幸福を顧みないことは道徳的悪である。自己と他者の幸福が常に普遍的に一致するならば道徳的悪は実在しないが、もし道徳的悪が実在するならば、自己の幸福と他者の幸福が一致していないことになる。そうであるならば、「私の役に立つ」ことと「君の役に立つ」ことは一致しない。したがって、「役に立つ」ことは客観的に語りえない。
しかし、私の先ほどの「役に立つものとは幸福にとって役に立つものである」という仮定が誤っていたのではなかろうか。「役に立つものとは道徳にとって役に立つものである」とするならば、普遍的立法の原理として妥当する行為に役立つものが普遍的に客観的に役立つことになる。
けれども、客観的な善などというものはありうるのだろうか。たとえば、自己犠牲は道徳的行為であるとされる。しかし、全員が自己犠牲してしまったら、全員が犠牲者となり、「人助け」という当初の目的は果たされない。永井均のいうように、これは「自己破壊的」である。
そもそも他者の幸福に資することをすることが善だとして、その他者の間で幸福に差異があり、相互に対立さえしうるならば、何が善なのだろうか。
このような諸問題が解決しないうちは、哲学は何の役に立つのか、私にはまだわからない。
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