哲學思想日記 2023-W43— 就活と賣春、嚴密に正しい倫理學の方法、カルト宗敎
2023-10-23/29
社會
特定商取引法を普通に無視して「勸誘なのに勸誘だと言わない」セールスパーソンが珍しくないのはこわいね。
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学部時代の會社說明會で「就職は結婚のようなものです」と言われたが、就活って賣春みたいだと思う。風俗孃は身だしなみを整えねばならない。風俗孃は愛想良くしなければならない。風俗孃は自己PRできねばならない。新卒の若い體を賣るために何十社も囘らねばならない。
哲學
これって「因果關係とは何か」という哲學的問題ですよね。稻光は雷鳴の原因なのか? P 波は S 波の原因なのか? けれど、こういう「科學哲學」になるとすぐに「それは日常言語の多義的用法の問題だ」と言いたくなってしまうので私も「言語哲學に頭をやられ」てきたのであろう。
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『大森荘蔵著作集』の月報に載っていた、「砂糖が今甘いというのはどういう意味なんでしょう? 「舐めたら甘い」というのではなく、砂糖は舐める前から甘いんです」という發言の意味がよくわからなかったのだが、最近わかった氣がする。
つまり、「〈砂糖が甘い〉とは〈舐めたら甘い〉という意味だ」と言う人がいたら、「じゃあ舐める前は?」と質問できる。片や、「舐める前にも甘い」と相手が答えたら、「舐めたら甘い」という定義は不十分だということになる。片や、「舐める前には甘くない」と相手が答えたら、「しかし〈この砂糖は甘い〉と舐める前にも日常的に言うではないか」と再返答することになり、堂々巡りになる。いずれにせよ、「甘い」には多義性があることになる。今實際に舌の表面に感じている甘さと、まだ舐めていないときにも使える甘さと。
ヨコ問題的には、「世界人口は80億人くらいなのに、その中でなぜかこの〈私〉の舌に感じる甘さだけが本當に甘い!」という驚きにつながるが。
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味がするとき、それは3次元の空間的位置を持つ。
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ヘーゲルってどこが面白いのか本當に何一つわからないのだが、しかし、「表象的理解」という用語は、たしかにこういうことあるよなと思い、わかりやすい。
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そうか、歷史學は過去を扱うが、過去の1時點の瞬間を扱うのではなく、必ず幅のある期間を扱うのだ! そうすることで(必要條件)、出來事の經過の記述と說明という歷史學の基本的テーマが可能になる。思想史は出來事の經過を扱わないが、學科としての歷史學の主要な對象はやはり「この世界で起こった出來事」であろう。
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『存在と時間』を「ザイ・ツァイ」と略すと業界用語っぽい。Sein und Zeit なので。
倫理
レーニンは「觀念論と觀念論が鬪うとき、勝つのは唯物論である」と言ったが、倫理學と倫理學が闘うときに勝つのはニヒリズムなのではあるまいか?
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德倫理學者はなぜ揃いも揃ってアリストテレースの理論を土臺にしていて、プラトーンをあまり讀まないのかということがずっと疑問だ。『ソークラテースの辯明』なんか本當に典型的な古代ギリシア社會の德の倫理の表明だと思うけれど。そういう意味では Karl Popper の “The Open Society and its Enemies” における tribalism 批判と德倫理を關連させて考えると面白いかもしれない。誰かやっていいですよ。
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哲學的ゾンビに僞善者はいない。
なお、『哲學的斷片集 3: 研究倫理と僞善について他』に書いたが、なぜか現代日本語の「僞善」には「ありがた迷惑」とか「地獄への道は善意で舗装されている」みたいな語義が付けられてしまったように思うけれども、今私がここで使っている僞善は「惡い動機に基づく善行」という意味である。
惡い動機はおそらくクオリアであるから、哲學的ゾンビは、定義上、惡い動機に基づく善行、つまり僞善ができない。善い動機はたぶんクオリアであるし、道德法則に對する尊敬の感情もたぶんクオリアだから、それを感じているとき、「我あり」という端的な事實も認識していることになる。もちろんカントみたいな高尚な感情ではなく、功利主義的な快苦についても同樣のことが言えるが。しかし「功利主義者」という人たちは自分の快樂だけではなく「再大多数の最大幸福」(私は1人しかいないのに!)を 神聖な定言命法 にしていてえらいと思う。
ちなみに、前段落の最後の一文は最初「神聖な定言命法」とカギカッコで書こうとしたが、それだと直接引用みたいになってしまうし、山括弧をつけると別の意味が生まれそうなので、太字にしておいた。歐文のイタリック體みたいなものだと思ってください。
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もし私が何か犯罪を行ったなら、逮捕されて裁判を受けるより、その場で射殺してもらった方が「人道的」扱いを享受しているという「倫理的直觀」がある。
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「どうして責任能力のない人を死刑にしてはいけないのか」と問う人がいたら、そのたびごとに、「どうして罪のない人を殺してはいけないのか」と尋ねたい。人は不満を覺え、倫理學を敎わっていると思わないかもしれないが、これこそ嚴密に正しい倫理學の方法なのである(cf. Ludwig Wittgenstein『論理哲學論考』6.53)。
宗敎
大變申し譯ないことに私はカルトというものが大好きなので、よくカルト敎團の資料や新興宗敎の動畫とかを見てしまう。最近某特定の宗敎團體の動畫も見て、なかなか話が面白いな〜、自分もこんな感じでわかりやすく說明できたらな〜と思った。
話が少し變わるが、以前(『哲学思想日記 2023-W33』)、「私が1970年前後に生まれていたら、ほぼ確實にオウム眞理敎に入っていた」と書いた。しかし、オウムのイデオロギー資料とかを見ていつも思うのが、どうしても「輪廻轉生」というところで引っかかってしまうということ。それはきっと私がキリスト敎(プロテスタント)の幼稚園で育った人間だからだと思う。おそらく佛敎徒の皆さんにとっては復活とかの方が意味不明なんでしょうかね? 創價學會のウェブページで敎義のところを見たときに感じたのも、「いのち」みたいな漠然とした話ばっかでつまらないなということだった。私はもっと絕對神とか魂の救濟とか世界觀とかの話を期待してしまう。世界觀という意味では娛樂として世界の神話について圖書館で本でも借りて讀んでみたいけれど。
これも前にもした話だが、初代敎祖が死んだ後の敎團維持って大變そう。本田宗一郎亡き後のホンダ、Steve Jobs 亡き後の Apple ですら、企業というのは營利という目的でまだ維持できるけれど、宗敎にはやっぱカリスマじゃないと難しい役割ってあるからね。もしかしたら、カリスマが必然的に1代限りだからこそ新興宗敎というのはいつまでもなくならない(=いつまでも宗敎の新興がなくならない)のかもしれない。
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オウム眞理敎の敎義なんかもほっとくと史料がどんどん散逸していって日本の歷史上〈なかったこと〉になってしまうのではないか? というより、世論はむしろそれを望んでいるのかもしれないが、學術的見地からは、記錄を殘しておかないと、類比的に言えば、假にナチ時代の史料がすべて忘却・消滅されてしまったら、というような狀態になってしまわないか?
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こないだ『クルアーン』を讀んで、初めて「預言者ムハンマド」の意味がわかった。というのも、クルアーンの形式が想像と違ったから。
たとえば舊約聖書の中身って、ユダヤ教では「律法」「預言者」「諸書」、七十人譯以來の分類では「律法」「歷史書」「文學書」「預言書」の4つのジャンルに分かれるらしい(「旧約聖書」『世界大百科事典』)。でも、クルアーンってその中の「預言者」「預言書」の部分だけがずーっと續く感じなんだよね。「イザヤ書」とか「エゼキエル書」みたいなものがずーっと續いている感じ。だからある意味でシャーマン的でもある。啓示ってこういうことなんだなあ、という實感があった。
そして『クルアーン』の宗敎觀って、以外なほどキェルケゴールによく似ている。「最後の審判の日には、他の誰も身代わりにできず、たった1人でアッラーに對峙しなければいけない」という表現がたくさん出てくるから。
あと、やっぱり社會契約說ってモーセ契約の傳統の上に立つ發想なのかな、と思った。證明は難しそうですが。
物語
大丈夫だよ、ここは天國なんだから、もうご飯の心配はしなくて良いんだよ! それにもう死なないんだから、いつまでもみんなで好きなだけ遊んでて良いんだよ!
執筆:2023-11-16
Image by Heike Tönnemann from Pixabay
今日の一曲:What Makes You Beautiful / One Direction
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